聖地エルバドルフ
朝露が草花を濡らし、昇り始めた太陽の光が柔らかにあたりを包み込む。人里離れた教会に今日も平和な一日が始まろうとしていた。
教会の礼拝堂で一人の少女が静かに祈りを捧げていた。
少女の名前はシェリー・エルバ。意思の強さを感じさせる凛とした碧眼。肩までさらりと流れるブロンドの髪は絹糸のようで、慎ましやかな修道服と相まって控えめな美しさをみせていた。
シェリーの祈る先にあるもの。そこにあるのは通常の教会にあるような十字架ではなかった。礼拝堂の奥には隆起した岩盤が荒々しくそびえ立っている。室内の景観を破壊するようなその存在はしかし、当たり前のように室内に収まり、あろうことか清潔に保たれている。岩盤の周囲には華美とはいかないまでも、手入れの行き届いた祭具が置かれ、まるで祀られるように丁重に扱われていた。
ならば、その岩こそが十字架に代わる祈りの対象なのか、と尋ねられれば違う。少女の祈りの対象はその岩の上にあった。
人の頭上よりも高い位置にある岩盤の頂点。一振りの剣が岩盤に深く突き刺さっている。それがこの教会で最も尊い聖遺物だった。
高い天窓から差す陽光に照らされて、その剣の全容が露わになる。年季の入った柄に巻き付けた布はボロボロで今にもほどけそうだ。だが、その剣の刀身を見て目を奪われぬ者はいないだろう。一切の汚れを受け付けぬような澄んだ光は信心深くない人間でも威に打たれ、祈りを捧げたくなるほど美しい。
曇り一つない美しい剣と一心に祈りを捧げるうら若き少女。傍から見れば絵画的な美しさに見えたことだろう。
「竜神エルバ。あなたの与えたもうた平和に感謝を捧げます。今日もどうか私たちをお導きください」
祈りの言葉はひそやかに。しかしながら、芯の強さを感じさせる声をしていた。
その時、扉がゆっくり音を立てて開いた。
「おはようございます。シスター・シェリー。今日も早いのですね。感心です」
立ち上がったシェリーは振り向いて、同じ修道服を纏う老女に花開くような微笑みを向ける。
「おはようございます。シスター・メリダ」
シェリーの年相応のあどけない笑みに老女も穏やかに頷いた。老女の名はメリダ・エルバ。深く刻まれた額のしわは老いを感じさせるものの、彼女の挙動に澱みはない。ぴんと伸ばされた背筋とまっすぐな瞳は活力に満ちている。
メリダはシェリーの隣に並び立ち、黙祷を捧げること少し。目を開くと祀られた剣を見上げて、シェリーに語りかけた。
「シスター・シェリー。今日も良き祈りを捧げたようですね。この聖剣を見れば分かります」
聖剣が祈りの力を受けてか青白く発光している。褒められたシェリーは嬉しさを顔に滲ませた。
「聖剣にとって人の祈りは力です。それが純粋であればあるほど、その思いが強ければ強いほど聖剣の力となります。そして聖剣の力は世界の安寧に繋がります。分かりますか。私たちの祈りがどれほど重要な意味があるのか」
メリダの改まった様子に「はい」とシェリーは顔を引き締めて静かに答える。
メリダはシェリーの瞳に強い責務の意志を見て取って、満足げに頷いた。
「千年前、魔神シラ・メレガモンが破壊と暴虐の限りを尽くしていた時、竜神エルバは数多の英雄とともに立ち向かいました。厳しい戦いの毎日。それが何年も続きました。ですが、最後、魔神シラ・メレガモンを追いつめた竜神エルバは御自らを犠牲にして封印に成功しました。その時の楔として使用されたのがこの聖剣――『封神剣エルバラース』です」
シェリーは黙って聞き入っている。メリダから幾度となく繰り返し聞かされた聖剣にまつわる話。『封神剣エルバラース』。その聖剣は教会の祈りの対象であり、世界平和の要でもあった。
いつ聞いても身が引き締まる思いだ。自身の大切な使命の大切さを強く実感させる。
「はい。この岩に聖剣が突き刺さっているように見えるのも、その封印のため。魔神の瘴気を外に出さぬためこの岩で覆ったのだとか」
その通りです、とメリダは慈愛の籠った目で頷く。そして、遠い過去に思いを馳せるように聖剣を見上げて言った。
「聖剣には、魔神を封印する際、竜神の力とその魂すべてを籠めたと言われています。この聖剣はただの聖遺物ではありません。竜神そのものでもあります。私たちはそれを忘れず、日々の祈りに臨まなくてはなりません」
メリダはふうっと一息つくと、シェリーの方に視線を戻した。
「ですが、ここで終わりではありません。私たち人間の使命はこの先にあるのです」
「はい。竜神エルバは最期に託されました。この封印の維持を。その大役を任されたのが当時封印に大きく寄与された聖女エリシアです。聖女エリシアは竜神を祀るため、封印を守るためこの地に教会を造り、この平和が脅かされぬよう魔神討伐後も尽力されました」
「その通りです。ただ聖女エリシアも人の子。寿命にも限りがあります。そこで、聖女エリシアの遺志を継いだ私たち修道女が彼女に代わりこうして祈りを捧げているのです。エルバの姓はその使命を受け継いだ者に与えられます。そしてその使命を受け継いだ者にはそれ以外の道は許されません……竜神の名と聖女エリシアの使命――若いあなたが背負うにはまだ酷かもしれません」
「とんでもありません。私はその話を初めて聞いたとき、その崇高な使命をいただいたことをこれ以上ない誇りに思いました。由緒正しいエルバの姓をいただいこと、身寄りのない私を育ててくださったこと、感謝の言葉もないです」
「そう言ってくれて私も嬉しいです。シスター・シェリー。あなたのような人が私の跡を継いでくれるのはこれ以上ない幸運です。これからも私とともに竜神エルバに仕えましょう」
メリダが満足したように言葉を結ぶ。取り澄ました顔で祈ること少し、二人は顔を見褪せてぷっと噴き出した。
「やはり私たちには似合いませんね、シェリー。すみません。悪ふざけが過ぎました」
「そうよ。母さんがいつにもまして真面目だから私もどうしていいか困っちゃったじゃない」
ふふと笑いあったが、急にメリダが顔を曇らせる。
「どうかしましたか?」
心配そうにシェリーが尋ねるとメリダが、「いえ、何でもありません」と答え、
「私は所用で数日ここを離れます。シェリー、すみませんが、留守を頼みますね」
「ええ、分かったわ。気を付けてね、母さん」
ここは聖地エルバドルフ。魔神を千年間封印し続けた世界で最も神聖な聖域である。




