7話 〈60秒前〉光は生きている
ジュリアン・モローのアトリエは、川沿いの古い倉庫の屋根裏にあった。
ぎしぎし鳴る階段を、エリーズ・ヴァロワは一段ずつのぼった。手には、丸めたポスターの切れはしと、小さなスケッチブック。扉をたたく指が、ふるえていた。階段の上から、油絵の具と、古い紙と、パイプのたばこのにおいが下りてくる。
「弟子は、とらない」
扉を開けたジュリアンは、エリーズの顔を見るなり、そう言った。白いひげに、絵の具だらけの上着。目は少しにごっていて、エリーズの顔を見るのに、目を細めなければならないようだった。
「最後の弟子は、写真屋になった。ルネという男だ」
「知っています。でも、わたしは――」
「写真屋になるのが悪いと言っているんじゃない。ルネには家族がいる。家族を食べさせるのは、立派な仕事だ」
ジュリアンは、扉を閉めかけた。エリーズは、あわててポスターの切れはしを広げた。赤い兵士と、牙をむいた青い怪物。老画家は、ちらりと見ただけで首をふった。
「これは、だれかに言われた絵だ。おまえの絵じゃない」
エリーズの顔が、かっと熱くなった。その通りだった。怪物の口の大きさまで、決められて描いた絵だ。
ほかに見せられるものは、もう一つしかなかった。スケッチブックの、いちばん最後のページ。駅のホームで、蒸気の中に消えていく兄の背中。一度だけふり返りかけて、やめた肩。
ジュリアンは、そのページを、長いあいだ見ていた。川を渡る蒸気船の汽笛が、二度鳴った。
「……入りなさい」
屋根裏は、思っていたよりずっと広かった。壁という壁に、描きかけのキャンバスが立てかけてある。川、橋、雨の通り、夕方の駅。どれも、ポスターとはまるでちがった。輪郭がはっきりしないのに、空気の温度まで伝わってくる。窓ぎわには、使いこんだパレットが三つ。乾いた絵の具が地層のように重なって、小さな山脈になっていた。
◇ ◇ ◇
その日から、エリーズは毎日、看板の仕事が終わると屋根裏に通った。
最初の一か月、ジュリアンはエリーズに、同じものしか描かせなかった。屋根裏の窓から見える、川と、橋と、その向こうの教会。朝に一枚。昼に一枚。夕方に一枚。
「同じ景色を、なんで三回も描くんですか」
「同じ景色じゃないからだ」
ジュリアンは、三枚の絵を並べた。朝の川は、水色と白。昼の川は、緑がかった灰色。夕方の川は、紫と金色。自分が描いたのに、まるで三つの別の川みたいだった。
「光は、一瞬ごとに変わる。だから絵も、生きていなければならない。止まった絵は、死んだ絵だ」
ジュリアンは、エリーズの胸を、絵筆の柄でとん、とたたいた。
「それから、もう一つ。何を見たかではなく、何を感じたかを描きなさい。川が紫に見えなくても、おまえの心が紫だと言うなら、それが本当の色だ」
二か月目には、影を教わった。
「影は、何色だ」
「黒です」
「外へ出て、見てこい」
エリーズは、雪の積もった中庭に出て、白い壁に落ちた自分の影を見つめた。黒ではなかった。青だった。空の青が、うすく影の中に入りこんでいる。夕方には、その影が紫に変わった。足もとの雪が、きゅっ、きゅっと鳴った。
「影にも、光が入っている」屋根裏に戻ったエリーズに、ジュリアンは言った。「世界に、本当の黒なんて、ほとんどない。黒に見えるのは、ちゃんと見ていないからだ」
それから、色を混ぜずに並べる方法も教わった。黄色の点と青の点を、パレットで混ぜずに、キャンバスの上にとなりどうしで置く。近くで見ると、ただの点。でも、少しはなれると、目の中で混ざって、パレットで混ぜた緑よりも、ずっと明るい緑に見えた。
「絵の具は、混ぜるほど暗くなる。だから、見る人の目の中で混ぜるんだ」
エリーズは、ポスターのべったりした赤と青を思い出した。あの絵には、点も、光も、なかった。
仕事場でポスターを描くときも、エリーズは、つい影の色を探すようになった。怪物の足もとの影に、こっそり、ほんの少しだけ青を入れてみたこともある。だれも、気づかなかった。
◇ ◇ ◇
ある雨の日、エリーズはたずねた。
「先生。写真があれば、絵はいらなくなるんですか。みんな、そう言っています」
ジュリアンは、窓の外の雨を見ながら、しばらく黙っていた。屋根を打つ雨の音が、屋根裏の空気を細かくふるわせていた。
「写真は、目で見たものを残す」老画家は、ゆっくりと言った。「だから絵は、感じたココロの一瞬を残せばいい。写真が生まれたおかげで、絵は、やっと自由になれたんだ。そっくりに描く仕事から、な」
ココロ。ジュリアンは、その言葉だけを、大事な宝物をそっと箱から出すように、少しだけ変わった響きで言った。
「ココロ……」エリーズは、口の中で、その言葉をくり返してみた。胸の少し左のあたりが、ことりと鳴った気がした。
「悪いのは、写真じゃない。絵にしかできないことを、画家が忘れてしまうことだ」
エリーズは、その言葉を、スケッチブックの裏表紙に小さく書きとめた。
その夜、看板の仕事場で、エリーズは青い怪物の口を描きながら、初めて手を止めた。
(この人にも、ココロがあるのかな)
答えは、まだわからなかった。けれど、刷毛を持つ手が、ほんの少しだけ重くなった。
家に帰ると、母がせきをしながら、エリーズの指についた絵の具を見て、笑った。「今日は、ずいぶんきれいな色をつけてきたね」。エリーズは、その日初めて、自分の手を少しだけ好きになれた。




