2話 ノーバディ
午前2時。スマートフォンの画面の中で、数字が回っていた。
『♡ 98,412』 『♡ 99,107』 『♡ 100,000』
高瀬美空は、ベッドの上でひざを抱えたまま、それを見ていた。10万。
≪よし≫
頭の奥で、低い声がした。数を数える声。いつからか、美空の中に住みついている声だ。
≪でも、前の絵は12万だった≫
≪この調子だと、来週は8万≫
≪フォロワーの伸びも、鈍ってる≫
(わかってる)
美空は、画面を下へ流した。『神』『今日もNOBODYの青が刺さる』『顔出ししてほしい〜』『この子、ほんとに高校生?』――コメントの一つ一つに♡がつき、その♡に、また♡がつく。
アカウント名は、NOBODY。ノーバディ。誰でもない者。フォロワーは80万人。顔も、名前も、年も出していない。それでも、この街のどこかで、だれかが毎晩、美空の絵を待っている。すごいことだ、と頭ではわかっている。
なのに。
(……静か)
胸に手を当てる。10万の♡を受け止めたはずの場所が、しんと冷えていた。真冬の美術室の、だれもいないイーゼルみたいに。
机の上で、プラスチックのカードが、スタンドの光を反射した。
『東京大学 理科一類 2年 高瀬美空』
顔写真つきの学生証。自分で作ったものだ。東京大学――日本でいちばん入るのが難しいと言われる、国立の大学。毎年、全国のトップクラスの受験生がしのぎを削り、それでも多くが涙をのむ場所。美空は、そこの学生ではない。都立青嵐高校の、2年生だ。
(でも、だれも気づかない)
カードをつまんで、くるりと回す。このカード一枚で、美空は「東大生の家庭教師」になれた。時給は、ふつうのアルバイトの倍。SNSに載せる駒場キャンパスの写真には、絵とは別の♡がつく。うそは、たった一枚のカードでできている。
美空はカードを引き出しにしまい、部屋の明かりを消した。
◇ ◇ ◇
眠りの底で、雪が降っていた。音のない、灰色の野原。遠くで、だれかが何かを描いている。ふり返った少女の顔は、逆光で見えない。
……完成させて。
◇ ◇ ◇
「美空。その目の下のクマ、メイクでかくせるレベルじゃないよ」
土曜の朝。台所で、姉の美月が、スーツのボタンをとめながら言った。五つ年上の美月は、広告の制作会社で働いている。社会人1年目なのに、もう何年も働いているような顔をする。しっかり者で、少し大人びた、美空の自慢の姉だ。
「夜ふかし。課題」
「うそ。また絵でしょ」
美月は、冷蔵庫に貼られたメモを指さした。
『夜勤明け、寝てます。卵焼き、冷蔵庫に。美空、ちゃんと寝てる? 母』
母の由美は、看護師だ。夜勤の多い母とは、こうして台所のメモで話すことの方が多い。忙しくて顔を合わせる時間は少ないけれど、メモの最後にはいつも、美空と美月への小さな質問が書いてある。美空は、その下にペンで書き足した。
『寝てる。卵焼き、ありがとう。 美空』
うそが、また一つ増えた。
「わたし、今日は会社でAIの研修なんだ」美月が、バッグを肩にかける。「画像を作るAI。うちの部長、命令ばっかり打ちこんで、変な絵しか出てこないの。言葉の渡し方が下手なんだよね。美空も、そのうち使うんじゃない?」
美空は、卵焼きをかじりながら、あいまいに笑った。だしのしみた卵焼きは、冷えていても、ほんのりあまかった。玄関のドアが閉まると、台所には、母の寝息と、冷蔵庫の低い音だけが残った。
◇ ◇ ◇
目黒から駒場までは、自転車で20分。坂を下り、また上る。初夏の風が、シャツの背中をふくらませた。坂の途中で、どこかの庭から、ジャスミンのあまいにおいが流れてきた。
正門には、守衛さんが立っている。けれど広い敷地には裏門がいくつもあって、美空はいつも、守衛さんのいない小さな裏門を使う。その門をくぐると、銀杏並木の緑が、はじめは曲がりくねりながら、図書館のあたりからは真っ直ぐなトンネルのように続いていた。休日のキャンパスには、本を抱えた学生たちが、ちらほら歩いている。
美空は、図書館の横で自転車を止め、スマートフォンを構えた。カシャ。
『土曜も図書館。レポート地獄』
投稿ボタンを押す。数秒で、♡が50を超えた。
本当は、図書館には入れない。入口のゲートは、本物の学生証をかざさないと開かないのだ。美空の手作りのカードに、ゲートを開ける力はない。投稿の写真に写っているのは、いつもガラス越しの本棚だけだった。
そのかわり、グラウンドとクラブ棟には、もうすっかり常連だ。土ぼこりの舞うグラウンドの、どのベンチが日かげになるのかも、クラブ棟の階段の、どの段がきしむのかも知っている。美術サークルの部室では「理一の高瀬さん」と呼ばれ、差し入れのお菓子をもらったこともある。
だれも、疑わない。美空がここの学生ではないことに、だれも気づかない。
昼は、生協でランチを買う。学食で食べることも多い。生協のレジに並ぶときの美空は、しっくりと学生らしい。くたびれたトートバッグに、ステッカーだらけのノートパソコン。少しだけ眠そうな顔。わざと気をつかわない格好をするのが、いちばんのコツだ。レジの横のケースから、からあげの油のにおいがただよってくる。
すぐにわかるのは、見学に来た高校生の方だった。おろしたてのワンピースや、アイロンのきいたシャツ。いかにも「お出かけ着」で、きょろきょろと天井を見上げている。地方から来たらしい女の子が二人、大学のロゴ入りのボールペンとクリアファイルを手に、どっちにしようかと真剣に相談していた。
(かわいいな)
そう思ってから、美空は少しだけ胸が痛くなった。あの子たちは、いつか本当に、ここの門をくぐるのかもしれない。裏門ではなく、正門から、堂々と。
(数字は、うそをつかない)
それが、美空の口ぐせだった。うそをついているのは、いつだって美空の方なのに。
◇ ◇ ◇
午後は、家庭教師の日だった。生徒は、中学2年生の野々村小春。春から、学校に行けなくなっている女の子だ。
「先生、これ」
小春が、ノートの端を見せてくる。数学のノートなのに、比例のグラフの横に、小さな手が描かれていた。上へ、上へと伸びる手。その指先の少し先に、星が一つ。
「また手?」
「うん。手って、何かをつかもうとしてるときが、いちばんきれいだから」
小春は、少しはずかしそうに笑った。美空は、なぜかその絵から目をはなせなかった。指と星のあいだの、ほんのわずかなすきま。届きそうで、届かない距離。
(……どこかで、見たことがある)
「先生?」
「あ、ごめん。じゃあ、比例の問題ね」
美空は、ノートに式を書いた。y=ax。
「xが2倍になったら、yは?」
「2倍」
「正解。じゃあ、フォロワーが2倍になったら、いいねも2倍になると思う?」
「え……なるんじゃないの?」
「ならないんだよね、これが」
自分で言って、美空は胸の奥が、少しだけちくりとした。フォロワーは増え続けているのに、♡の数は少しずつ減っている。比例しない数字に、美空は毎晩、心を削られていた。
帰りぎわ、小春の机の上に、古い赤い手袋が片方だけ置いてあるのが見えた。毛糸がすりきれて、星の形の刺しゅうだけが、やけにくっきりと残っている。もう片方は、どこにもなかった。
◇ ◇ ◇
帰り道、松濤公園の前を通った。美空のいちばん好きな場所だ。渋谷のすぐそばなのに、ここだけ、時間がゆっくり流れている。池の水と、しめった土のにおい。木の上で、カラスが一声だけ鳴いた。
池のほとりに、イーゼルが一つ立っていた。暗くなりかけた水面を、だれかが描いている。背中しか見えないけれど、その筆の動きは、少しも急いでいなかった。♡も、コメントも、何もない場所で。平日の朝、学校へ向かう途中でも、ときどき見かける背中だった。土曜の夕方にもいるなんて、めずらしい。
(あんなふうに描いて、何になるんだろう)
美空はペダルをこいで、その背中の横を通りすぎた。
◇ ◇ ◇
夜。机に向かい、スケッチブックを開いた美空は、手を止めた。知らない絵が、そこにあった。
雪の野原。古い石の鐘楼。そのあいだの、深い穴。穴へ向かって伸びる、二本の手。一本は赤い袖、一本は青い袖。そして、手のすぐ横で、小さな星が光っていた。美空のいちばん好きな、深い青の空の中で。
(……わたし、こんなの描いてない)
けれど、線のくせは、まちがいなく自分のものだった。ページの右下の隅に、小さな数字が一つ。
『70』
自分の字だった。背中を、冷たいものが走る。そのとき、頭のずっと奥で、あの数を数える声とはちがう、静かな声がした。
……完成させて。
美空は、息をのんだ。机の上で、スマートフォンが光る。
『♡ 102,364』
いつもなら、すぐに手をのばす数字。その夜、美空は初めて、その画面を見なかった。
本小説は、小説投稿サイトTALESで完結済みの『運命の書にない少女』を修正しているものです。
文章表現などを一部調整しています。
いち早く読みたい方は、小説投稿サイトTALESにてお楽しみください。
https://tales.note.com/jud/wkwgpgw9otsrk




