第二話 恋文には、宛名がいる。
一九一七年、十月。上海。
恋文というものは、書いた人間の品性がよく表れる。
少なくとも林知微は、そう信じていた。
「『君の瞳は夜空の星より美しい』ですって。昨夜の方なんて、私の目を一度も見なかったくせに」
紅月楼の帳場で、知微は客の置いていった手紙を摘まみ上げた。
「素敵な言葉じゃありませんか」
小蘭が覗き込む。
「最後に『昨夜はありがとう、牡丹』と書いてあるの」
「……姐姐(お姉さん)は玉蘭ですよね?」
「ええ。お花の名前さえ覚えられない男に、女の心がわかるものですか」
知微が手紙を丸めると、背後から柔らかな笑い声がした。
「でも、名前を覚えてくれる人なら、いいの?」
振り返れば、蘇雪蓮が琵琶を抱えて立っていた。紅月楼の歌姫は、意味ありげに知微を見つめている。
「……何の話?」
「さあ。お茶しか頼まない、字の綺麗な方のお話かしら」
知微は算盤を一つ、盛大に弾き間違えた。
*
顧言舟が紅月楼へ通い始めて、三か月が過ぎていた。
彼は相変わらず酒を飲まず、女を抱かず、代わりに印刷所から持ち帰った紙束を広げては、知微に意見を求めた。
その夜も、卓上には欧州へ渡った中国人労働者の手紙の控えが並んでいた。
「『母上、こちらは元気です。どうか心配なさらず』……これ、嘘ね」
「どうしてわかる?」
「本当に元気なら、元気だなんて三度も書かないわ」
言舟は感心したように頷き、朱筆で訂正を入れた。
「あなた、私の顔より文章に夢中ね」
「顔なら、もう覚えた」
「……そういうことを平気で言うのね」
「何かおかしかったか?」
知微は扇で口元を隠した。
この男は、口説こうとすると黙り、口説くつもりがないときほど、心臓に悪い。
別の手紙には、故郷の妻へ向けた言葉があった。
『帰ったら、お前の作る麺が食べたい』
「これは好き」
「麺が?」
「違うわ。帰りたい理由が、ちゃんとあるところ」
知微は紙を揃え、言舟へ返した。
「大きな約束より、こういう小さな欲張りのほうが信じられるの」
言舟はしばらく彼女を見つめ、それから懐の手帳に何かを書き留めた。
「……今の、書いたの?」
「忘れたくないから」
知微は笑おうとして、失敗した。
*
十一月。
中国が八月に対独宣戦を布告してから、上海では欧州の戦争が以前より身近なものとして語られていた。
そんな折、言舟はフランス行きを告げた。
中国人労働者の通訳と書記を補助する仕事を紹介されたという。
まず北方の募集拠点へ向かい、手続きが整えば海を渡る。
「前線へ行くわけじゃない」
「砲弾は、あなたの職業を尋ねてから落ちるの?」
言舟は答えなかった。
知微は彼の袖口を掴んだ。いつもインクで汚れた指が、今日は妙に綺麗だった。
「どうして、あなたが行くの」
「字の読めない者が、知らない土地で困らないようにしたい。それに……金も必要だ」
「本当に、出世しない男ね」
「君には最初から言われている」
知微は笑った。
けれど、その笑顔を保てたのは、彼が手を重ねるまでだった。
「知微」
彼女は息を呑んだ。
「……まだ、教えていないわ」
「すまない。以前、帳簿の端に見えた。君が隠したいなら、二度と呼ばない」
知微は長い沈黙のあと、首を振った。
「……もう一度」
「林知微」
九年間、誰にも呼ばせなかった名前だった。
その三文字が、彼の声では不思議なほど優しく聞こえた。
「銀貨百枚よ」
「覚えている」
「払えるの?」
「まだ無理だ」
「本当に、情けない人」
知微は笑いながら彼の胸元を引き寄せた。
唇が触れたのは、一瞬だった。
離れようとした彼を、今度は知微が引き留める。
「……今夜くらい、帳簿以外を見なさい」
言舟は彼女の頬に触れ、返事の代わりに、もう一度口づけた。
窓の外では、黄浦江を行く船の汽笛が低く響いていた。
*
出立の前夜、言舟は濃紺の小さな帳面を贈った。
「君の好きなことを書いてほしい」
「あなたの悪口でも?」
「二冊目が必要なら送る」
知微は声を立てて笑った。
翌朝、彼女は港まで見送りに出た。
「手紙を書く」
「宛名は?」
「……君の名前で」
船の汽笛が鳴る。
知微は彼の袖を離した。
「ねえ、言舟。帰ってきたら、私の好きなものを教えてあげる」
「約束だ」
彼はそう言って、船へ向かった。
知微は姿が見えなくなるまで手を振り続けた。
帰り道、彼女は帳面を開いた。
最初の頁には、自分の名前。
『林知微』
二頁目には、たった一行。
『顧言舟は、女の口説き方を知らない。』
その下に、もう一行を書こうとして、筆が止まった。
好きなもの。
朝、誰かと一緒に粥を食べること。
夜になったら、帰ってくる人がいること。
自分の名前を、あの声で呼んでもらうこと。
知微は帳面を閉じた。
それらを書いてしまえば、まだ手に入れていない幸福が、あまりにも鮮明になってしまう気がした。
港の向こうで、船影が朝靄に溶けていった。
その日から知微は、手紙の届く日を数えるようになった。
――第二話・了――




