儀式が長すぎるから短くしてほしい
── 面倒くさいの一念が、江戸の儀礼体系を整理した件 ──
将軍就任が正式に決まった、というのは建前上の話で、実際には秀忠はまだ納得していなかった。
「決まっていない」と言い続けることが難しくなっただけで、心の奥の「やだ」は三日経っても四日経っても消えていなかった。ただ、言う機会が減った。言うたびに家康の「決まっておる」が返ってきて、土井の「さようでございます」が続くからだ。
縁側で団子を食べながら、秀忠は庭を眺めていた。
「竹松」
「はい」
「正式に決まったって、どういう意味だと思いますか」
竹松は少し考えた。
「……決まった、ということかと」
「決まったことは取り消せないってことですよね」
「……法的には、そうかと存じます」
「法的には、のあとに何かありますか」
竹松は黙った。
「ないなら、ないと言ってください」
「……ございません」
「そうですか」
秀忠は団子をもう一本取った。
「やだなあ」
「……はあ」
「でもやだって言っても変わらないんでしょ」
「……さようかと」
「それがやだ」
「……はあ」
竹松にはどう返しても正解がなかった。三日前からずっとそうだった。
そこへ廊下から声がかかった。
老中の一人が、両手で巻物を捧げ持って立っていた。顔が晴れやかだった。晴れやか過ぎた。何かを渡すことで自分の仕事が終わる、という顔だった。
「秀忠様。将軍宣下に際しての儀式次第を、まとめてまいりました」
秀忠は団子を食べながら「はあ」と言った。
「ご一読いただきまして、ご確認を……」
「ちょっと待ってください。持ってきていいですか」
「は、はあ」
老中が巻物を差し出した。秀忠はそれを受け取り、広げ始めた。
「まず勅使が到着されると、正面玄関にて……」
「読みますから声に出さなくていいです」
「はあ」
老中は口を閉じた。秀忠は畳の上に巻物を広げ、読み進めた。
一行目。
二行目。
三行目。
四行目。
五行目で、手が止まった。
「……これ」
「はい」
「全部必要ですか」
老中は即座に答えた。
「由緒ある儀式でございますので、一手たりとも省けません」
「何刻かかりますか」
「は……半日は」
「半日」
「は、はい。むしろ慎重を期すならそれ以上も……」
秀忠は手の動きを止めた。
広げた巻物を、そのまま静かに巻き戻し始めた。
端から丁寧に。急がず、しかし確実に。
くるくると。
老中は何も言えなかった。
すっと、返ってきた。
「……あのですね」
秀忠の声は穏やかだった。怒っているわけではない。ただ、何かを整理しようとしている人間の声だった。
「儀式の中で、『これがないと法的に成立しない』というのと、『昔からやっているから続けている』というのは、別の話ではないですか」
老中は、固まった。
廊下の端でそれを聞いていた本多正信が、小さく目を細めた。
秀忠は続けた。
「朝廷への手続き上どうしても必要なものと、格好のためにやっているものを、分けてもらえませんか」
「格好のため……」
「そうです。格好のためのやつは、後でもいいし、短くしてもいい気がします」
「格好のため」という言葉が、老中の胸の中でざわついた。由緒ある儀式を「格好のため」と言い切られたことへの反発が、一瞬湧き上がった。
しかし……
「……それは確かに、そういう区分で考えたことが……」
「なかったですよね」
「……はあ」
「でもたぶんあるはずなんです。二種類が」
老中は巻物を抱えたまま、答えることができなかった。
廊下の柱のそばに立っていた正信が、静かに口を開いた。
「秀忠様」
「正信さん。そこにいたんですか」
「先ほどから。少しよろしいでしょうか」
「どうぞ」
正信が一歩前に出た。
「先ほどのお言葉は、公的な効力を持つ儀礼と、慣習として積み重なった儀礼を整理せよ、ということでございましょうか」
秀忠は少し考えた。
「……そう、そんな感じです」
「前者は省けない。後者は簡略化できる。そう分けることで、半日の儀式を……」
「二刻くらいにできるんじゃないですか。たぶん」
「……はあ」
「できますよね?」
「……やってみなければわかりませんが、理屈の上では」
「じゃあやってみてください」
秀忠はそれだけ言って、視線を庭に戻した。
団子の残りが一本あった。
「竹松。お茶」
「はい」
老中は巻物を抱えたまま、廊下に突っ立っていた。正信が静かに「少々お話を」と促して、二人で廊下の奥へ消えた。
その夜、正信は土井利勝を呼んだ。
「土井殿。今日の秀忠様のお言葉を、どう受け取られましたか」
土井は少し間を置いた。
「……儀式が長くて嫌だ、ということかと存じます」
「そうでございます」
「……そうでございます、とは」
「おそらく動機はそれだけです」
「はあ」
「しかし言われた内容は正しい」
土井は黙った。
「江戸城で行われてきた儀式のうち、その由来を誰もきちんと確認したことのないものが、相当数あるはずです。慣習として引き継がれてきた。由来を確かめることなく、ただ先例があるから、という理由で続けられてきた手順が」
「……あるかもしれません」
「確認したことがないのであれば、あると考えるべきでございます」
土井は腕を組んだ。
「……それを、今から仕分けるということですか」
「将軍就任式だけでなく」
「……全部ですか」
「秀忠様は『儀式』と仰いましたが、各種政務の場でも同じことは言えます。先例があるから続けている手順の中に、法的根拠のないものが混じっているとしたら」
「……省けるかもしれない」
「省けます。そして全体の所要時間が減る」
土井は長い息をついた。
「正信殿」
「はい」
「秀忠様は、ただ儀式が長くて嫌だっただけでは」
「そうでございます」
「……それで合っているのに、なぜその話を私に」
「仕分けをするのは、私と土井殿しかおりません」
土井は天井を見た。
「……わかりました」
「よろしいですか」
「……やります」
正信は軽く頭を下げた。
土井は廊下へ出ながら、ふと振り返った。
「正信殿は、秀忠様の動機をどうご覧になっていますか」
「儀式が長くて嫌だった、以外にはないかと」
「……それだけですか」
「それだけです。しかしそれだけで、正しいことを言われた」
「……いつもそうですね」
「いつも、そうなのです」
翌日から、土井と正信の仕分け作業が始まった。
将軍宣下の儀式次第を最初に当たった。
朝廷側の手続きに不可欠な手順、勅使の迎え方、宣旨の受領、列席の作法、を一方に置き、もう一方に江戸城内で代々行われてきた附属の儀礼を並べていった。
作業を進めて、三日目のことだった。
土井が書状の束を手に、正信の部屋を訪ねた。
「正信殿」
「何か」
「由来のわかる儀礼と、わからない儀礼を仕分けておりましたところ……」
「ありましたか」
「……相当数」
土井が書状を広げた。
「江戸城の月次の式典、大名の参上時の迎えの所作、文書の授受の手順、いずれも、古くからそうしている、という記録はあります。しかし、なぜそうするのかという由来を記した資料が見当たらない手順が、数十種ほど」
正信は書状を受け取って眺めた。
「……先例があるから続けてきた」
「はい。誰も問い直さなかったということかと」
「問わなかったのではなく、問う必要がないと思っていた、でしょう」
「……同じことでは」
「少し違います。疑問が生まれなかったのか、疑問を持っても声に出さなかったのか、では」
土井は少し考えた。
「……どちらであっても、結果は同じでは」
「そうですね」
正信は書状をきちんと揃えて、土井に返した。
「由来のわからないものは、当面は附属の慣習として扱いましょう。必須でないなら、省けます。省いて実害があれば戻せばよい」
「……それでいいのですか」
「実害がなければ、それが答えになります」
土井は書状を持って立ち上がりかけて、止まった。
「秀忠様には、報告しますか」
「どのようなご関心を持たれると思いますか」
土井は考えた。
「……あまり」
「私もそう思います」
「……では」
「仕分けが終わったら一言だけご報告しましょう。『儀式が二刻になりました』と」
「それだけでよいのですか」
「秀忠様が知りたいのは、そこだけでございます」
仕分けは、将軍就任式だけで終わらなかった。
月次の式典に及び、大名参上時の諸礼に及び、老中との政務確認の場の慣習にまで及んだ。「必要な手順」と「慣習として積み重なった手順」を整理した一覧が作られ、各儀式の所要時間が出揃った。
元が半日だった将軍宣下の儀式は、二刻と少しになった。
元が一刻かかっていた月次式典の一部は、半刻で足りることが判明した。
土井はその結果を一枚にまとめ、正信に見せた。
「……削れるものは、削れるものですね」
「何百年も積み重なれば、そういうことになります」
「整理した者の名を書状に記しますか」
「着手のきっかけを書く必要は?」
土井は少し間を置いた。
「……省きましょう」
「それが適切かと存じます」
仕分け一覧は「諸儀礼備忘録」として清書され、老中たちの間に配られた。
諸大名の間では「江戸幕府の儀礼は整然としている」という評判が広まり始めた。後世には「江戸幕府草創期に行われた儀礼体系の合理化」として知られることになるが、その発端については「将軍家の命による」としか記録に残らなかった。
なぜ着手したのか。
その理由を知る者は二人いたが、二人とも書かなかった。
書く必要があるとは、二人とも思わなかった。
後日、土井が秀忠に報告した。
「秀忠様。将軍宣下の儀式について、必須の手順と附属の手順を整理いたしました」
「どうなりましたか」
「半日だったものが、二刻と少しになりました」
秀忠の顔がわずかに明るくなった。
「……それはよかった」
「はい」
「二刻の残りは何に使っても」
「ご自由に」
「昼寝できますね」
「……はあ」
「よかった」
秀忠はそれだけ言って、縁側に視線を戻した。
「ありがとうございます」
「……いえ」
土井は廊下に下がった。
廊下の角で、正信とすれ違った。
「報告しましたか」と正信が聞いた。
「はい。『よかった』と仰いました」
「他には」
「昼寝できる、と」
「……なるほど」
正信は手帳に何か書こうとして、やめた。
「……書かないのですか」と土井が言った。
「動機が明白すぎる時は、書くことがあまりないのです」
「動機が明白な時の方が、話は単純では」
「そうなのですが」
正信は手帳を懐にしまった。
「それでも結果が合っているというのが、いつも引っかかります」
「……今回はただ儀式が短くなっただけでは」
「それだけのことが、長年誰もしなかった」
土井は返す言葉を探したが、見当たらなかった。
「……いつも、それですね」
「いつも、そうなのですよ」
◇後世の歴史家注◇
江戸幕府草創期に行われた儀礼の整理・体系化は、後の幕府運営の効率化に大きく貢献したとされる。この作業を主導したのは土井利勝と本多正信であることは知られているが、その着手のきっかけについては「将軍家の命による」とあるのみで、詳細は不明である。「半日が二刻になるんじゃないですか」という発言の記録は現在のところ発見されていない。なお、仕分け作業の過程で「誰もその由来を知らないが昔からやっている手順」が数十種に上ったことについて、「江戸初期の旺盛な改革精神の表れ」とする説と「単純な記録の不備」とする説が対立しており、議論は続いている。「昼寝できる」という言葉が含む含意については、どの論文も扱っていない。




