第一話 名前を買いに来た男。
一九一七年、七月。上海。
紅月楼では、女の名前は三度変わる。
生まれたとき、親から与えられる名前。売られたとき、女将から与えられる名前。そして最後に、男たちが寝台の上で囁く、翌朝には忘れてしまう名前。
林知微は、そのどれにも大した価値を認めていなかった。
「昨夜のお客さま、私を『月から舞い降りた仙女』とお呼びになったの」
紅い帳の垂れた帳場で、知微は算盤を弾きながら言った。
白磁の香炉から白檀が漂い、階下では女たちの笑い声に琵琶の音が重なっている。
「素敵じゃありませんか」
小蘭が頬を緩める。
「その仙女に酒を三壺飲ませて、勘定を踏み倒したのよ」
「……最低ですね」
「ええ。月まで追いかけて取り立てたいわ」
知微は二十四歳。紅月楼では《玉蘭》の名で知られていた。
蘇州の商家に生まれ、父の負債と引き換えに十五で売られた。
九年のあいだに覚えたのは、男の機嫌の取り方と、嘘を見抜く方法。
それから、笑顔にも値段がつくという、この楼で最も役に立つ算術だった。
肌に触れる手の優しさと、その男の誠実さは、必ずしも一致しない。
それを知った夜から、知微は誰にも本名を教えていない。
その晩、奇妙な男が訪れた。
灰色の長衫を着た青年で、襟元はきちんと整っているのに、袖口だけが黒い。
端正な顔立ちには不釣り合いなほど疲れた目をしていた。
「字の読める女性をお願いしたい」
知微は扇を止めた。
「……寝台で詩でも朗読させるおつもり?」
「いや。契約書を読んでほしい」
「まあ。ずいぶん倒錯したご趣味」
男はようやく自分の言葉の奇妙さに気づき、耳を赤くした。
顧言舟、二十六歳。印刷所で活字を組み、代筆を請け負っているという。
二階の座敷へ案内すると、彼は女の身体ではなく、卓上の灯火を気にした。
「もう少し明るくできるだろうか。目を悪くする」
「ここへ来て、女の目を心配する男は初めてよ」
「……そうなのか」
「ええ。たいていは、別のところを見るもの」
知微が襟元を指先で緩めると、言舟は慌てて視線を紙へ落とした。
その反応があまりに初々しく、知微は久しぶりに仕事ではない笑いをこぼした。
差し出された紙には、欧州へ渡る中国人労働者の募集条件が記されていた。
海の向こうでは三年近く戦争が続き、英仏は不足する労働力を補うため、中国から人を募っている。
言舟は募集に応じる人々のため、難解な契約を平易な言葉に直していた。
「危険について、ずいぶん小さな字で書いてあるのね」
「……ああ」
「お給金の話はこんなに大きいのに」
言舟は苦い顔をした。
「だから、きちんと伝えたい」
「悪いことまで教えたら、誰も署名しないかもしれないわ」
「それでも、知らないまま署名するよりいい」
知微は紙から目を上げた。
九年前、自分が父に押させられた証文にも、難しい文字が並んでいた。
あのとき誰かが一行ずつ読んでくれていたなら、何かが変わっただろうか。
「……あなた、出世しないでしょうね」
「よく言われる」
「おまけに女にも騙されそう」
「今、騙されているのか?」
「さあ。どうでしょう」
知微は微笑んだ。
言舟は真面目に考え込み、やがて彼女の手元へ目を向けた。
「その帳簿は、君が?」
「ええ。女将は数字より人を叱るほうがお得意だから」
「綺麗な字だ」
知微は瞬いた。
今夜も髪には香油を馴染ませ、薄絹の衣の下には、男たちが好むよう肌を整えてある。
けれど、この男が褒めたのは、指先から生まれた文字だった。
「……顔より?」
「比べるものなのか?」
「本当に、女の口説き方をご存じないのね」
「口説いているつもりは……」
「そこは嘘でも、口説いていると言うところよ」
言舟は困ったように笑った。
帳簿には、今夜の客の名が記されていた。
『顧言舟』
その横に、知微の商売の名がある。
『玉蘭』
「君の名前?」
「ここでの名前よ」
「本当の名前は?」
知微の指が止まった。
香炉の煙が二人の間を漂い、階下から客の笑い声が響いた。
彼女はゆっくりと扇を開いた。
「本名は高いの。銀貨百枚」
言舟は懐を探った。
取り出したのは、銅貨三枚だった。
「……足りないな」
「お茶なら飲めるわ」
「なら、お茶を頼む」
知微は吹き出した。
「私を買いに来たのではなくて?」
「名前を聞きたかっただけだ。君が嫌なら、聞かない」
あまりに静かな声だった。
この楼では、拒むことにさえ値段がつく。
それなのに彼は、彼女が差し出さなかったものを奪おうとしなかった。
知微は茶を淹れながら、胸の奥に生じた小さな痛みを持て余した。
「……変な人」
「それも、よく言われる」
「誰に?」
「今夜は、君に」
また笑ってしまった。
男が帰ったあと、知微は帳簿に書き足した。
『顧言舟。茶代、銅貨三枚。』
少し迷ってから、その下に小さく記す。
『変な人。』
筆を置いたとき、窓の外から船の汽笛が聞こえた。
黄浦江の向こうでは、異国へ向かう船が夜の水面を進んでいる。
知微はまだ知らなかった。
いつか自分が、あの男のために何頁もの悪口を書くことも。
九年間、誰にも渡さなかった名前を、たった一人に教えること。
そして、最後に書き残す言葉が、あれほど短くなることも。
ただその夜、帳簿の隅に書いた『変な人』の三文字だけは、なぜか消す気になれなかった。
紅月楼の灯籠が、夏の風に揺れていた。
――第一話・了――




