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第四話 あなたの名前を、最後まで。

一九一九年、九月。上海(シャンハイ)。


顧言舟(グー・イェンジョウ)が帰国した日、紅月楼(ホンユエロウ)の灯籠は、出立した二年前と同じ赤色をしていた。


それが、なぜかひどく恐ろしかった。


フランスでは戦争が終わったあとも、壊れた線路や道路の復旧が続いていた。

帰国の順番を待つあいだ、言舟は何百通もの手紙を代筆した。


家族を案じる言葉。帰郷を喜ぶ言葉。二度と帰れない者に代わって綴る、最後の言葉。


自分の手紙には、いつも天気のことしか書けなかった。


『今日は晴れた。洗濯物がよく乾いた』


返事は、去年の秋から途絶えていた。

郵便の遅れだと思っていた。あの口の悪い女が、きっと自分を困らせようとしているのだと。


「……玉蘭(ユーラン)は?」


帳場にいた小蘭(シャオラン)が、顔を上げた。


「顧先生……」


その声だけで、言舟は何かを悟った。


けれど、まだ聞きたくなかった。


「林知微(リン・ジーウェイ)は、どこにいる?」


小蘭の目から、涙が落ちた。


「……去年の十一月に」


言舟は黙っていた。


階下では客が笑い、琵琶(ピーパー)の音が響いている。女たちは美しく着飾り、紅い灯の下で今夜も誰かに愛を囁いていた。


知微がいなくても、世界は少しも困っていなかった。


「……そうか」


ようやく、それだけ言った。


*


小蘭が差し出したのは、濃紺の帳面だった。


「姐姐(ジエジエ)(お姉さん)が、先生に渡してって」


言舟は表紙を撫でた。


出立の前夜、自分が贈ったものだった。


最初の頁には、整った文字で名前がある。


『林知微』


その三文字を見た瞬間、喉の奥が詰まった。


次の頁には、悪口が並んでいた。


『顧言舟は、女の口説き方を知らない』


『顧言舟は、冗談を真に受ける』


『顧言舟は、私の顔より帳簿を褒める』


「……ひどいな」


思わず笑った。

頁をめくる。


『顧言舟は、きっと帰ってくる』


その文字だけ、少し筆圧が強かった。

さらにめくると、日付が続いていた。


『十月十七日。熱がある』


『十月十八日。小蘭が粥を持ってきた』


『十月十九日。今日は字が少し曲がる』


そして、最後の頁。


『言舟へ』


『私ね、あなたと――』


言舟は、その先を探した。

次の頁も、その次も、真っ白だった。


「……続きは?」


小蘭は首を振った。


言舟はもう一度、文字を見つめた。

自分は文字を書く仕事をしてきた。


異国の地で、死にゆく男の言葉も、故郷を恋しがる男の願いも、できる限り正確に書き残してきた。


それなのに。


たった一人、誰よりも言葉を聞きたかった女の最後の一文だけが、永遠にわからない。


「……知微」


名前を呼ぶと、急に胸が痛くなった。


あの日、彼女は言った。


本名は銀貨百枚だと。


言舟は本気で、その金を貯めていた。

帰国したら、女将に話をするつもりだった。


彼女が望むなら、紅月楼を出て、一緒に暮らそうと。


小さな部屋でいい。

朝は粥を食べ、昼は仕事をし、夜には必ず帰る。


そう伝えるために、海を渡って帰ってきた。


「……遅かったな」


誰にともなく呟いた。

小蘭は泣きながら首を振った。


「姐姐、先生の手紙が来る日は、いつも嬉しそうでした」


「……天気の話しか書いていない」


「それでも、生きてるってわかるからって」


言舟は顔を覆った。


愛している、と書けばよかった。

会いたい、と書けばよかった。

どれほど寂しくても、君のところへ帰る、と。


言葉なら、いくらでも知っていたのに。


*


翌朝、言舟は女将に頼み、古い帳簿を見せてもらった。


そこには、見覚えのある一行があった。


『顧言舟。茶代、銅貨三枚。』


その下に、小さく。


『変な人。』


言舟は、とうとう声を立てて笑った。

笑いながら、涙が落ちた。


「……最後まで、ひどい女だ」


懐から銅貨を三枚取り出す。

帳簿の横に、丁寧に並べた。


「知微」


紅い灯の下で、彼は静かに呼んだ。


「帰ってきたよ」


返事はなかった。


「……茶代を、払いに来た」


かつて彼女が座っていた場所には、もう誰もいなかった。


*


一九二〇年、春。


言舟は上海の小さな印刷所で働いていた。


人の名前を間違えないこと。

宛名を省かないこと。

どんな短い文章にも、誰かの人生があると忘れないこと。


それが、彼の仕事のすべてになった。


ある夜、紅月楼を訪れると、蘇雪蓮(スー・シュエリエン)が二階で歌っていた。


帰らない人を待つ女の、古い恋歌だった。


歌い終えた彼女は、誰も座っていない奥の席を一度だけ見つめた。


言舟は何も尋ねなかった。

この楼には、名前を呼べなくなった人間が、きっと自分のほかにもいる。


帰宅した彼は、濃紺の帳面を開いた。


『私ね、あなたと――』


その続きを書こうとして、筆を止めた。

知微の言葉を、自分が勝手に終わらせてはいけない。


代わりに、新しい紙を取り出した。


『林知微へ』


『今日は晴れた。洗濯物がよく乾いた』


そこまで書いて、苦笑した。


「……また、天気の話だ」


あの人なら、きっと呆れるだろう。

もっと気の利いたことを書きなさい、と。


だから言舟は、生まれて初めて、恋文らしい言葉を書いた。


『君に会いたい』


窓の外では、春の雨が降り始めていた。

言舟は手紙を畳み、宛名を記した。


林知微。


かつて銀貨百枚と言われた、世界でいちばん大切な名前。


翌朝も、その次の朝も、彼は手紙を書いた。


晴れた日には、晴れたと。

雨の日には、雨だと。

いつか彼女が笑って読んでくれるような、つまらない日常を。


けれど、どれほど手紙が増えても、返事は一通も届かなかった。


ある春の夜、言舟はふと気づいた。

知微が好きなものを、結局ひとつも聞けなかったことに。


あの人が何を食べたかったのか。

どこへ行きたかったのか。

どんな明日を夢見ていたのか。


彼は濃紺の帳面を抱き寄せた。


「……知微」


声が震えた。


「君の好きなものを、まだ聞いていない」


春の雨が、窓を静かに叩いていた。


机の上には、宛先のない手紙が一通。

その隣には、最後まで書かれなかった彼女の言葉。


『私ね、あなたと――』


言舟は、もう続きを探さなかった。


ただ、彼女が生きていたなら聞かせたかったたった一言を、白い紙の最後に書き添えた。


『おかえり、と言ってほしかった。』


そして、その下にもう一行。


『ただいま、知微。』


紅月楼には、その年も春が来た。


けれど彼の帰る場所は、あの女が名前を教えてくれた秋の朝に、永遠に置き去りにされていた。


――完――


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