3話 アルゴリズムの冬
月曜の朝、数字が半分になっていた。
『♡ 48,203』
土曜に上げた絵は、いつもなら月曜には15万をこえている。美空は目をこすって、もう一度画面を見た。数字は変わらない。フォロワーは減っていないのに、♡だけが、すとんと底へ落ちていた。
≪ほら≫
≪言ったでしょう≫
≪もう、飽きられたんだよ≫
頭の奥で、数を数える声がささやく。
(ちがう。何かがおかしい)
布団の中で画面をなぞり続けると、同じように絵を上げている人たちの投稿にも、同じ悲鳴が並んでいた。『いいねが半分になった』『おすすめに出なくなった』『表示のしくみ、変わった?』。どうやらSNSの運営が、どの投稿をだれの画面に出すかを決めるしくみ――アルゴリズムを、週末のうちに変えたらしい。
アルゴリズム。顔も声もない、見えない審査員。美空の絵がどれだけすばらしくても、その審査員が首をふれば、絵はだれの目にも届かない。
(わたしの絵が、悪くなったわけじゃない)
そう言い聞かせても、胸の冷たさは消えなかった。
美空がNOBODYとして最初の絵を投稿したのは、中学3年の冬だった。図書室の窓から見た、雪がやんだあとの青い空。ついた♡は、37。知らないだれかが、自分の絵を見て、指を一回動かしてくれた。その37がうれしくて、何度も何度も画面を開いた。あの夜の♡は、今の10万より、ずっとあたたかかった気がする。いつからだろう。♡が、うれしいものから、足りないものに変わったのは。♡の数を見ないで眠れた夜は、もう、思い出せないくらい昔だ。
台所のテーブルには、今朝も母のメモがあった。『今日は日勤。夕飯はカレーを温めて。美空、元気? 母』。美空は『元気』とだけ書いて、家を出た。それも、半分うそだった。
◇ ◇ ◇
都立青嵐高校、2年C組。昼休みの教室は、パンの袋を開ける音と笑い声であふれている。窓から入る風が、校庭の砂ぼこりと、どこかの席の制汗スプレーのにおいを運んでくる。美空は窓ぎわの席で、机の下にスマートフォンをかくして、何度も数字を確かめていた。
授業中も、数字のことしか考えられなかった。黒板の数式の上に、♡の数が重なって見える。数学の先生が「ここ、テストに出るぞ」と言ったとき、美空はノートのすみに、ゆうべの♡の数を書いていた。
「美空、顔が死んでる」
前の席のいすに後ろ向きにまたがって、高木悠斗がのぞきこんできた。同じ都営団地に住む、幼なじみだ。くせっ毛で、いつも笑っているような目をしていて、クラスのだれとでもすぐに打ちとける。美空がNOBODYだと知っているのは、学校では悠斗だけだった。
「アルゴリズムが変わったの。♡が半分」
「あー、オレのチャンネルも再生数落ちたわ。みんな同じだって」
「みんな同じじゃ、困るの」
悠斗は、あきれたように笑った。「おまえさ、数字の話してるとき、ぜんぜん楽しそうじゃないよな」
「楽しいよ。数字が上がれば」
「上がったときの顔も、べつに楽しそうじゃないけどな」
悠斗は、それだけ言って、自分のメロンパンの袋を開けた。悪気のない声だった。だからこそ、美空は何も言い返せなかった。
美空は答えずに、焼きそばパンをかじった。味が、よくわからなかった。
◇ ◇ ◇
放課後、廊下の角を曲がったところで、美術の戸張先生とはち合わせた。
白髪まじりの髪に、袖口が絵の具で固まったカーディガン。61歳。SNSを一つもやっていないから、生徒たちからは「いいね0先生」と呼ばれている。美空は美術部に名前だけ入れている、いわゆる幽霊部員だった。先生の描く絵を、美空は一度も見たことがなかった。
「高瀬。たまには部室に来い」
「すみません。ちょっと、忙しくて」
先生は、それ以上何も言わなかった。ただ、少しだけ美空の顔を見て、うなずいた。責めるでも、あきれるでもない目だった。その目から逃げるように、美空は階段をかけ下りた。
階段の途中で、鼻の奥に、先生のカーディガンの油のにおいが残っているのに気づいた。美術室のにおい。中学のころは、あのにおいが好きだった。いつから、あの部屋に行かなくなったんだろう。
◇ ◇ ◇
その夜も、雪の夢を見た。
灰色の野原。古い鐘楼。凍りついたように動かない空。そして、遠くから聞こえる、あの静かな声。
……完成させて。
目を覚ますと、午前3時だった。美空は、枕もとのスケッチブックを開かないまま、天井を見上げた。二段ベッドの上からは、姉の美月の静かな寝息が聞こえる。
(疲れてるだけ)
それでも、夢の中の雪の冷たさは、目が覚めてからも、指の先に残っていた。美空は、布団の中で両手をこすり合わせた。5月なのに、手がかじかんでいる。
アルゴリズムのせい。寝不足のせい。夢なんて、ただの夢だ。そう決めてしまえば、楽になれる気がした。
≪夢の話なんか、だれも見ない≫
≪♡がつくのは、みんなが見たい絵だけ≫
数を数える声が、今夜はやけに正しく聞こえた。
美空はそっとベッドを抜け出し、机の上のパソコンを立ち上げた。暗い部屋に、青白い画面が光る。パソコンのファンが、かすかに温かい風をはき出した。デスクトップのいちばん端に、半年かけて育ててきたフォルダが一つ。
『MIRA』
あと少しで、完成する。
(数字の理由がわかれば、もう、こんな夜はこない)
美空は、キーボードに指を置いた。窓の外では、団地の給水塔の上に、星が一つだけ残っていた。届きそうで、届かない高さに。




