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ダダッコ秀忠 ~天下一のぐうたら将軍~  作者: おしゃまな耳かき
第三章「将軍は嫌じゃ!断る!」

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お江と家康の場面

慶長八年、春。


四日目の朝。


秀忠の布団は、まだ縁側にあった。


竹松が朝の掃除の際に確認した。布団は動いていなかった。中の人間も動いていなかった。団子の空き皿が昨日より二枚増えていた以外、変化らしい変化はなかった。


竹松は黙って空き皿を下げた。


「……なぜでございますか」と言いたいことはあったが、言わなかった。言ったところでどうにもならないことを、ここ数日で学んでいた。それが正しい学びかどうかは、わからなかった。ただ、正座して待つことに慣れてきた自分がいた。


家康は、その日の朝から書斎に籠もっていた。


本多正信は廊下で待機していた。長年の習慣で、呼ばれてもいないのに近くにいるのが正信の流儀だった。


昼近くになって、書斎の障子が開いた。


「正信」


「はい」


「あれは、まだ動かんか」


正信は少し間を置いた。


「……今朝、竹松から。変化なしとのことでございます」


「……そうか」


家康はしばらく黙った。庭の方を見た。三日前には満開だった桜が、ほぼ散り終えていた。四日もあれば桜は散る。しかし秀忠は動かない。


庭石の上に、散り残った花びらが一枚あった。


「お江を呼べ」


正信は一拍おいた。


「……よろしいのですか」


「よろしいも何も、他に手がない」


これは天下人として、珍しい言葉だった。正信はそれを記録するかどうか一瞬迷ったが、記録することにした。後世に何と言われようとも、事実は事実だった。


「かしこまりました」


お江が書斎に入った時、家康はすでに向き直って待っていた。


茶が一杯、用意されていた。客人への礼儀だった。


正信は廊下に控えた。


お江は座って、茶を受け取った。飲まなかった。ただ、両手で持って、家康を見た。


「お呼びと聞きました」


「うむ」


短い間があった。


天下人というのは、言葉に詰まることがない。少なくとも、表には出さない。しかしこの日の朝、家康は確かに一度、言葉を止めた。


「お江よ。あれを何とかしてくれ」


お江はすぐには答えなかった。茶碗を静かに置いた。


それから、家康の目を真っ直ぐ見た。


「何とかしろとおっしゃるなら、一つ聞かせてください」


「なんだ」


「あなたは本当に、秀忠でいいと思っているんですか」


家康は絶句した。


長い生涯で、様々な問いかけを受けてきた。戦場では命を問われ、政では天下を問われ、密室では忠義を問われた。しかしこれほど真正面から、これほど簡潔に、核心だけを問われたことは、そうなかった。


正信でさえ、こういう問い方はしない。


いや、正信にはできない問いだった。正信は策略家だから、問いの形を変えて、核心をぼかす。しかしお江には、そういう迂回路がなかった。問うべきことを、問うべき言葉で、問うだけだった。


「迷っているなら、私が断らせます」


お江の声は静かだった。怒っているのでも、責めているのでもなかった。


「でも覚悟を決めているなら、私が連れて行きます」


庭で鳥が鳴いた。縁側に光が差していた。


家康はしばらく黙った。人の前で長く黙ることは、家康の習慣ではなかった。しかしこの問いには、黙る以外のことができなかった。


考えていたのではない。


答えは、とっくに出ていた。ただ、声に出すことに、どこかで少し時間がかかった。六十年以上を生きて、初めて気づくことがある。自分の覚悟を、言葉にするのが思いのほか難しいということを。


やがて、天下人は静かに言った。


「……頼む」


それだけだった。


お江は一礼して、立ち上がった。


その背中を見送りながら、家康は思った。息子はよい妻を持った、と。そしてその次に、自分にはこういう問いをしてくれる人間が、生涯ついに現れなかったということも、ふと思った。


思っただけで、口には出さなかった。天下人というのは、そういうものだと、長い間決めてきたから。


廊下に出たお江の横に、正信が静かについた。


「奥方様」


お江は足を止めなかった。


「秀忠の部屋に向かっています」


「……かしこまりました。お止めする理由が、見当たりませんので」


「止める必要はないわよ」


お江は曲がり角を曲がった。


正信はその場に立ち止まった。それ以上ついて行かなかった。廊下の端に背をもたせかけて、消えていく背中をしばらく見ていた。


それから、手帳を取り出した。


「奥方様、動かれた。家康様、頼む、と言われた。動機、明確。結果、これより判明する。追記:『頼む』という言葉の重さは、言った側と聞いた側とでは、おそらく異なる。どちらの重さが正しいかは、わかりかねる」


お江は秀忠の部屋の前に立った。


侍女のひさが廊下で「奥方様……」と小声で言ったが、お江は止まらなかった。


障子を開けて、中に入った。


部屋は薄暗かった。縁側の布団が、丸まっていた。四日目にして、その山は相当な形状になっていた。


お江は迷わず布団の端を掴んだ。


一気に引っぺがした。


「寒い! なにすんの!」


布団の中から、寝ぐせだらけの頭が飛び出した。目が半分しか開いていなかった。


「行くわよ」


「嫌だって言ってるじゃん! なんで僕が……」


「私が将軍の妻になるって決めたの。だからあなたが将軍になるの。以上」


秀忠は口を開きかけて、閉じた。


開きかけて、また閉じた。


「……その論理、おかしくないですか」


「おかしくない」


「いや、普通は将軍になる人がいて、その妻になるわけで……」


「おかしくない」


「……」


「行くわよ」


お江は布団を部屋の端に寄せた。秀忠が立てるだけの空間を作った。


秀忠は膝を抱えて座ったまま、しばらく何かを考えていた。反論の糸口を探しているようだったが、見つからなかった。見つからなかったのは、探す気力が四日で尽きていたからかもしれないし、そもそも反論できる構造ではなかったからかもしれない。


「……」


「早く」


「……わかりました」


秀忠は立ち上がった。渋々というより、どこか拍子抜けしたような顔だった。


着物の裾が乱れていたが、直す気力もなかったらしく、そのまま出口に向かった。


「着物、直しなさい」


「……はい」


廊下に出た。ひさが着物を直すのを、秀忠は黙って受けた。


廊下を歩きながら、秀忠は一度だけ振り返った。


「……行けばいいんでしょ」


「行けばいい」


「行ったら、もう戻れないんでしょ」


お江は答えなかった。


これが答えだった。


秀忠は前を向いて、また歩き始めた。足音が廊下を遠ざかっていった。


お江はそれを見送った。


背中が曲がり角に消えるまで、動かなかった。


お江は部屋に残った。


ひさが恐る恐る入ってきた。団子の空き皿がまだ残っていた。お江は皿には目もくれずに、縁側の窓を開けた。


外の光が入ってきた。散り終えた桜の木に、新しい緑がわずかに出始めていた。


「奥方様は……殿が必ず立ち上がられると思っておられましたか」


「当たり前でしょ。あの人、追い詰めれば必ずやるんだから」


「……追い詰めれば、とは」


「そういう人なのよ」


「でも、いつもは逃げておられるように……」


「逃げる、というのは、まだ動けるということでしょ」


ひさは「……なるほど」と言ったが、何もわかっていなかった。


わかろうとしたが、わからなかった。お江が答えないことが答えだと解釈し続けるのが、ひさの生き方だった。しかし今回は答えてくれたにもかかわらず、やはりわからなかった。これはひさの理解力の問題なのか、答え自体の問題なのか、それすらわからなかった。


「奥方様は……」と続けようとしたが、続きが出なかった。


お江はそれを聞いていなかった。窓の外を見ていた。桜の木の根本に、散った花びらがまだ残っていた。


「片付けなさい」


「はい」


「あとで。今は、いい」


ひさは「はい」と言って、片付けるのをやめた。


その日の夕方。


家康は正信を呼んだ。


「秀忠は、動いたか」


「はい。午後から土井殿と話をされていたそうです」


「……そうか」


家康は縁側に目をやった。庭に光が傾いていた。


「……お江は」


「奥方様は、奥に戻られました。特に何もおっしゃっていなかったとのことです」


「そうか」


しばらく黙った。


「……よい妻だ」


「さようでございます」


「儂には、ああいう人間がおらんかった」


正信は何も言わなかった。言えることが、なかった。長年仕えてきた中で、家康がこういう形の言葉を口にしたことは、ほとんどなかった。


「……それだけだ。下がれ」


「はい」


正信は廊下に出た。足を止めた。


手帳を開いた。


「家康様、ご自身のことを話された。生涯現れなかった、と言われた。記録してよいかどうか、迷う。しかし記録した。後世に何と言われようとも、事実は事実だった」


書いてから、もう一行書いた。


「補記:迷った挙句に書いた記録というのは、書かなかった記録よりも正直かもしれない。それが良いことかどうかは、わかりかねる」


その夜、竹松は廊下で秀忠の部屋の前を通りかかった。


中から声が聞こえた。


「……なんで僕が将軍なんですかねえ」


誰かに向かって言っているのではなかった。ひとり言だった。


竹松は足を止めた。


答えようとして、「……なぜでございますか」と言いかけて、それが自分の口癖になっていることに気づいて、やめた。廊下の柱に背をもたせかけて、少しだけ考えた。


答えは出なかった。


出なかったが、それでいいような気もした。答えが出ないまま廊下で少しだけ立っているということも、何かの役に立っているかもしれなかった。竹松にはわからなかった。


ただ、立っていた。


しばらくして、部屋の中から「竹松、団子ある?」という声が聞こえた。


「ただいまお持ちいたします」


竹松は走り出した。答えが出ないまま、走ることだけはできた。それが今の自分にできることだと思いながら、台所へ向かった。



◇後世の歴史家注◇

「家康がお江に頭を下げた」とする直接的な記録は存在しない。「頼む」という言葉が交わされたとする一次資料も確認されていない。一方で、この時期の家康の書状に「秀忠のことは任せた」という表現が複数回現れることが指摘されており、研究者によって解釈が異なる。「任せた」の主語が誰で、何を任せたのかについては、現在も諸説が存在する。また、秀忠が四日目に土井利勝と話をしたという記録は残っているが、内容については「将軍就任に関するご相談」とのみ記されており、詳細は不明である。なお「私が将軍の妻になるって決めたの」という発言については、どの歴史書にも記載がない。これをどう解釈するかは、読者諸氏に委ねたい。

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