岡崎主水正の将軍作法手順書
── 十七が五になった日 ──
将軍宣下の儀式は、五日後に迫っていた。
江戸城の空気は、ここ数日でがらりと変わっていた。老中たちは廊下を早足で歩き、書類を山にして抱えた家臣が角を曲がるたびに誰かとぶつかった。勅使を迎える準備、大広間の配置、列席する諸大名への連絡、衣装の確認、当日の段取りの最終調整。やることは無数にあり、それぞれが急いでいた。
誰もが急いでいた。
ただ一人を除いて。
岡崎主水正忠則は、その朝、五つ前から起きていた。
素振り百回。論語の暗唱。書類の予習。
それが終わると、机に向かった。昨夜からかかっていた仕事の続きだった。
墨を磨り、筆を取り、紙に向かった。
「十七か条、完成」
岡崎は静かに筆を置いた。
三日かかった。将軍宣下の儀式に臨むにあたり、徳川秀忠が習得すべき作法を、一から洗い直して整理したものだった。勅使の迎え方から始まり、着座の角度、袴の裌の整え方、目線の置き場、返礼の深さ、席を立つ際の順序まで、武家の礼法として当然に求められることを十七の条項にまとめた。
将軍とはかくあるべき姿がある。その姿は、正しい作法によって形をなす。作法とは、単なる形式ではない。それは武家の精神そのものだ。
岡崎はそう信じていた。三十年以上、信じ続けてきた。
巻物に丁寧に書き写して、軽く紐で結んだ。手のひらにずっしりとした重さがあった。この重さは、三日分の仕事の重さだった。しかし同時に、将軍が身につけるべき作法の重さでもあった。
秀忠の部屋の前に立ったのは、昼前のことだった。
「岡崎主水正にございます。少々お時間をいただけますでしょうか」
しばらくして、中から声が返ってきた。
「……どうぞ」
障子を開けると、秀忠が縁側に膝を抱えて座っていた。庭を眺めているのか、うつらうつらしているのか、判然としない姿勢だった。
岡崎は三歩入って正座した。
「秀忠様。将軍宣下の儀式まで、残り五日でございます」
「……うん」
「つきましては、儀式に臨まれる際の作法を、まとめてまいりました」
巻物を両手で捧げた。
「全十七か条でございます」
「……十七」
返ってきたのは、その二文字だけだった。
「はい。まず一、勅使を迎える際は三歩進んで……」
「ちょっと待って」
「はあ」
「全部で何刻かかりますか」
岡崎は少し止まった。
「覚えるまでの稽古のことでございますか、それとも儀式の当日でございますか」
「両方」
岡崎は心の中で計算した。稽古は毎日二刻として三日。当日は各所作を合わせると……
「稽古は三日ほど。当日は所作ごとに間を置きますので、合わせると……」
「今、何時ですか」
「……はあ、昼四つかと」
「今から昼寝したら夕方まで寝れますね」
「……は?」
秀忠は立ち上がった。
しかし岡崎の方ではなく、部屋の奥へ向かった。
そこには布団があった。
「十七か条は土井さんに渡しておいてください」
「え、あの……」
「覚えなくていいやつと覚えないといけないやつに分けといてもらえますか」
「……分け、とは」
秀忠はすでに布団に入っていた。
「よろしく」
それだけ言って、向こうを向いた。
岡崎は巻物を持ったまま、その背中を見た。
将軍宣下まで五日。
勅使は京から来ている。大広間には全国の大名が集まる。その場に立つ人間が、今、目の前で昼寝の体勢に入っていた。
「……ちなみに、その区分はどなたが」
「土井さんで」
「……土井様に、将軍作法の重要度の判断を」
「よろしく」
返事はなかった。
岡崎は立ち上がった。巻物を持ったまま、一礼して、部屋を出た。
障子を閉めた。
廊下に出た。
三十年の武家礼法が、「土井さんで」の四文字で処理されていた。
廊下をちょうど通りかかった人物がいた。
土井利勝だった。書類を小脇に抱え、早足で歩いていたが、岡崎の顔を見て一歩後ろへ下がった。
「……岡崎殿、お顔が」
「土井殿」
「はい」
「少しお話を」
「……はい」
二人で廊下の端に寄った。岡崎は巻物を土井の前に差し出した。
「秀忠様より、これを土井殿にお渡しするようにとのことでした。それと、覚えなくていいものと覚えないといけないものに分けてほしいと」
土井は巻物を受け取った。
「拝見してよろしいですか」
「どうぞ」
土井は紐を解き、巻物を広げ始めた。廊下に広がっていく。岡崎は無言で見ていた。
土井は最初から最後まで、丁寧に読んだ。読み終えて、巻き戻した。
「岡崎殿、これは」
「三日かかりました」
「……よく整理されています」
「ありがとうございます」
「ただ」
「ただ?」
土井は少し間を置いた。
「秀忠様のおっしゃりたいことを、合理的に解釈しますと、必須の作法と、附属の作法を整理してほしい、ということだと思います」
「……それは、私が十七か条でまとめたものでは」
「そうです」
「では、これを……」
「ただ十七というのが多い」
「……多い」
「五か条に絞りましょう」
岡崎の口が、少しだけ開いた。
「……五、と」
「はい。最低限これだけ守れば儀式として成立するという五つを選びます。残りの十二は覚書として添える。必要な時に参照できるようにしておけば、十分かと」
「……十二が、覚書に」
「岡崎殿がまとめてくださったものは、将来的に非常に価値があります。儀式の場だけでなく、様々な武家礼法の基準として使える。ただ今は、儀式まで五日しかない。秀忠様に習得していただく作法は、五つが限界です」
岡崎は巻物を見た。
土井の手の中で、丁寧に巻き直されていた。
「……わかりました」
それ以上は言わなかった。
土井は「では、改めてまとめてお持ちします」と言い、早足で廊下を去った。
岡崎は一人、廊下に残った。
夕方。
土井から「将軍必須の作法・五か条」が届いた。
きれいにまとまっていた。岡崎の十七か条の中から、勅使への礼、着座の所作、返礼の深さ、袴の整え方、退席の順序、この五つが選ばれていた。
岡崎はそれを読みながら、少し考えた。
確かに、この五つは核心だった。これさえ守れば、儀式の骨格は保たれる。残りの十二は、より洗練された作法として、礼法の場では必要だが、今日明日に覚えるものではない。
土井の判断は、正しかった。
悔しいことに、正しかった。
岡崎はその五か条を持って、翌朝、秀忠の部屋を再び訪ねた。
今度は一枚の紙だった。
「秀忠様。五か条にまとめました。これだけ覚えていただければ、儀式は滞りなく」
秀忠は受け取って、立ったまま読んだ。
「……うん」
「ご不明な点がございましたら……」
「これくらいならまあ」
「……」
「ありがとう」
秀忠は紙を丁寧に折り、懐にしまった。
それだけだった。
岡崎は一礼して、部屋を出た。
廊下に出てから、立ち止まった。
「これくらいならまあ」。
喜んでいいのか。
三日かけて十七条まとめたものが「まあ」という評価で受け入れられたことを、喜んでいいのかどうか、岡崎にはわからなかった。
しばらく考えた。
やはり、わからなかった。
将軍宣下の儀式当日、秀忠はその五か条を、おおむね守った。
勅使への礼は規定の深さで行われた。着座の所作は整っていた。返礼の角度は正確だった。
「おおむね」守った、というのは、台所へ逃げ出すまでの話である。しかしそれはまた別の話だった。
それから数日後。
本多正信が岡崎のもとを訪ねてきた。
廊下でばったり出くわした、という形だった。正信がそういう「偶然の出会い」を演出することは、岡崎も知っていた。
「岡崎殿」
「正信殿」
「将軍作法の件、土井殿から聞きました。十七か条、よくお作りになられた」
「……五に絞られましたが」
「五になったから、使われた。十七のままでは、積まれたままになっていたかもしれない」
岡崎は何も言わなかった。
「十七のうち五しか使われなかったと思うか、十七があったから五が生まれたと思うか」
「……どちらと思われますか」
「わかりかねます」
岡崎は短く息を吐いた。長年正信と話すたびに返ってくる言葉だった。
「ただ」と正信が続けた。
「あの五か条は、今後もずっと使われるものになると思います。儀式の場だけでなく、武家礼法の根拠として残る。残り十二も、覚書として価値がある。いずれ誰かが参照するでしょう」
「……それは」
「秀忠様が『これくらいならまあ』とおっしゃったことが、すべての始まりです」
岡崎は廊下の先に目をやった。
「それが……喜ばしいことかどうか」
「わかりかねます」
「……いつも、それですね」
「いつも、そうなのです」
正信は一礼して、廊下の角を曲がって消えた。
岡崎は一人残った。
喜んでいいのか、悔しいのか。
しばらく考えた末に、岡崎は答えを出した。
悔しかった。
理由は説明できなかったが、そう感じた。
武家礼法とは精神だと思っていた。三日かけて磨き上げた十七の条項は、将軍が身につけるべき姿の、完全な形だと思っていた。それが「これくらいならまあ」の五つになったことを、喜べるほど、岡崎は達観していなかった。
ただ、と岡崎は思った。
その五か条は、確かに使われた。
儀式の場で、実際に機能した。
それが悔しいのか嬉しいのかも、岡崎にはわからなかった。
岡崎の十七か条は、その後、「武家儀礼覚書」として何度か写本が作られた。
江戸時代を通じて、礼法指南の場で参照され続けた。
著者名は「岡崎某」としか記されていなかった。
誰が「某」にしたのかは、わからない。土井が書き写す際にそうしたのか、写本を作った者がそうしたのか、調べた者もいなかった。
岡崎本人は、この写本の存在を知らなかった。
知らないまま、礼法を磨き続けた。
それが三河武士というものだと、岡崎は思っていた。
思っていたし、実際そうだった。
◇後世の歴史家注◇
将軍宣下の儀式における作法の合理化については、「秀忠の御意向によって必須の所作に絞られた」とする記録がある。五か条の選定を実際に行ったのは土井利勝であることは、土井の業務記録から確認されている。十七か条の原本については、「岡崎某の武家儀礼覚書」として江戸中期以降に広く流通した写本との同一性が研究者の間で指摘されているが、確証はない。「これくらいならまあ」という発言の記録は現在のところ発見されていない。なお、儀式当日に秀忠が途中で台所へ向かったことは別途記録されているが、その直前まで五か条をおおむね遵守していたという点については、諸記録の記載が一致している。




