4話 〈70秒前〉写真機の街
王都ルージュの秋は、石畳のすきまから冷えてくる。焼きたてのパンのにおいと、馬車の馬のにおいが、同じ通りにまざっている。
エリーズ・ヴァロワは、はしごの上で刷毛をふるっていた。パン屋の横の大きな壁に、ポスターを描くのが今日の仕事だ。赤い軍服の兵士が、旗をかかげて前へ進む。その足もとには、牙をむいた青い怪物。上には、太い文字で『祖国のために!』。
「怪物の口、もっと大きくな。それが決まりだ」
下から、王立芸術院の腕章をつけた男が声をかけてくる。エリーズは「はい」と答えて、青い怪物の口を、ひとまわり大きく塗り広げた。青い軍服の兵士を、エリーズは一度も見たことがない。それでも、絵の中の敵は、いつも怪物の顔をしていなければならなかった。
仕事のあいだ、通りを行く人たちは、だれもポスターを見上げなかった。同じような怪物の絵が、街じゅうの壁にはってあるからだ。見られない絵を、毎日、描き続ける。それが、エリーズの仕事だった。
一日描いて、もらえるのはパン二つ分の銅貨。それでも、病気がちな母と二人で暮らすには、ありがたい仕事だった。
母は昔、お屋敷のお針子をしていた。指先の器用さは、母ゆずりだと言われる。けれど、せきが止まらなくなってから、針を持つ手はすっかりやせてしまった。エリーズが絵を描いてかせぐパンが、今の二人の命綱だった。
頭の上を、低い音が通りすぎていく。見上げると、銀色の飛行船が、腹から白い蒸気をはきながら、ゆっくりと東の前線へ向かっていた。通りでは蒸気の路面電車が、かん高い汽笛を鳴らす。歯車のきしむ音、石炭のにおい、空をよごす煙。この街では、空も地面も、いつも何かが音を立てて動いていた。
◇ ◇ ◇
帰り道、角の店の前に人だかりができていた。
『ガルニエ写真館 本日開店』
ガラス窓の奥に、黒い布をかぶった大きな木の箱が見える。写真機だ。お客がいすにすわり、じっと動かずに数をかぞえる。ぱっと白い光がはじけて、次の日には、その人とそっくりの絵――写真ができあがる。写真を撮るあいだ、お客は息を止めて、じっと動かない。少しでも動くと、顔がぼやけてしまうのだという。
店から出てきた男を見て、エリーズは目を丸くした。
「ルネさん?」
ルネ・ガルニエ。去年まで、この通りで肖像画を描いていた画家だ。商人の奥さんや、お金持ちの子どもたちを、何日もかけてていねいに描いていた。
「やあ、エリーズ。絵は、やめたんだ」ルネは、少し照れたように笑った。「肖像画のお客さんは、みんなそのまま写真に来てくれた。安くて、早くて、そっくりだからね。家族を食べさせるには、こっちのほうがいい」
「でも、ルネさんの絵、好きでした。奥さまのレースの襟の白、あんなふうに描ける人、ほかにいない」
ルネは、一瞬だけ、さびしそうな顔をした。「写真はね、レースの糸の一本一本まで写すんだ。わたしが三日かけて描いた白を、一秒で」それから、店の看板を見上げた。「お客さんにとっては、それがいちばんいいんだよ」
ルネの指は、もう絵の具で汚れていなかった。かわりに、つんとする薬品のにおいがした。
(絵は、もういらないの?)
エリーズは、自分の手のひらを見た。ポスターの赤と青が、爪のすきまにこびりついている。写真機が、肖像画を描く画家の仕事を消していく。だったら、看板を描く自分の仕事も、いつか消えるのだろうか。
◇ ◇ ◇
三日後、兄のポールが出征した。
駅のホームは、蒸気と、泣き声と、楽隊のラッパでいっぱいだった。新しい軍服を着た兄は、いつもより背が高く見えた。
「エリーズ。帰ってきたら、俺を描いてくれ」
「写真のほうが、そっくりだよ」
「そっくりじゃなくていい。おまえの絵がいいんだ」
汽笛が鳴った。兄の乗った列車が、白い蒸気の中に消えていく。列車に乗るとき、兄は一度だけふり返りかけて、やめた。その肩の形を、エリーズは目に焼きつけた。手をふることも忘れて、ずっとそこに立っていた。
家に帰ると、母が、兄の空になった寝台を何度もなでていた。エリーズは、ろうそくの明かりの下で、兄の背中を描いた。そっくりではなかった。でも、描いているあいだだけ、兄がまだ近くにいる気がした。
◇ ◇ ◇
その帰り道、川辺の土手で、エリーズは足を止めた。
年老いた男が一人、イーゼルを立てて、川を描いていた。おどろいたのは、その色だった。灰色のはずの川が、絵の中では、紫と金色にゆらめいている。筆は、小さく、すばやく、何度も何度も画面をたたく。近くで見ると、ただの色の点のあつまりなのに、少しはなれると、川が本当に流れて見えた。
「どうして、川が紫なんですか」
思わず、声が出ていた。男は筆を止めずに答えた。
「今、そう見えたからだ。……いや、ちがうな。そう感じたからだ」
夕日が雲に入り、川の色が、すっと変わった。川面をわたる風が、ほおを冷たくなでていった。男は、もう次の色をパレットにとっていた。さっきまで描いていた色を、ためらいもなく塗りかえていく。
エリーズは、動けなかった。ポスターの怪物でも、写真のそっくりな顔でもない。今この瞬間にしかない光が、そこにあった。
男の名前は、ジュリアン・モロー。王都の画家たちのあいだで「時代遅れの光の画家」と笑われている人だと知ったのは、ずっとあとのことだ。
その夜、エリーズは、配給の安い絵の具をパレットに出して、川を思い出しながら描いてみた。どうしても、あの紫にはならなかった。灰色の川は、どこまでも灰色のままだった。




