5話 鏡のAI
高瀬家は、目黒の都営団地の4階にある。3DKのいちばん小さな部屋が、美空と姉の美月の部屋だ。二段ベッドの下が美空、上が美月。机は窓ぎわに二つ並んでいて、美空の机の下では、四角い黒い箱が、冷蔵庫のような低い音を立てている。
家庭教師のアルバイト代を半年ためて買った、中古のサーバーだ。中には、絵を作るための計算をする部品――GPUが、二枚入っている。
サーバーの低い音は、夜になると、遠くの海の音のようにも聞こえる。
設定のしかたは、ネットの記事と英語の説明書と、たくさんの失敗から覚えた。半年のあいだに、画面がまっ黒になったことが十回、部屋のブレーカーが落ちたことが三回。そのたびに美月に「団地ごと停電させる気?」とあきれられた。それでも、やめられなかった。自分だけの、自分の絵だけを知っているAI。それがあれば、♡の理由が、きっとわかる。
その日曜の夜、美空はついに、最後の設定を終えた。窓の外を、最終電車の音が、遠く通りすぎていった。
「……起きて、ミラ」
エンターキーを押す。画面に、白い文字が浮かんだ。
『こんばんは、美空。わたしはミラです』
画面の向こうに、だれかがいる。そう感じたのは、生まれて初めてだった。ミラ。ミラー――鏡から取った名前だ。ミラには、ほかの人の絵を一枚も覚えさせていない。美空が描いてきた3,000枚の作品と、スケッチブックの落書きだけ。だからミラが描く絵は、美空の絵に似る。そして、美空の絵にどんな数字がついてきたかを、だれよりもよく知っている。
「わたしの絵は、どうして好かれるの」
『説明できます』
返事は、一秒もかからなかった。
『♡が多い絵には、三つの共通点があります。一つ目、画面の中で青がしめる割合が4割以上。二つ目、人物は後ろ姿か横顔で、顔がはっきり見えない。三つ目、画面の上半分に、大きな余白がある』
美空は、息をのんだ。言われてみれば、その通りだった。自分では「なんとなく」描いていたことに、ちゃんと理由があった。
(これが、先生だ)
学校の先生は、「なんとなく」しか言わない。でもミラは、数字で教えてくれる。
『次に描く絵の構図を、提案しましょうか』
「お願い」
数秒後、ミラは三枚の下絵を出してきた。どれも、青い空と、後ろ姿の少女と、大きな余白。美空の絵にそっくりで、どれも少しずつ、美空の絵より整っていた。
(すごい)
そう思うのと同時に、胸の奥で、小さな何かがひっかかった。三枚とも、見覚えがありすぎた。
◇ ◇ ◇
「何してんの、こんな時間に」
部屋の電気がついて、パジャマ姿の美月が、二段ベッドのはしごから下りてきた。肩ごしに画面をのぞきこむ。お風呂あがりの、せっけんみたいなにおいがした。
「自分専用のAI。今、試してるとこ」
「へえ。打ってみて」
美空は、入力欄に打ちこんだ。
『女の子、きれい、夕焼け』
数秒後、画面に絵が出てきた。オレンジ色の空。長い髪の少女。きれいだけれど、どこかで見たような、だれの心にも引っかからない絵だった。
美月が、ふっと笑った。「うちの部長と同じことしてる」
「どういうこと?」
「AIに渡すのは、命令じゃなくて、場面なの」美月は、美空の横にしゃがみこんだ。「『きれい』って言われても、AIは困るでしょ。だれが、どこで、いつ。光はどっちから来てて、空気はどんな感じ? クライアントに『いい感じにして』って言われたときの、わたしと同じ気持ちよ」
美月は美空のキーボードをとって、するすると打ちこんだ。
『放課後の美術室で、窓ぎわに立つ高校生の少女。夕方5時の西日が横から差しこみ、髪のふちが金色に光っている。机には絵の具のついたパレット。静かで、少しさびしい空気。水彩画風、やわらかいにじみ、縦長3:4』
出てきた絵を見て、美空は思わず声を上げた。光が、ちゃんと横から来ている。少女の髪のふちが、細く光っている。机の上のパレットに、乾きかけた絵の具の山。さっきと同じAIなのに、まるで別の画家が描いたみたいだった。
「ね。言葉の解像度が、そのまま絵の解像度になるの」
美月は、少しだけ得意そうに笑った。「わたしの仕事、半分は言葉なの。写真家さんにも、デザイナーさんにも、AIにも。ちゃんと渡せた言葉の分だけ、ちゃんとしたものが返ってくる」
美月は立ち上がり、はしごに足をかけた。「明日早いから、寝るね。……美空も、ちゃんと寝なさいよ」
「うん」
返事をしながら、美空はもう、次の場面を打ちこみはじめていた。
◇ ◇ ◇
午前1時。上の段から、美月の寝息が聞こえはじめたころ、ミラが静かに言った。
『一つ、質問があります』
「なに?」
『あなたのスケッチの中に、学習データのどこにも当てはまらない場所があります。古い石の鐘楼と、雪の野原。これは、どこですか』
美空のキーボードを打つ手が、止まった。
どこなのか、答えられなかった。行ったことのない場所。見たことのない景色。それなのに、雪の冷たさも、鐘楼の石のざらつきも、指先が覚えている。
「……わからない」
『わかりました。わからないものとして、記録しておきます』
画面の文字は、いつも通り正直だった。美空は、そっとパソコンを閉じた。
布団に入っても、美空はしばらく眠れなかった。『わからないものとして、記録しておきます』という一文が、まぶたの裏に、白く残っていた。わからないもの。それは、美空の中にも、確かにあった。




