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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第三章「将軍は嫌じゃ!断る!」

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将軍の仕事目録を見た日

将軍宣下の翌朝。


空は晴れていた。廊下に光が差し、庭の鳥が鳴いていた。何事もなかったような、ごく普通の朝だった。


秀忠は縁側で猫を撫でていた。


昨日のことを、もうなかったことにしようとしていた。無理だとはわかっていたが、猫を撫でていると少しだけ気がまぎれた。猫は将軍とそうでない者を区別しないので、その点においても良かった。


土井利勝が廊下の角に現れたのは、八つ半ごろだった。


表情が晴れやかだった。


昨日の儀式は無事終わった。あとはこれを渡せば自分たちの仕事は完了だ、という顔だった。秀忠にはわかった。ああいう顔の人間が何かを持ってくる時は、だいたい自分にとって良くないものを持ってくる。


「秀忠様。おはようございます」


「……おはよう」


「昨日の儀式、まことにお疲れ様でございました」


「うん」


「本日より、正式に将軍としてのお仕事が始まります」


「……そうですか」


「こちらに」


土井は一礼して、両手で巻物を差し出した。


秀忠は猫から手を離して、巻物を受け取った。


広げ始めた。


たん、と畳に当たった。転がった。伸びた。


秀忠はしゃがんで、転がる巻物を追いかけた。畳の上を転がって廊下に出た。廊下を転がってまだ伸びた。角を曲がりそうになるところで秀忠がようやく追いついて、手で押さえた。


立ち上がった。


廊下の突き当たりまで来ていた。


振り返ると、遠くに土井の顔が見えた。


秀忠は、来た道を引き返しながら巻物の中身を目で追った。


「将軍様の御政務について」という見出しがあった。その下に、びっしりと字が並んでいた。


一、朝の政務申し合わせについて


一、老中との定例議事について


一、大名謁見の作法および日程について


一、書類裁可の手順について


一、江戸城の警備体制確認について


一、朝廷への定期上申について


一、諸藩しょはんへの達しの手順について


続いた。続いた。まだ続いた。


秀忠は自室の敷居まで戻ってきたところで、巻物の端を踏んで止めた。一番最初に戻って、もう一度確認した。


「……これ、全部やるんですか」


「さようでございます」


「毎日?」


「はい」


「一年中?」


「お正月と、祭礼の日は多少……」


「多少、というのは」


「多少でございます」


秀忠は少し考えた。


「何割減りますか」


「……さほどは」


「三割?」


「もう少し……」


「二割?」


「……一割か、それ以下かと」


「十割は無理ですか」


土井が少し止まった。


「十割というのは、皆無ということでございますので……」


「何もないのがいいんですが」


「……それは将軍ではなく、ただの方でございますので……」


長い沈黙があった。


縁側から光が入っていた。猫が戻ってきて、巻物の端の近くで座った。猫は巻物に興味を示さなかった。正しい判断だと秀忠は思った。


やがて秀忠は、静かに、丁寧に、巻物をくるくると巻き戻した。


廊下の突き当たりまで伸びていたものが、手の中に収まっていった。どんなに長い巻物も、巻き戻せば元の形に収まる。


すっと、土井に返した。


「僕には無理です。お断りします」


土井は受け取った巻物を持ったまま、少しの間、何も言わなかった。


「……いや、もう将軍になっておられますので」


「なってしまったことと、できることは別の話では?」


「……法的には」


「法的には?」


「……お断りはできかねます」


秀忠は天井を見た。


猫が「にゃ」と言った。


秀忠は少しの間、天井を見ていた。土井は巻物を持ったまま、待った。老中たちが廊下の向こうに何人か立っているのが気配でわかった。


やがて秀忠が言った。


「……土井はどこですか」


「は?」


「土井利勝。呼んで……あ、あなたが土井でしたね」


「はい」


「じゃあちょうどよかった」


土井は「ちょうどよかった、ということは」と言いかけて止まった。


「これ、全部土井に渡します」


土井の手の中にあった巻物が、どこにも動かなかった。それは今、土井の手の中にあったからである。


「……今、すでに私が持っておりますが」


「そうか。じゃあもうそのままでいいです」


老中たちが廊下の向こうで顔を見合わせた。


「……つまり、殿は」


「確認が必要なやつだけ教えてもらいます。あとはよろしく、って老中の皆さんに言っておいてください」


「それは……将軍のお仕事を、臣下に委ねると……」


「向いてる人にやってもらうのが一番いいじゃないですか」


「……それは、そうかもしれませんが」


「僕は向いてない」


「……」


「わかってます」


「……」


「でも土井は向いてるでしょ。あとみんなも」


土井は巻物を持ったまま、廊下の向こうに立っている老中たちを見た。老中たちは土井を見た。


「……理にかなっているのでは」


誰かが小声で言った。


誰も否定しなかった。


土井利勝は廊下に出て、少し歩いて、柱の前で立ち止まった。


巻物を持っていた。


これを渡したら完了のはずだった。渡したのに、戻ってきた。渡すとは、そういうことではなかったはずだが、今手の中にあるのは確かにこの巻物だった。


「土井殿」


振り返ると、本多正信が廊下の角に立っていた。


いつからいたのか、わからなかった。正信はたいていそういう立ち方をしていた。


「正信殿。今の件は……」


「聞こえておった」


「あの、つまりこの巻物は……」


「秀忠様に渡した。秀忠様が土井殿に渡した。ということは」


「私が持っている、ということでしょうか」


「そうなる」


土井は巻物を少し持ち直した。


「これが将軍のお仕事であるなら、私が持っていてよいものか……」


「将軍の信任を受けた者が実務を担う、ということは、制度的に」


「理にかなっている、と」


「かなっている」


正信は淡々と言った。土井には、正信が何かを言いたいのかどうか、判断がつかなかった。


「正信殿は、今の件を、どう……」


「秀忠様が、丁寧に巻き戻された」


土井は止まった。


「丁寧に、と言いますと」


「廊下の突き当たりまで追いかけて、端を踏んで止めて、また最初まで戻って巻き直して。丁寧に、土井殿に返した」


「……それは」


「乱雑に返すこともできた。放り投げることもできた。将軍には、その権限がある」


「まあ、それは……」


「しかし丁寧に巻き戻した」


土井はその光景を思い出した。確かに、律儀なまでに丁寧だった。廊下を戻りながら、内容をざっと眺めながら、ちゃんと巻き直していた。


「……それは、面倒くさかっただけでは」


「面倒くさい時に、なぜ丁寧にするのか」


「……」


「丁寧にした方が面倒くさい。乱雑に返した方が、手間が省ける」


「それは……まあ、そうですが」


「この目録を作った者たちへの、敬意かもしれぬ」


土井は黙った。


正信が続けた。


「中身は断った。しかし、この目録を作るために費やされた労力には、敬意を払った。だから丁寧に巻き戻した、そういうことかもしれぬ」


長い沈黙があった。


「……なるほど」と土井は言った。


「そう思うか」と正信が言った。


「……どちらとも言えません」


「私も、どちらとも言えない」


二人はしばらく廊下に立ったまま、秀忠の部屋の方角を見ていた。


部屋からは、「誰かもっと向いてる人がいるはずなんだよなぁ……」という声が聞こえていた。


土井は「面倒くさかっただけかもしれません」とぼそりと言った。


「そうかもしれない」と正信は答えた。


「どちらが正しいかは」


「わかりかねる」


沈黙。


「……いつも、それですね」


「いつも、そうなのだ」



この日から、江戸幕府の政務は、驚くほど円滑に動き始めた。


有能な実務家たちが、正式な権限を持って動けるようになったからである。


書類は土井のもとに集まり、土井が整理して必要なものだけ秀忠へ回した。秀忠は「これはどっちがいいですか」と聞かれれば答えた。答えた後で「向いてる人が決めた方がよくないですか」と言うこともあったが、土井は「この件は殿のご判断が必要でございます」と言い続けた。秀忠はたいてい「じゃあ土井が思うのでいいです」と言った。土井は「殿がそうご判断されました」と記録に書いた。どこかに齟齬があった気がしたが、結果として政務は回っていたので、土井は深く考えないことにした。


後世の歴史家はこの一件を「秀忠の信任委譲の妙」と評した。


秀忠本人は自室に戻って布団を被り、「誰かもっと向いてる人がいるはずなんだよなぁ……」と天井に向かってぼやいていた。


向いている人間は江戸城にたくさんいた。ただ全員、将軍ではなかった。


◇後世の歴史家注◇

就任翌日に行われた政務の権限委任について「秀忠は就任初日より権限委譲の重要性を直観的に理解し、実務に長けた家臣への信任を即座に体現した」とする研究が主流をなす。「断ろうとしただけ」とする異説もあるが、傍証が弱いとして現在は少数説である。なお「十割減」「ゼロがいい」という発言についての言及は、どの論文にも見当たらない。また巻物が廊下の突き当たりまで伸びたという記録も、残っていない。なぜなら、記録係はその場にいなかったからである。

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