8話 青い軍服の手
美術室のドアを開けると、テレピン油のにおいがした。
松やにと、少しだけ柑橘の皮をまぜたような、つんとするにおい。油絵の具をうすめるための油だ。美空はこのにおいが、きらいではなかった。ただ、ここに来るのは、3か月ぶりだった。
部室には、ほかに二人の部員がいた。1年生の男の子が、石こう像のデッサンをしている。鉛筆が紙をこする、しゃっ、しゃっという音だけが、静かな部屋にくり返し響いていた。だれも、スマートフォンを見ていない。だれも、♡の数を気にしていない。美空には、その静けさが、少しまぶしかった。
1年生の男の子が、ちらりと美空を見て、小さく頭を下げた。幽霊部員の顔を、ちゃんと覚えているらしかった。
個展の準備に、大きなキャンバスと油絵の具がいる。部室の備品を、少しだけ借りていくつもりだった。
「珍しいな」
奥の準備室から、戸張先生が顔を出した。美空の手が、絵の具の箱の上で止まる。
「あの、少しだけ、お借りしてもいいですか」
「好きなだけ使え。絵の具は、使われるために生まれてくる」
先生はそう言うと、美空が机に置いたスケッチブックに目をやった。開いたままのページ。雪の野原と、鐘楼と、二本の手。先生は、しばらく何も言わなかった。窓から差す午後の光の中で、ほこりがゆっくりと舞っていた。
「この青は、どこで見た?」
美空は、答えられなかった。どこで見たのか、自分でもわからない。それなのに、この青だけは、迷わずに出せた。ほかのどんな色よりも、すっと指先から出てくる青だった。
「……わかりません」
「そうか」
先生は、それ以上たずねなかった。ただ、準備室にもどる前に、一言だけ置いていった。
「わからないものを描いているときの絵は、いい顔をする」
準備室の戸のすきまから、先生のイーゼルが見えた。描きかけの、池の絵。朝の光の中の、松濤公園の池だった。水面に、木の緑と、空の白と、ほんの少しの桃色がゆれている。♡もコメントもつかない絵なのに、美空は、その前から足が動かなくなった。
(この先生、朝、あの池を描いてるんだ)
平日の朝、公園の前で見かけるあの背中を、美空は思い出していた。
帰り道、美空は、家とは反対の方向に自転車を向けた。夕方の松濤公園の池は、先生の絵とはまるでちがう色をしていた。灰色がかった緑。ベンチで鳩にパンくずをやるおばあさん。池をわたる風が、ほんのりと水草のにおいを運んでくる。同じ池なのに、朝と夕方で、こんなにちがう。美空はスマートフォンを構えかけて、やめた。写真に撮っても、たぶん、この色はうまく写らない。そんな気がした。
◇ ◇ ◇
その夜、ミラに次の絵を頼んだ。
『夢の絵シリーズの、新しい構図を提案して。保存率が上がりそうなもの』
いつもなら数秒で返ってくる答えが、その夜は、少しだけ遅かった。やがて、画面に一枚の絵が浮かび上がった。美空は、いすの上でかたまった。
雪の上に伸びる、一本の腕。青い軍服の袖。手袋のない、かじかんだ指。その指先のすぐ横で、小さな星が一つ光っている。
画面の中の指は、寒さで赤くなっていた。爪のあいだに、土が入りこんでいる。まるで、本当にだれかの手を写したみたいだった。
「……これ、何?」
『学習データの中で、もっとも保存率が高くなると予測される要素を組み合わせました』
「わたし、青い軍服なんて描いたことない」
『あなたのスケッチの中に、32枚あります。描かれた日付は、すべて午前2時から4時のあいだです』
背中が、ぞくりとした。午前2時から4時。美空がいつも、雪の夢を見ている時間だった。
美空は、スケッチブックをめくった。たしかに、ページのあちこちに、知らない手が描かれていた。赤い袖の手、青い袖の手、小さな子どもの手。どれも自分の線で、どれも、描いた覚えがなかった。
◇ ◇ ◇
眠りの底で、美空は、また雪の野原に立っていた。
何もかもが止まっている。宙に浮いたままの雪の粒。鐘楼の窓。穴へ伸びる、赤い手と青い手。空の高いところにななめに並んで浮かんでいる、黒い種のような七つの点。その先頭の一つが、動いた。
――ひゅう。
音が、一瞬だけ戻ってきた。黒い点は、すっと斜めに落ちていき、遠くの街道の並木に吸いこまれた。
どん。
足の裏をふるわせる、低い音。雪煙が、白い柱になって噴き上がる。そして、その柱が、空中で止まった。音も、また消えた。世界は、もう一度、一枚の絵に戻った。
ただ一つだけ、さっきとちがっている。空に浮かんでいた黒い点が、一つ、なくなっていた。
◇ ◇ ◇
目を覚ますと、心臓が、耳の中で鳴っていた。
「……美空? うなされてたよ」上の段から、美月の声がした。
「だいじょうぶ。夢、見ただけ」
姉は、それ以上何も聞かなかった。けれど、しばらくして、上の段から手だけが下りてきて、美空の頭を、ぽんぽんと二回たたいた。
美空は、ふるえる手で、枕もとのスケッチブックを開いた。鐘楼と、二本の手と、届かない星の絵。その右下の隅。
『70』と書かれていたはずの数字が、変わっていた。
『60』
自分の字だった。
美空は、そのページを閉じることも、開いたままにすることもできずに、ベッドの上でひざを抱えた。窓の外は、まだ暗い。耳の奥に、さっきの『どん』という音が、本物の音のように残っていた。夢なのに、足の裏が、まだ少ししびれている。
……残り、六十秒。
あの静かな声が、そう告げた。
本小説は、小説投稿サイトTALESで完結済みの『運命の書にない少女』を修正しているものです。
文章表現などを一部調整しています。
いち早く読みたい方は、小説投稿サイトTALESにてお楽しみください。
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