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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第三章「将軍は嫌じゃ!断る!」

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就任式から逃げ出した件

慶長八年、夏。


将軍宣下の儀式、当日。


夜明け前から江戸城は動いていた。


老中たちは朝食も摂らずに大広間の設えを確認した。畳の目は乱れていないか。勅使のための上座に埃はないか。列席する諸大名の着座順は正しく整えられているか。岡崎主水正は一人で廊下を三往復し、床板の軋みまで確認した。土井利勝は書類を抱えて走り回り、家臣たちに指示を出し続けた。


朝廷から派遣された勅使の行列が大手門を入ったのは、巳の刻を少し過ぎた頃だった。


大広間には諸大名がずらりと並んでいた。


厳粛。


その言葉以外、この場の空気を表す言葉は見当たらなかった。誰も咳払い一つしなかった。土井は上座と下座を一度ずつ見回し、一礼した。いよいよ、という気持ちがあった。ここまで来るのに、どれほどのことがあったか。だから今日だけは、うまく行くという確信があった。


主役だけが、いなかった。


「秀忠様が、見当たりません」


竹松の声は、できる限り小さかった。しかし廊下には誰もいなかったので、土井の耳には確実に届いた。


土井は一拍おいた。目を閉じた。三つ数えた。それから目を開けた。


「……探せ」


「どちらを」


「どちらでも。とにかく探せ」


「どのくらいの範囲で……」


「今すぐ探せ!!」


竹松は走り出した。走りながら「なぜこうなるのか」と思ったが、答えは出なかった。出ないことには慣れていた。


発見に要した時間、四半刻。


発見場所は、台所の裏だった。


江戸城の台所を三十年取り仕切る老料理人・松蔵まつぞうと、肩を並べて、土鍋の前に座っていた。


土鍋から湯気が立ち上っていた。


秀忠は椀を両手で持って、静かに飲んでいた。


「秀忠様!!今すぐ大広間へ!!」


秀忠は振り返らなかった。


「ちょっと待って。もう一口」


「勅使様が!諸大名が!お待ちです!!」


「わかってる」


「わかってるなら……」


「でも、この爺さんの味噌汁、なんか落ち着くんだよ」


松蔵は何も言わなかった。湯気の向こうで、ただ鍋の番をしていた。


「松蔵!!もう一杯はなりませんぞ!!」


松蔵は振り向いた。しわの深い顔に、何の動揺もなかった。


「将軍様がご所望でございます」


「将軍はまだ就任しておらん!!」


「……では、将軍になられるお方が、ご所望でございます」


誰も反論できなかった。


竹松は「……なぜでございますか」と言いたかったが、何が「なぜ」なのかが多すぎて、どれから問えばいいかわからなかった。それが出てこないまま、ただ立っていた。


松蔵は静かに、もう一杯よそった。


秀忠はそれを受け取った。両手で持って、少し冷ました。それから飲んだ。


台所の裏は静かだった。大広間の方から、人の動く気配が遠く聞こえたが、ここは別の場所のようだった。竈の火が低く燃えていた。朝の光が小さな窓から入っていた。


「……美味いな」


独り言だったかもしれない。秀忠は松蔵に向かって言っているようでもあり、誰にも向けていないようでもあった。


松蔵は「ありがとうございます」とも「恐れ多い」とも言わなかった。ただ鍋の火加減を確かめた。三十年、そうしてきたように。


大広間では今この瞬間も、百人以上が主役を待っていた。勅使は待っていた。諸大名は待っていた。土井は廊下で何かを決意しようとしていた。


秀忠は椀の底を見た。


やがて、立ち上がった。


「……行けばいいんでしょ」


「はい!今すぐ!!」


「わかった。ただ、終わったらまた来ていいですか」


「後にしてください!!」


「続きの分、とっておいてもらえますか」


「松蔵!!返事をするな!!」


松蔵は静かに鍋の蓋をした。そしてそれ以上何も言わなかった。


秀忠は竹松に連れられ、台所を出た。


廊下を歩きながら、秀忠は足が少し重かった。


「……やっぱりやだなあ」


「……」


竹松は何も言わなかった。この場面に言うべき言葉があるとすれば、それは自分の口から出るものではないと思ったからだ。


大広間が近づくにつれ、空気が変わった。人の数が増えた。着物の衣擦れ、息を詰めた静寂、張り詰めた礼儀の匂い。


土井が迎えに来た。秀忠の顔を見て、一瞬だけ何かを言いかけ、やめた。今は言葉よりも順序だった。


「参りましょう」


秀忠は返事をしなかった。ただ、歩いた。


大広間に入った瞬間、百人以上の視線が集まった。


秀忠は上座に進み、着座した。


諸大名がひれ伏した。勅使が前に進み出た。儀式が始まった。


秀忠はうつむいた。


膝の上に手を置いて、ひたすらうつむいていた。


儀式の言葉が読み上げられた。秀忠は聞いていたかもしれないし、聞いていなかったかもしれない。表情は動かなかった。


諸大名の間に、小さな感嘆が広がった。


「将軍の重責を、深く深く噛みしめておられる……なんと神妙なお姿か」


「あの静けさ。泰然自若とはこのことよ」


「さすがは天下人の後継ぎ。器が違う」


「普通の者なら、今日という日の興奮を抑えられぬもの。それを微塵も見せぬとは……」


秀忠の内心。


(早く終わってくれ早く終わってくれ早く終わってくれ早く終わってくれ早く……)


廊下の柱の影に控えていた本多正信は、大広間の様子を遠くから眺めていた。秀忠のうつむく横顔と、それを「泰然」と受け取る大名たちの横顔を、交互に見た。


手帳を取り出した。


何かを書きかけて、やめた。今は書けないと思った。書ける言葉が見つからなかった。


やめた手帳を懐にしまい、ただ見ていた。


儀式が終わった。


秀忠が最初にしたこと。


土井に向かって、小声で言った。


「……続きの味噌汁、まだありますか」


土井は何かを言おうとして、やめた。


長い一日だった。長い四日だった。さらに言えば、長い半年だった。将軍就任を拒否されるところから始まり、逃げ場を全部塞ぎ、それでも三日引きこもられ、お江に頼み込み、儀式の次第を半日から二刻に短縮し、当日の朝は台所に逃げられた。


それが全部終わって、今、将軍になった人間が最初に言ったのが、これだった。


「……松蔵に確認して参ります」


土井はそれだけ言って、歩き出した。後ろから岡崎主水正の「土井殿!今は諸大名への挨拶が!!」という声が聞こえた。土井は歩き続けた。今日ばかりは、岡崎の言うことが後回しでよかった。


台所には、まだ火が残っていた。


松蔵は鍋の傍らにいた。蓋をしたまま、竈の火が消えないように見張っていた。


土井が入ってきた。


「……儀式は、終わりました」


松蔵は鍋の方を向いたまま、うなずいた。


「秀忠様が、続きを聞いていました」


「とっておきました」


「……そうですか」


土井はしばらく立っていた。台所の中は静かだった。竈の炭が赤く、鍋の蓋の縁から細い湯気が出ていた。


「松蔵殿」


「はい」


「今朝、秀忠様はここで何か、おっしゃっていましたか」


松蔵は少し考えた。


「……味噌汁が落ち着くと、おっしゃいました」


「それだけですか」


「美味いな、とも」


土井は「そうですか」と言った。


「それ以外は、何も」


「はい。それ以外は、特に」


土井はもう一度「そうですか」と言った。


その日の夜、秀忠は台所で椀を二杯飲んで、機嫌よく自室に戻った。着物の裾が乱れていたが、誰も指摘しなかった。竹松は団子を持って後をついていき、「今日はお疲れでございました」と言ったら「うん、疲れた。でも松蔵の味噌汁が美味かった」と返ってきた。竹松は「……なぜでございますか」と言いそうになったが、今日に限っては「なぜ」と問うべき場所が多すぎて、何も言えなかった。


この国の将軍は、今日から、この人だった。


将軍宣下の儀式当日。秀忠が台所の裏で松蔵老爺の味噌汁を飲んでいると発見されたことを、本多正信は報告で知った。


正信はその報告を聞いて、すぐには動かなかった。


「正信殿!今すぐ秀忠様を大広間へ……」


家臣たちが廊下を走り回る中、正信だけが柱に背をもたせかけて、目を閉じていた。


土井利勝が「正信殿、何を……」と近づいた。


「土井殿」


「はい!」


「台所の裏、と言ったか」


「はい!松蔵老爺と味噌汁を!!」


「……なぜ台所か」


「なぜって……逃げ込んだのでは」


正信は目を開けた。


「あの松蔵老爺は、何者か知っているか」


「江戸城の料理人では」


「三十年、この城の台所を取り仕切ってきた男だ。大名も旗本はたもとも、身分を問わず飯をつくり続けてきた」


土井は足を止めた。


「……つまり、正信殿は、秀忠様が台所へ行かれたのは」


「将軍とは何かを、式の前に確かめに行ったのかもしれぬ」


「確かめる、というのは」


「大名のための将軍でも、朝廷のための将軍でもない。松蔵老爺のような男は、権威ではなく人を見る。そういう男の前に、将軍になる前の自分で立てるかどうかを……」


土井は、正信の顔を見た。


本気だった。


完全に、本気の顔で言っていた。


「……正信殿、それは少し……」


「なんですか」


「……いえ。何でもございません」


土井は走り出した。走りながら、頭の中で「味噌汁が落ち着くと言っていた」という秀忠の言葉を繰り返した。これをどう解釈すればよいか考え、答えが出ないまま台所の裏に到着した。


その夜。


儀式が無事終わった後、土井が松蔵に確認した。


「秀忠様は今朝こちらで、何かおっしゃっていましたか」


松蔵は少し考えた。


「……味噌汁の続きをとっておいてほしい、と」


土井は「なるほど」と言った。


どこにも「なるほど」の余地はなかったが、他に言える言葉がなかった。


翌日の朝。


正信を廊下で見かけた土井は、昨日の確認の結果を伝えた。


「台所の件、松蔵老爺に確認しました。秀忠様は味噌汁のご所望だったそうです」


正信は少し黙った。


「……味噌汁か」


「はい」


「……民と同じ椀を、就任の朝に選ばれた」


「正信殿……」


「慈悲の政治の、第一歩かもしれぬ」


土井は「もういい」と思った。しかし何が「もういい」なのかをうまく言葉にできなかったので、何も言わなかった。


「正信殿は、秀忠様の行動に必ず意味を見つけようとされますね」


「見つけようとしているわけではない。考えていると、見えてくるのだ」


「……見えなくていいものも、見えていませんか」


正信は少し考えた。


「それも、あるかもしれぬ」


「どちらが正しいのでしょうか」


「わかりかねる」


沈黙。


「……いつも、それですね」


「いつも、そうなのだ」


二人はしばらく廊下に立ったまま、互いに少し遠くを見ていた。


台所の方から、朝の炊き出しの匂いが漂ってきた。


「松蔵殿は今朝も、台所に」


「いるでしょうな」


「昨日と変わらず、鍋の番を」


「変わらずに」


また沈黙があった。


土井は「面倒くさかっただけかもしれません」とぼそりと言った。


「そうかもしれない」と正信は答えた。


「どちらが正しいかは」


「わかりかねる」


沈黙。


「……」


「……」


朝の廊下に光が入ってきた。


台所から、椀の触れる音が聞こえた。



◇後世の歴史家注◇

就任式における秀忠の「うつむき」については、「深い思慮の表れ」とする説と「将軍職の重みを全身で受け止めた証左」とする説が拮抗している。また儀式後に秀忠が台所を再訪したことは複数の記録に残っており、「将軍としての初日を、身分を問わない食卓で締めくくった慈悲深い振る舞い」として語られることがある。一方、儀式当日の早朝にも台所にいたことは、どの記録にも「諸準備のため城内を確認されていた」と記されている。松蔵老爺については、「江戸城台所を長年取り仕切った」とのみ記録されており、名前すら複数の表記が残る。なぜなら、下働きの者の言葉は記録されないからである。「続きの分、とっておいてくれますか」という発言の記録は、現在のところ発見されていない。

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