1話 〈70秒前〉最後の七十秒
夜明けまで、あと少しだった。鐘楼の床は、氷のように冷たい。古い木と、しめった石と、鳩の羽のにおいがする。
エリーズ・ヴァロワは、かじかんだ指に息を吹きかけた。白い息は、窓から入る風に、すぐにちぎれていく。ひざの上には一枚の板と、木炭と、わずかに残った絵の具。木炭の粉が、指先に黒くざらついている。彼女は、描いていた。
(あと少し。あと少しだけ、手が動けば)
窓から見下ろすと、灰色の野原がどこまでも続いている。左には赤い旗の塹壕。右には青い旗の塹壕。そのあいだに、だれのものでもない土地が、雪をかぶって横たわっていた。
兵士たちは、そこを「無人地帯」と呼ぶ。人がいてはいけない場所。足をふみ入れれば、どちらの側からも撃たれる場所。けれど今、その真ん中に、一人の子どもがいた。
砲弾が地面をえぐってできた、深い穴。その底で、小さな女の子が空を見上げている。
ミナ。
六つになったばかりの、戦争で家をなくした子。いつも手袋を片方だけはめている。赤い毛糸に、小さな星の刺しゅう。
「おねえちゃん、星はね、なくしたほうの手袋に入ってるの」
そう言って笑った顔を、エリーズは知っている。その子が今、穴の底で、声も出さずに震えていた。
左の塹壕から、赤い軍服の兵士がはい出してきた。兄のポールだ。右の塹壕からも、だれかが出てきた。青い軍服。アズラ帝国の兵士。名前も知らない、若い男。
二人は鉄条網のすきまをくぐり、雪の上をはって、同じ穴を目指していた。撃てば、撃ち返される。それなのに、どちらの塹壕もしんと静まり返り、だれも引き金を引かない。
エリーズは息を止めて、木炭を走らせた。穴のふち。そこへ伸びる、二本の腕。赤い袖と、青い袖。指先が雪をつかみ、もう少しで小さな手に届く。
そして――二つの手のすぐ横で、星が一つ、光っていた。
夜明け前の空に、最後まで残る星。師匠のジュリアンは、それを「明けの明星」と呼んだ。
ほんとうは、この絵の手に、あの星をつかませたかった。赤い手と青い手が、いっしょに星をつかむ絵。戦争が終わる朝の絵。けれど、どうしても届かない。何度線を引き直しても、指先と星のあいだには、ほんのわずかなすきまが残ってしまう。
(どうして、届かないの)
ジュリアンの声が、耳の奥でよみがえる。
『光は、一瞬ごとに変わる。だから絵も、生きていなければならない。エリーズ、何を見たかではなく、何を感じたかを描きなさい』
(感じたこと……)
寒い。こわい。唇をかむと、鉄のような味がした。でも、あの二本の手を見たとき、胸の奥が、ふっと熱くなった。その熱を、どんな色で描けばいいのか。エリーズには、まだわからなかった。板の真ん中だけが、白いまま残っている。
――ひゅう。
遠くで、細い音がした。エリーズの手が止まる。口笛のような、冷たい空気を切りさく高い音。彼女は、その音を知っていた。野原のずっと向こうに、どん、と一発が落ちる。ねらいを確かめるための、最初の一発だった。
ふり返ると、赤の陣地の後ろ、低い丘の上に、黒い外套の人影が見えた。片腕を、まっすぐこちらへ向けて上げている。
アドリアン・クロイツ将軍。
(まさか)
将軍の砲兵隊は、いつも同じ撃ち方をする。まず一発を、わざと遠くに落とす。その着弾を見てから、砲兵たちは、七門の大砲の角度と向きを、一門ずつ少しずつずらして合わせ直す。
そして、七発。高い弧をえがいて飛ぶ曲射の砲弾は、長いあいだ空を飛ぶ。だから空には、黒い点が十秒ごとに、一つずつ落ちてくる。
一発目は遠くへ、二発目は少し近く、三発目はもっと近く。ねらいを一歩ずつ近づけていき、七発目で目標をしとめる。兵士たちは、それを「歩く砲撃」と呼んでいた。
エリーズは、自分のいる場所を見回した。古い石の壁。頭の上の、さびた大きな鐘。この野原で、いちばん高い建物。
ねらいは、ここだ。
「敵にも家族がいる」――そんな絵を描く画家を、将軍は許さない。きのう、アトリエを焼きに来た兵士たちが、そう言っていた。
(逃げなきゃ)
けれど、足は動かなかった。逃げれば、この絵は完成しない。完成しなければ、あの二本の手は、どこにも残らない。穴の底のミナ。手を伸ばす兄。名前も知らない、青い軍服の若者。この一瞬を見ているのは、世界でたった一人、自分だけだった。
――ひゅう、う。
音が、ふくらんでいく。エリーズは木炭をにぎりしめた。指が震えて、線がゆがむ。
(だめ。間に合わない)
七十秒。たった七十秒で、この絵は描けない。彼女は、まだ真ん中が白いままの板を、胸に抱きしめた。そして、生まれて初めて、心の底から祈った。
「だれか……。だれか――この絵を、完成させて」
音が、消えた。
エリーズは、ゆっくりと目を開けた。雪が、空中で止まっていた。舞い落ちる途中の一粒一粒が、ガラス玉のように宙に浮かんでいる。
窓の外。穴へ向かう兄の口元で、白い息が、小さな雲の形のまま固まっていた。青い軍服の若者の指先も、あと少しで穴のふちに届くところで止まっている。穴の底のミナは、空を見上げたまま、まばたきをしない。
そして、空の高いところに、黒い点がいくつも浮かんでいた。先頭が、一発目の砲弾。そのうしろに、少しずつ間をあけて、二発目、三発目……。高い弧の上で、十秒ずつの間をあけて、黒い点が、鐘楼へ向かって、空中に止まっている。まるで、だれかが夜空にまいた、黒い種のように。
(止まった……の?)
風の音もしない。鐘も鳴らない。自分の心臓の音さえ、聞こえなかった。世界が、一枚の絵になっていた。
エリーズは、腕の中の板を見下ろした。二本の手と、そのすぐ横の、届かない星。止まった世界の中で、その星だけが、かすかにまたたいていた。
(お願い。だれか、この続きを)
まぶたが、ゆっくりと重くなっていく。その声は、もう、言葉にはならなかった。
夜明け前の空に、まだ落ちていない七つの砲弾が、眠るように止まっている。
残り、七十秒。




