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第三話 戦争が終わっても、帰れない。

一九一八年、六月。上海(シャンハイ)。


恋文に必要なのは、美しい言葉ではない。

少なくとも林知微(リン・ジーウェイ)は、そう思うようになっていた。


『こちらは雨が多い。靴が乾かない』


『今日は晴れた。洗濯物がよく乾いた』


フランスから届いた三通目を読み終え、知微は深々とため息をついた。


「……この人、戦争じゃなくて洗濯をしに行ったのかしら」


「生きているってわかるだけ、素敵じゃない」


隣で髪を梳いていた蘇雪蓮(スー・シュエリエン)が、鏡越しに微笑んだ。


「あなたの軍人さまは、もっと気の利いた手紙をくださるの?」


「……食事と防寒の心配ばかりよ」


「似た者同士ね、私たち」


二人は顔を見合わせ、笑った。


紅月楼(ホンユエロウ)では、遠い戦争より今夜の酒代のほうが重大だった。租界の街路には自動車が走り、黄浦江(ホアンプージャン)には外国船が出入りする。


その華やかさの向こう、欧州では中国人労働者たちが物資を運び、線路を直し、戦争の傷を埋めていた。


言舟も、その一人だった。


彼は字を書けない仲間の手紙を代筆し、時折、知微にも彼らの話を綴った。


『今日、ある男が妻への手紙を頼みに来た。無事だとだけ書いてくれと言ったあと、娘の背が伸びたか聞いてほしいと付け足した』


知微は何度も読み返した。


帰りたい場所があるというのは、幸福なのだろうか。

それとも、帰れなくなることを恐れる理由が増えるだけなのだろうか。


彼女は返事を書いた。


『紅月楼は相変わらずよ。女将は怖く、小蘭(シャオラン)はよく食べる。私は相変わらず美しいわ』


少し考えて、もう一行。


『帰ってきたら、私の好きなものを教えてあげる』


本当は、もう決まっていた。


朝、誰かと粥を食べること。

夜になれば、帰ってくる人がいること。

そして、商売の名ではなく、自分の名前を呼んでもらうこと。


知微は筆を置いた。

書いてしまえば、それらが叶わなかったとき、あまりにも寂しい気がした。


*


八月。

届いた手紙には、雨で滲んだような染みがあった。


『仲間が一人、負傷した。物資を扱う場所だったが、砲弾は働く者と戦う者を区別しない』


『彼の妻への手紙を書いている。何と書けばいいのかわからない』


知微は、言舟の声を思い出した。


「前線へ行くわけじゃない」


あの夜、自分は尋ねた。

砲弾は、あなたの職業を尋ねてから落ちるのか、と。


知微は震える指で筆を取った。


『わからないなら、わからないと書きなさい』


『立派な言葉より、あなたがそこにいたことのほうが大切よ』


最後に、どうしても書きたくなった。


『会いたい』


けれど、墨が乾く前にその三文字を塗り潰した。

そんなことを書いたら、あの真面目な男は、無理をしてでも帰ろうとするかもしれない。


代わりに記したのは、『ちゃんと食べて、よく眠りなさい』という、ひどくつまらない言葉だった。


封をしてから、知微は笑った。


「……私まで、恋文が下手になったわ」


*


十月。

上海では、奇妙な熱病が広がっていた。


初めは誰もが、季節の変わり目の風邪だと思っていた。けれど、店は次々と人手を失い、紅月楼でも寝込む娘が増えていった。


知微は帳場に座り続けた。


「姐姐(ジエジエ)(お姉さん)、顔色が悪いですよ」


小蘭が心配そうに覗き込む。


「白粉を塗りすぎたの」


「今日は塗ってません」


「……あなた、最近口が達者ね」


笑った途端、咳が込み上げた。


夜には熱が出た。

身体の節々が痛み、喉が焼けるようだった。それでも知微は、言舟から贈られた濃紺の帳面を枕元に置いた。


『十月十七日。熱がある』


『十月十八日。小蘭が粥を持ってきた』


『十月十九日。今日は字が少し曲がる』


頁をめくれば、彼の悪口が並んでいる。


『顧言舟(グー・イェンジョウ)は、女の口説き方を知らない』


『顧言舟は、冗談を真に受ける』


『顧言舟は、私の顔より帳簿を褒める』


知微は掠れた声で笑った。


「……本当に、変な人」


小蘭が濡れた布を額に載せた。


「先生、帰ってきますよね」


「ええ」


知微は迷わず答えた。


「だって、銀貨百枚も借りがあるんだもの」


笑わせるつもりだった。

けれど、小蘭は泣きそうな顔をした。


*


十一月十一日。

欧州で休戦協定が結ばれた。


その知らせが上海へ伝わると、街は歓声に包まれた。紅月楼でも酒が振る舞われ、客たちは戦争の終わりを祝った。


二階の小さな部屋で、知微は薄く目を開けた。


「姐姐、戦争が終わったんです」


小蘭が手を握る。


「あの人、帰ってきますよ。きっと」


「……そう」


知微は微笑んだ。


「じゃあ……悪口、もっと考えなくちゃ」


枕元には、濃紺の帳面があった。

震える指で開く。

最後の頁に、知微はゆっくりと筆を走らせた。


『言舟へ』


墨が滲んだ。


『私ね、あなたと――』


そこまで書いて、彼女は窓の外を見た。

紅い灯籠が、夜風に揺れている。


いつか、あの人と朝の粥を食べたかった。

洗濯物を干しながら、また天気の話ばかりするのかと笑ってやりたかった。

自分の名前を呼ぶ声に、何度でも振り返りたかった。


どれも、あまりに小さな願いだった。

だから、叶うと思っていた。


「……言舟」


その声は、階下の歓声に紛れた。


小蘭が呼びかけても、知微はもう答えなかった。

開いた帳面の上で、筆先から落ちた墨が、最後の文字を静かに滲ませていた。


戦争は終わった。

船は、いつか港へ帰ってくる。


けれど、その帰りを待っていた女の時間だけが、あの夜、ひっそりと止まった。


――第三話・了――


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