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世界を変える一枚のアート――止まった70秒を、わたしが描く。”AIの先にある感動へ”  作者: Hamin
プロローグ 止まった七十秒

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2/8

2話 ノーバディ

午前2時。スマートフォンの画面の中で、数字が回っていた。


『♡ 98,412』 『♡ 99,107』 『♡ 100,000』


高瀬《たかせ》美空《みそら》は、ベッドの上でひざを抱《かか》えたまま、それを見ていた。10万。


≪よし≫


頭の奥《おく》で、低い声がした。数を数える声。いつからか、美空の中に住みついている声だ。


≪でも、前の絵は12万だった≫

≪この調子だと、来週は8万≫

≪フォロワーの伸《の》びも、鈍《にぶ》ってる≫


(わかってる)


美空は、画面を下へ流した。『神』『今日もNOBODYの青が刺《さ》さる』『顔出ししてほしい〜』『この子、ほんとに高校生?』――コメントの一つ一つに♡がつき、その♡に、また♡がつく。


アカウント名は、NOBODY。ノーバディ。誰でもない者。フォロワーは80万人。顔も、名前も、年も出していない。それでも、この街のどこかで、だれかが毎晩、美空の絵を待っている。すごいことだ、と頭ではわかっている。


なのに。


(……静か)


胸に手を当てる。10万の♡を受け止めたはずの場所が、しんと冷えていた。真冬の美術室の、だれもいないイーゼルみたいに。


机の上で、プラスチックのカードが、スタンドの光を反射した。


『東京大学 理科一類 2年 高瀬美空』


顔写真つきの学生証。自分で作ったものだ。東京大学――日本でいちばん入るのが難しいと言われる、国立の大学。毎年、全国のトップクラスの受験生がしのぎを削《けず》り、それでも多くが涙《なみだ》をのむ場所。美空は、そこの学生ではない。都立青嵐《せいらん》高校の、2年生だ。


(でも、だれも気づかない)


カードをつまんで、くるりと回す。このカード一枚で、美空は「東大生の家庭教師」になれた。時給は、ふつうのアルバイトの倍。SNSに載《の》せる駒場《こまば》キャンパスの写真には、絵とは別の♡がつく。うそは、たった一枚のカードでできている。


美空はカードを引き出しにしまい、部屋の明かりを消した。


◇ ◇ ◇


眠《ねむ》りの底で、雪が降っていた。音のない、灰色の野原。遠くで、だれかが何かを描《か》いている。ふり返った少女の顔は、逆光で見えない。


……完成させて。


◇ ◇ ◇


「美空。その目の下のクマ、メイクでかくせるレベルじゃないよ」


土曜の朝。台所で、姉の美月《みづき》が、スーツのボタンをとめながら言った。五つ年上の美月は、広告の制作会社で働いている。社会人1年目なのに、もう何年も働いているような顔をする。しっかり者で、少し大人びた、美空の自慢《じまん》の姉だ。


「夜ふかし。課題」

「うそ。また絵でしょ」


美月は、冷蔵庫に貼《は》られたメモを指さした。


『夜勤明け、寝《ね》てます。卵焼き、冷蔵庫に。美空、ちゃんと寝てる? 母』


母の由美《ゆみ》は、看護師だ。夜勤の多い母とは、こうして台所のメモで話すことの方が多い。忙《いそが》しくて顔を合わせる時間は少ないけれど、メモの最後にはいつも、美空と美月への小さな質問が書いてある。美空は、その下にペンで書き足した。


『寝てる。卵焼き、ありがとう。 美空』


うそが、また一つ増えた。


「わたし、今日は会社でAIの研修なんだ」美月が、バッグを肩《かた》にかける。「画像を作るAI。うちの部長、命令ばっかり打ちこんで、変な絵しか出てこないの。言葉の渡《わた》し方が下手なんだよね。美空も、そのうち使うんじゃない?」


美空は、卵焼きをかじりながら、あいまいに笑った。だしのしみた卵焼きは、冷えていても、ほんのりあまかった。玄関《げんかん》のドアが閉まると、台所には、母の寝息と、冷蔵庫の低い音だけが残った。


◇ ◇ ◇


目黒《めぐろ》から駒場までは、自転車で20分。坂を下り、また上る。初夏の風が、シャツの背中をふくらませた。坂の途中で、どこかの庭から、ジャスミンのあまいにおいが流れてきた。


正門には、守衛《しゅえい》さんが立っている。けれど広い敷地《しきち》には裏門がいくつもあって、美空はいつも、守衛さんのいない小さな裏門を使う。その門をくぐると、銀杏《いちょう》並木の緑が、はじめは曲がりくねりながら、図書館のあたりからは真っ直ぐなトンネルのように続いていた。休日のキャンパスには、本を抱えた学生たちが、ちらほら歩いている。


美空は、図書館の横で自転車を止め、スマートフォンを構えた。カシャ。


『土曜も図書館。レポート地獄《じごく》』


投稿《とうこう》ボタンを押《お》す。数秒で、♡が50を超《こ》えた。


本当は、図書館には入れない。入口のゲートは、本物の学生証をかざさないと開かないのだ。美空の手作りのカードに、ゲートを開ける力はない。投稿の写真に写っているのは、いつもガラス越《ご》しの本棚《ほんだな》だけだった。


そのかわり、グラウンドとクラブ棟《とう》には、もうすっかり常連だ。土ぼこりの舞《ま》うグラウンドの、どのベンチが日かげになるのかも、クラブ棟の階段の、どの段がきしむのかも知っている。美術サークルの部室では「理一の高瀬さん」と呼ばれ、差し入れのお菓子《かし》をもらったこともある。


だれも、疑《うたが》わない。美空がここの学生ではないことに、だれも気づかない。


昼は、生協でランチを買う。学食で食べることも多い。生協のレジに並ぶときの美空は、しっくりと学生らしい。くたびれたトートバッグに、ステッカーだらけのノートパソコン。少しだけ眠そうな顔。わざと気をつかわない格好をするのが、いちばんのコツだ。レジの横のケースから、からあげの油のにおいがただよってくる。


すぐにわかるのは、見学に来た高校生の方だった。おろしたてのワンピースや、アイロンのきいたシャツ。いかにも「お出かけ着」で、きょろきょろと天井を見上げている。地方から来たらしい女の子が二人、大学のロゴ入りのボールペンとクリアファイルを手に、どっちにしようかと真剣《しんけん》に相談していた。


(かわいいな)


そう思ってから、美空は少しだけ胸が痛くなった。あの子たちは、いつか本当に、ここの門をくぐるのかもしれない。裏門ではなく、正門から、堂々と。


(数字は、うそをつかない)


それが、美空の口ぐせだった。うそをついているのは、いつだって美空の方なのに。


◇ ◇ ◇


午後は、家庭教師の日だった。生徒は、中学2年生の野々村《ののむら》小春《こはる》。春から、学校に行けなくなっている女の子だ。


「先生、これ」


小春が、ノートの端《はし》を見せてくる。数学のノートなのに、比例のグラフの横に、小さな手が描かれていた。上へ、上へと伸びる手。その指先の少し先に、星が一つ。


「また手?」

「うん。手って、何かをつかもうとしてるときが、いちばんきれいだから」


小春は、少しはずかしそうに笑った。美空は、なぜかその絵から目をはなせなかった。指と星のあいだの、ほんのわずかなすきま。届きそうで、届かない距離《きょり》。


(……どこかで、見たことがある)


「先生?」

「あ、ごめん。じゃあ、比例の問題ね」


美空は、ノートに式を書いた。y=ax。


「xが2倍になったら、yは?」

「2倍」

「正解。じゃあ、フォロワーが2倍になったら、いいねも2倍になると思う?」

「え……なるんじゃないの?」

「ならないんだよね、これが」


自分で言って、美空は胸の奥が、少しだけちくりとした。フォロワーは増え続けているのに、♡の数は少しずつ減っている。比例しない数字に、美空は毎晩、心を削られていた。


帰りぎわ、小春の机の上に、古い赤い手袋《てぶくろ》が片方だけ置いてあるのが見えた。毛糸がすりきれて、星の形の刺《し》しゅうだけが、やけにくっきりと残っている。もう片方は、どこにもなかった。


◇ ◇ ◇


帰り道、松濤《しょうとう》公園の前を通った。美空のいちばん好きな場所だ。渋谷のすぐそばなのに、ここだけ、時間がゆっくり流れている。池の水と、しめった土のにおい。木の上で、カラスが一声だけ鳴いた。


池のほとりに、イーゼルが一つ立っていた。暗くなりかけた水面を、だれかが描いている。背中しか見えないけれど、その筆の動きは、少しも急いでいなかった。♡も、コメントも、何もない場所で。平日の朝、学校へ向かう途中でも、ときどき見かける背中だった。土曜の夕方にもいるなんて、めずらしい。


(あんなふうに描いて、何になるんだろう)


美空はペダルをこいで、その背中の横を通りすぎた。


◇ ◇ ◇


夜。机に向かい、スケッチブックを開いた美空は、手を止めた。知らない絵が、そこにあった。


雪の野原。古い石の鐘楼《しょうろう》。そのあいだの、深い穴。穴へ向かって伸びる、二本の手。一本は赤い袖《そで》、一本は青い袖。そして、手のすぐ横で、小さな星が光っていた。美空のいちばん好きな、深い青の空の中で。


(……わたし、こんなの描いてない)


けれど、線のくせは、まちがいなく自分のものだった。ページの右下の隅《すみ》に、小さな数字が一つ。


『70』


自分の字だった。背中を、冷たいものが走る。そのとき、頭のずっと奥で、あの数を数える声とはちがう、静かな声がした。


……完成させて。


美空は、息をのんだ。机の上で、スマートフォンが光る。


『♡ 102,364』


いつもなら、すぐに手をのばす数字。その夜、美空は初めて、その画面を見なかった。


本小説は、小説投稿サイトTALESで完結済みの『運命の書にない少女』を修正しているものです。

文章表現などを一部調整しています。


いち早く読みたい方は、小説投稿サイトTALESにてお楽しみください。

https://tales.note.com/jud/wkwgpgw9otsrk

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