五話:革靴ハンター
宿の鐘が鳴った。ごーん、という重たい音が、薄い壁と窓を震わせる。
一回目の鐘で俺は目を開けた。知らない天井。硬いベッドに薄い掛け布。体が痛い…。数秒ほど、自分がどこにいるのかわからなかった。出張先の安いビジネスホテルか。いや、それにしてはベッドが硬すぎる。
それから、枕元に座っている小さな石の身体が視界に入った。
「ジン、朝です!」
シューシュだった。胸の緑のコアが、ぼんやりと光っている。小さな古代ゴーレムは、俺の顔を覗き込むようにして、ちょこんとベッドの端に座っていた。
「……そうだったな」
異世界だ。ベルカという街の安宿、白鹿亭。俺は昨日、会社員から見習いハンターになった。思い出した瞬間、現実が一気に戻ってくる。
「ジン、大丈夫ですか?」
「体が痛い」
「敵ですか?」
「ベッドだ」
「ベッドは敵なのですか?」
「少なくとも、俺の腰には攻撃してきた」
「腰を攻撃する敵……!」
「真面目に受け取らなくていい」
俺はゆっくり体を起こした。背中と腰がぎしぎしする。昨日は洞窟を歩き、街を歩き、組合に行き、食堂に行き、宿に泊まった。
普段デスクワーク中心の三十八歳には、なかなか厳しい一日だった。
(全身が痛い!!昨日歩きすぎた!!三十八歳の体に、異世界初日は重すぎる!!)
窓の外は、まだ朝の光だった。街はすでに動き始めている。馬車の車輪の音。遠くの人の声。どこかの店が戸を開ける音。
そして、もう一度ごーんと鐘が鳴った。
「二回目か」
俺は呟いた。
「イオナが、鐘が二回鳴ったら降りてこいと言っていました!」
「ああ。覚えてる」
「ジン、初依頼です!」
「そうだな」
「わくわくしますか?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「怖い」
「両方ですね!」
「そうだな」
シューシュはなぜか満足そうに頷いた。俺はベッドから降りる。床板が少し軋んだ。
昨日のままの服装。白いワイシャツはしわになり、ネクタイは緩んでいる。スラックスには埃。ジャケットは椅子にかけたつもりだったが、半分ずり落ちていた。
そして足元には、黒い革靴。会社へ行くために履いていた、ただのビジネス用の革靴だ。洞窟を歩き、草地を歩き、街まで来たせいで、もう艶はほとんどない。細かい傷もついている。
「……今日も頼むぞ」
俺が革靴を履きながら呟くと、シューシュがぱっと反応した。
「革靴に話しかけています!」
「気のせいだ」
「今、頼むぞって言いました!」
「聞き間違いだ」
「ジン、物に話しかけるタイプです!」
「分類するな」
俺は靴紐を結び直す。
(まさか革靴で遺跡調査に行く日が来るとはな!!人生、何があるかわからない!!いや、これはさすがに予測不能すぎる!!)
階段を降りると、宿の一階には薄いスープの匂いが漂っていた。宿代に含まれている朝食だ。木の椀に入った、薄い野菜スープ。硬いパンが小さく一切れ。豪華とは言えないが、腹に入るものがあるだけありがたい。
俺が席に着くと、シューシュは俺の肩に座った。昨日よりも、少し座り方が安定している気がする。
「そこ、定位置になったな」
「はい!ジンの肩は見晴らしがいいです!」
「俺の肩を展望台扱いするな」
「移動する展望台です!」
「昨日は観察台って言ってたよな」
「そうとも言います!」
「都合がいいな」
薄いスープを口に運ぶ。本当に薄い。だが、温かい。
(めちゃくちゃ薄い!!朝の胃には優しい!!異世界安宿の朝食、価格相応!!)
食べ終わる頃、入口の扉が開いた。イオナだった。
赤に近い茶色の長い髪を、今日は後ろで軽くまとめている。服装は昨日と同じく、動きやすそうな旅装。腰には短剣。肩には小さな鞄。
「おはよう」
「ああ。おはよう」
「起きてたのね」
「鐘二回って言われたからな」
「意外とちゃんとしてる」
「社会人だったからな」
「しゃかいじん?」
「時間に縛られて生きる種族だ」
「何それ」
「俺もたまに何だったのかと思う」
イオナは俺の足元を見た。そして、眉をひそめた。
「……本当にその革靴で行くの?」
「これしかないし、まだ履けるからな」
「遺跡外縁でも足を痛めるわよ」
「わかってる」
「わかってて履くの?」
「仕事して靴を買うために、靴を壊しながら仕事へ行く。社会の縮図だな」
「何言ってるの?」
「俺も少し思った」
イオナはため息をついた。
「今日は無理させない。外縁だけ。深くは入らない。危なくなったらすぐ下がる。いい?」
「ああ」
「シューシュも」
「はい!危なくなったら下がります!」
「あなたは余計なことを言わない」
「はい!余計なことは言いません!」
「昨日も聞いたわ、それ」
「今日は昨日より言いません!」
「不安ね」
俺は薄いスープの最後を飲み干し、立ち上がった。所持金は三千五百リル。依頼をこなせば、少しは増える。
目標は靴だ。異世界に来て最初の目標が靴。なんとも地味だが、生活とはそういうものなのだろう。
俺たちはまず、ベルカ・トレジャーハンター組合に向かった。朝の組合は、昨日とは少し雰囲気が違っていた。
酒場のような騒がしさはまだ薄く、代わりに出発前の緊張感がある。ハンターたちが装備を確認し、受付で依頼書を受け取り、仲間と短く言葉を交わしている。
壁の掲示板には、相変わらず大量の紙が貼られていた。俺には読めないが、そこには誰かの仕事と危険と報酬が書かれているのだろう。
(朝の組合!!出勤前のオフィスとは違う緊張感!!でも“仕事前”という意味では同じか!!こっちは命がけだけど!!)
受付に向かう途中で、だるそうな声が聞こえた。
「あー……革靴の白札」
振り返る。近くの柱にもたれかかっていたのは、ダリオだった。薄い金髪のミディアムヘアに軽装。相変わらず、全身から面倒くさそうな空気を漂わせている。
「その呼び方はやめてくれ」
「もう何人か言ってたぞ」
「手遅れか…」
ダリオは片目だけで俺の足元を見る。
「ほんとにそれで行くのか」
「これしかないからな」
「まあ、死ななきゃいいんじゃねえの」
「軽いな」
ダリオは肩を回しながら、俺の肩のシューシュを見る。
「そっちのちっこいのも行くのか」
「シューシュです!」
「ああ、シューシュ。落ちんなよ」
「落ちません!」
ダリオは少し笑った。イオナが呆れたように言う。
「ダリオ、暇なの?」
「暇じゃねえけど、面倒な仕事に行く前って、余計なものが気になるんだよ」
「それを暇って言うのよ」
「そうかもな」
ダリオは俺を見る。
「外縁調査だろ。石喰い鼠、最近増えてるらしい。革靴で逃げ遅れるなよ」
「追いかけられる前提なのか」
「白札の初仕事なんて、だいたい予定通りにはいかねえよ」
不吉なことを言う。
「経験談か?」
「あー……そうだな。俺は初仕事で沼に落ちた」
「それは嫌だな」
「三日くらい臭いが取れなかった」
「ますます嫌だな」
「だから革靴で済むなら、まだいい方かもな」
「比較対象が悪い」
ダリオはひらひらと手を振った。
「まあ、生きて帰れよ。革靴の白札」
「だからその呼び方」
「じゃあな」
ダリオはそう言って、組合の奥へ歩いていった。イオナが俺を見る。
「変なあだ名ついたわね」
「俺が望んだわけじゃない」
シューシュが嬉しそうに言う。
「ジン、革靴ハンターです!」
「増やすな」
受付で依頼を正式に受けることになった。イオナが代筆し、俺は白札を出す。受付の女性が依頼書を確認した。
「ラフェル旧遺跡外縁調査。白札一名、青札同行者一名、登録アーティファクト一体。問題ありません」
登録アーティファクト一体。その言い方に、シューシュが少し複雑そうに俺の肩で揺れた。俺は小声で言う。
「書類上だけだ」
「はい。相棒です」
「ああ」
受付の女性は説明を続ける。
「基本報酬は三千リル。石喰い鼠の巣穴増加、魔力溜まり、新規崩落、旧時代部品の露出など、異常が確認された場合は追加報酬が出ます」
「追加はいくらくらいですか?」
「内容によりますが、軽度の異常報告なら二千リル前後です」
「なるほど」
(合計五千リルの可能性!!中古ブーツが見えてきた!!いや、命の危険込みで五千円と思うと急に怖い!!)
イオナが依頼書を折りたたみ、鞄にしまった。
「行くわよ」
「青札だったのか」
「そうよ。ほら」
イオナは小さい鞄から青札を取り出した。
「あんたも、ちゃんと依頼をこなしてたらすぐなるわよ」
「そういうものか」
「そうよ。頑張りなさい」
組合を出る直前、奥の方からグレンの声が飛んできた。
「ジン」
振り返ると、支部長のグレンが腕を組んでこちらを見ていた。
「はい」
「初依頼で無理するなよ。白札が張り切ると、大体ろくなことにならん」
「張り切る予定はありません」
「ならいい」
グレンは俺の足元を見て、にやりと笑った。
「革靴で遺跡調査か。なかなか攻めるな」
「攻めたくて攻めているわけではありません」
「死ぬなよ。死ぬと書類が面倒だ」
「心配の方向性」
「冗談だ。半分な」
「残り半分は?」
「本当に面倒だ」
「全部じゃないですか」
グレンは豪快に笑った。
「帰ってきたら報告しろ。変なものを見つけたら、勝手に売る前に組合に持ってこい」
「わかりました」
「あと、シューシュ」
「はい!」
「肩から落ちるなよ」
「また言われました!落ちません!」
グレンは手を振った。俺たちは組合を出て、ベルカの門へ向かった。
街の外へ出る道は、思ったより整っていた。石畳は門の外まで続き、その先には踏み固められた街道が伸びている。道の脇には、一定間隔で背の低い柱のような魔道具が立っていた。上部には青白い魔石。側面には、天秤の紋章。
「街灯か?」
「そうよ。夜になれば光るわ。あと、街道周辺の魔力乱れを検知する監視灯でもある」
「監視灯」
「街道沿いだけね。外れたら、そこまで管理は届かない」
便利だ。安全でもあるのだろう。だが、名前の通り、監視されているのだろう。
さらに少し進むと、道端に石碑が立っていた。俺には文字は読めない。だが、イオナが視線に気づいて読んでくれた。
「“秩序ある道は、正しき者を導く”」
「標語か」
「教会がよく立てるの。街道の維持費も一部出してるから」
もう少し先には、別の石碑。
「“旧遺物は登録せよ。無許可の使用は災いを招く”」
「しつこくて気が滅入るな」
「何が?」
「管理されすぎてる気がしてな」
イオナは少し黙った。
「そう思うの?」
「まだ来たばかりだから、わからない。ただ、文字が読めなくても圧は感じる」
「変な言い方」
「自覚はある」
街道は整っている。魔道具もある。標語もある。秩序だった世界。だが、街道を外れた先には、草が伸び、石が転がり、遠くに古びた遺跡の影が見えた。
そこから先は、管理されきっていない場所。旧時代が、地面の下で眠っている場所だ。
(街道はきっちり整備済み!!標語も監視灯も完備!!でも一歩外れたら急に未開拓地!!落差がすごい!!)
シューシュが俺の肩から遠くを見る。
「ジン、あちらに緑灯窟があります」
「わかるのか?」
「少しだけ。胸が、そちらを覚えています」
「胸が覚えてる、か」
「はい!」
シューシュのコアが、淡く光った。
ラフェル旧遺跡の外縁は、ベルカからそれほど遠くなかった。
草原の中に、崩れた石壁や、半ば地中に埋もれた柱が点在している。遠くには、昨日俺が出てきた緑灯窟の入口らしき黒い穴が見えた。洞窟の周囲には苔むした岩があり、ところどころ緑色の光がかすかに漏れている。
思い出す。昨日、俺はあの中で目を覚ました。石喰い鼠から逃げ、シューシュを見つけ、胸に緑の石をはめた。
たった一日前のことなのに、もうずいぶん昔のように感じる。
「今日は中には入らないわよ」
イオナが言った。
「外縁だけ。巣穴、魔力溜まり、崩落、露出部品の確認。危なくなったら退く」
「外だけなら安全か?」
「中よりは」
「安心できないな」
「白札向けとしては安全な方よ」
「安全の基準が違う」
イオナは鞄から細い棒のような道具を取り出した。先端に小さな魔石が付いている。
「これは?」
「簡易魔力測定具。魔力溜まりが近いと先端が光る」
「便利だな」
「ただし古いやつだから、たまに間違う」
「それは道具としてどうなんだ」
「安物だから」
「急に現実的だな」
イオナは地面を見ながら歩き始めた。
「石喰い鼠は、巣穴の周りに細かい削りかすを残すの。石や金属をかじるから、普通の獣穴よりわかりやすい」
「なるほど」
「糞にも石の粉が混じる。見つけたら数を確認」
「糞も見るのか」
「仕事だから」
「仕事か」
(異世界初依頼、内容が思ったより地味!!巣穴確認!!糞確認!!崩落確認!!でもこういう地味な仕事が大事なんだろうな!!)
シューシュが俺の肩で身を乗り出す。
「ジン、あそこに穴があります!」
「どこだ?」
「あの石の陰です!」
イオナが確認する。
「古い穴ね。使われてない」
「わかるのか?」
「削りかすが古い。草も生えてる」
「なるほど」
俺は足元に気をつけながら、イオナの後をついていった。革靴が土を踏む。石を踏む。滑りかける。やはり向いていない。
「うわ」
「大丈夫?」
「靴が限界を訴えている」
「本人より先に?」
「本人も訴えている」
「先が思いやられるわね」
調査を始めてしばらくすると、俺はあるものに目を留めた。石壁の根元。草に半分隠れた、小さな金属片。イオナはそのまま通り過ぎようとした。
「待ってくれ」
「何?」
俺はしゃがみ込んだ。小さな歯車の欠片だった。指先ほどの大きさ。歯の一部が欠けていて、片側は古く黒ずんでいる。だが、割れた面だけが妙に新しい。
「これ、最近欠けたんじゃないか?」
俺が言うと、イオナが戻ってきた。
「何が?」
「この割れた面だけ、汚れ方が違う」
「そんな細かいところ見るの?」
「気になる」
「気になるって……」
イオナはしゃがんで欠片を見る。
「旧時代部品の欠片ね。外縁では珍しくないけど」
「古い欠片なら、割れた面ももっと汚れてると思う」
「……」
イオナの表情が少し真剣になる。
「確かに、言われてみれば新しいかも」
「だろ」
(きた!!俺のガラクタ観察眼!!いや、そんな格好いいものではないけど!!でも欠け方は大事!!欠け方には物語がある!!)
シューシュが俺の肩から身を乗り出した。
「ジン、それ、アーカイブ・コアに入れてもいいですか?」
「入れる?」
「はい。調べられます」
「鑑定できるのか?」
「できます!」
「すごいな」
「でも今は壊れているので、時間がかかります!」
「壊れているのに自信満々だな」
「少しはできます!」
イオナが、シューシュの胸のコアを見た。
「アーカイブ・コアって、収納だけじゃないの?」
「収納、鑑定、分析ができます。たぶん!」
「たぶん」
「今は壊れているので!」
「そこだけ元気に言われても」
俺は歯車片を手に取った。
小さい。だが、重みがある。
「危なくないのか?」
俺が聞くと、シューシュは胸のコアに手を当てた。
「たぶん大丈夫です。旧時代の小さな部品です。強い魔力はありません」
「たぶんか」
「はい!」
俺は少し迷い、歯車片をシューシュに渡した。
シューシュが両手でそれを受け取る。
胸のコアが淡く光り、歯車片は緑色の光に包まれた。
そして、すっと消えた。
「入ったのか?」
「入りました!」
「便利だな」
「でも、整理は苦手です!」
「そこは頑張ってくれ」
シューシュは胸を張った。
「分析開始です!」
次の瞬間、胸のコアが小さく明滅した。
「……たぶん、古い駆動機構の一部です」
「もうわかるのか?」
「少しだけです。もっと調べます」
「頼む」
イオナは俺を見ていた。
「本当に変なところに気付くのね」
「褒めてるのか?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「呆れてる」
「だろうな」
歯車片を見つけた場所から少し進むと、地面の様子が変わった。小さな穴がいくつもある。岩の陰。草の根元。崩れた石板の下。穴の周囲には、細かい石の粉と、金属を削ったようなきらきらした粉が落ちていた。
イオナが眉をひそめる。
「多いわね」
「石喰い鼠の巣か?」
「ええ。でも、昨日より増えてる気がする」
「一日で?」
「全部が新しいわけじゃない。でも、活動痕が新しい」
シューシュが胸に手を当てた。
「ジン、下に魔力の流れがあります」
「下?」
「はい。地面の下です。たぶん」
「またたぶんか」
「でも、あります!」
イオナが簡易魔力測定具を地面に近づける。先端の魔石が、淡く光った。
「反応あり」
「間違いじゃないのか?」
「今回はたぶん本当」
「全員たぶんだな」
イオナは真剣な表情で周囲を見る。
「石喰い鼠は魔力のあるものに集まるけど、ここまで魔力反応がある場所に巣が増えるのは少し変」
「地下で何かが起こってる?」
「可能性はあるわ」
俺はさっきの歯車片を思い出した。最近欠けたような断面。地下の魔力反応。増えた巣穴。嫌な組み合わせだ。
「……これ、報告対象だな」
「ええ。追加報酬は出ると思う」
「それは助かる」
「でも、問題はそこじゃない」
「わかってる」
その時だった。かり、かり。石を削るような音が聞こえた。俺は体を硬くする。かりかりかり。音が増える。崩れた石板の隙間から、小さな影が現れた。
石喰い鼠。灰色の体。硬そうな前歯。ぎらついた目。一匹。二匹。三匹。いや、もっといる。
(多い多い多い!!前より多い!!絶対多い!!俺は白札だぞ!!しかも革靴だぞ!!初依頼で群れは早い!!)
イオナが短剣を抜いた。
「下がって」
「異論なし」
「シューシュ、ジンから落ちないで」
「はい!」
シューシュが俺の肩にしがみつく。石喰い鼠たちは、こちらをまっすぐ狙っているわけではなかった。地面に散らばった金属片や、石板の隙間から漏れる魔力に引き寄せられているように見える。
だが、俺たちが動けば、間違いなく反応する距離だ。
「イオナ、倒せるのか?」
「数が少なければ。でも、あんたを守りながらだと面倒」
「俺がいるせいで難易度が上がってるな」
「そうね」
「遠慮がないな」
「事実だから」
石喰い鼠が一匹、こちらへ跳ねた。イオナが短剣で弾く。金属を打ったような硬い音がした。
「逃げ道は?」
「後ろ。慌てないでね」
「革靴だからな」
「終わったら絶対靴買いなさいよ」
「そのつもりだ」
俺は周囲を見る。石板。崩れた金属片。草。巣穴。散らばった旧時代部品。倒すのは無理だ。俺に戦闘力はない。
なら、逃げる。逃げるために、邪魔をする。その時、シューシュが声を上げた。
「ジン、収納の中に、使えそうなものがあります!」
「何だ?」
「これです!」
シューシュの胸のコアが光る。次の瞬間、俺の手のひらに、ぺたりと薄いものが出てきた。
長方形のマグネット。そこには、見慣れた文字が書かれていた。水のトラブル。二十四時間対応。見積もり無料。
「水のトラブル屋さんのマグネット!?」
「はい!」
「よりによってこれか!」
「ジンとの結びつきが強いです!」
「なるほど!でも今じゃなさそうだけど!!」
イオナが横目で見る。
「何それ」
「現代の……いや、俺の世界の、広告マグネットだ」
「こうこく?」
「説明してる場合じゃないな」
マグネットは、以前のただの広告ではなかった。表面の文字が緑色に薄く光り、裏面に見慣れない紋様が浮かんでいる。胸のコアから、細い光の筋が伸び、マグネットに絡みついていた。
「シューシュ、これは何ができる?」
「引っ張れます!」
「何を?」
「たぶん、金属です!」
「たぶんが怖い!」
石喰い鼠がさらに数匹、こちらへ寄ってくる。イオナが舌打ちした。
「使えるなら使って!」
「わかった!」
俺はマグネットを握りしめる。使い方はわからない。だが、頭の中に浮かんだのは、散らばった金属片だった。石喰い鼠は、金属に興味を示している。
なら、金属を集めれば、進路を変えられるかもしれない。
「来い……!」
俺がそう念じると、マグネットが強く光った。次の瞬間、周囲の金属片が一斉に動いた。がらっ。じゃりっ。きんっ。地面の上に散らばっていた旧時代部品、折れた小さな金具、歯の欠けた歯車、錆びた板の破片が、俺の手元へ向かって滑り始める。
「うわっ!?」
思ったより勢いがある。金属片は俺の手元に集まる前に、石喰い鼠たちの進路上でぶつかり合い、小さな山のようになった。石喰い鼠たちが、一斉にそちらへ反応する。
目標が変わった。こちらではなく、集まった金属片へ。
「今!」
イオナが叫ぶ。俺は走った。いや、走ろうとした。だが革靴が地面の石に引っかかり、少しよろける。
「危なっ!」
「ジン!」
シューシュが肩にしがみつく。イオナが俺の腕を掴み、引っ張った。
「こっち!」
「助かる!」
石喰い鼠の一匹が、こちらへ向かおうとする。俺は反射的にマグネットをそちらへ向けた。
「寄るな!」
すると、近くにあった錆びた金属板が跳ねるように動き、石喰い鼠の前に倒れ込んだ。金属板に気を取られた鼠が、そちらへ噛みつく。
その隙に、俺たちは石壁の陰まで下がった。イオナが短剣を構えたまま、周囲を確認する。
「……追ってこない」
石喰い鼠たちは、集まった金属片や板に群がっている。完全にこちらへの興味を失ったわけではないが、すぐに襲ってくる様子はない。俺はその場で膝に手をついた。
「……生きてる」
(怖かった!!めちゃくちゃ怖かった!!マグネットすごい!!いや制御が怖い!!水のトラブル屋さん、異世界で大活躍!!)
シューシュが肩の上で小さく跳ねる。
「ジン、成功です!」
「半分くらい事故だ」
「事故も成功です!」
「その考え方は危ない」
イオナが俺を見る。
「あんた、石喰い鼠が金属に引かれるってわかってやったの?」
「石や金属が好きなんだろ?だから金属を集めただけだ」
「いい判断だったわね」
「とっさにやっただけだ」
「とっさにねえ」
イオナは少し黙った。それから、苦笑するように言った。
「やっぱり変よ、あんた」
「今日何回目だろうな」
その時、少し離れた斜面の上で、草が揺れた。
俺は気づかなかったが、そこには一人の男がいた。
彼は別の依頼の途中だったのか、荷物を肩に引っかけたまま、遠目にこちらを見ていた。
「あー……」
ダリオは気だるげに頭をかいた。彼が見たのは、俺が半泣きでマグネットを握りしめていた部分ではない。
金属片が一か所に集まり、石喰い鼠の群れがその場に誘導され、俺たちが無傷で退いたところだけだった。
「やっぱ気になるわ、あの白札」
強いかどうかはわからない。少なくとも、剣の腕が立つようには見えない。けれど、死にそうに見えて死なない。弱そうに見えて、妙なところで手を打つ。
そういうやつは、ハンターの世界では案外長く残る。
「……面白そうなやつだな」
ダリオはそう呟いて、気だるげに踵を返した。
石喰い鼠の群れが落ち着いたのを見計らって、イオナは巣穴の位置と数を確認した。
俺は少し離れた場所で息を整える。革靴は泥だらけだった。つま先に新しい傷も増えている。
「お前も頑張ったな」
俺が足元を見ながら呟くと、シューシュが即座に反応した。
「革靴に話しかけています!」
「気のせいだ」
「また言いました!」
「聞き間違いだ」
「ジンは革靴にも優しいです!」
「やめろ。変な人みたいだろ」
「ジンは変です!」
「否定しづらい」
しばらくして、シューシュの胸のコアが淡く明滅した。いつもの光とは少し違う。ゆっくり、呼吸するような光だった。
「シューシュ?」
俺が声をかけると、シューシュは胸に両手を当てた。
「ジン」
「どうした?」
「少しだけ、思い出しました」
その声は、いつもより少し静かだった。
「何を?」
「たぶん、アーカイブ・コアに入れた欠片のおかげで、魔力が少し戻ったんです」
「それで記憶が?」
「はい」
シューシュは胸に両手を当てた。
「私の中にあった、昔の記憶です」
「昔の記憶……」
「はい。昔は、今のような世界じゃありませんでした」
シューシュはゆっくり言った。
「壊れたものは、誰かが直していました。直せないものは、使えるところを再利用してました。子どもたちももっと自由に、石を拾ったり、大人から見ると価値のなさそうな物を集めたらしていました」
「そうなのか?」
イオナが聞き返す。
「はい。今みたいに使い終わったらすぐに捨てることはありませんでした。もっと色んな物を大切に使ってました」
俺は黙って聞いていた。
壊れたものを直す。使い方を変えたり、飾ったり。それは、俺にとっては不思議ではない。むしろ、それがいい。
だがこの世界では、それは無駄と呼ばれるのかもしれない。
「……今とは違うな」
俺が言うと、シューシュは頷いた。
「はい。たぶん、今よりずっと……にぎやかでした」
にぎやか。その言葉に、俺は昨日の鉄鍋亭を思い出した。ベルカの街の活気を思い出した。
だが、シューシュが言っているにぎやかさは、たぶん少し違う。もっと雑多で。もっと自由で。もっと無駄が許されていた世界。
「アーカイブ・コアに入れると、シューシュの魔力が戻るのか?」
「たぶん、少しずつです。旧時代のものに残っている魔力が、私の中に入るみたいです」
「それで記憶も戻る」
「はい。でも、たくさんではありません!」
「そこは残念そうに言え」
「少しでも嬉しいです!」
「それはそうだな」
イオナは複雑そうな顔をしていた。
俺はシューシュの胸のコアを見る。アーカイブ・コア。収納し、鑑定し、分析する。
そして、旧時代のものに残った魔力を取り込み、シューシュ自身の記憶を少しずつ取り戻す。それは、ただ便利な道具ではない。シューシュ自身を取り戻すためのものでもある。
「じゃあ、これからも気になる欠片は拾った方がいいな」
俺が言うと、イオナが呆れたように眉を上げた。
「今ので拾い癖を正当化する気?」
「正当な理由ができた」
「面倒な理由が増えたわね」
シューシュは嬉しそうだった。
「ジン、拾いましょう!」
「拾うぞ」
「ほどほどにして」
イオナが即座に釘を刺した。
調査の結果、報告すべき異常は十分にあった。石喰い鼠の巣穴が増えている。新しい歯車片が落ちていた。地下に魔力の流れらしき反応がある。
イオナは簡単な印を地図に書き込み、俺は周囲の小さな欠片をいくつか拾った。
「それ全部持って帰るの?」
「ああ」
「売れないわよ、たぶん」
「売るとは限らない」
「またコレクション?」
「分析材料だ」
「便利な言葉を覚えたわね」
シューシュが胸を張る。
「材料です!」
「お前まで乗るな」
その中の一つは、小さく曲がった金属棒だった。もう一つは、割れた石板の欠片。魔力はほとんど感じないらしいが、シューシュは「あとで調べます!」と言っていた。
「これ、いつか使えるかもしれません」
「何に?」
「わかりません!」
「そこはわからないのか」
「でも、材料になる気がします!」
イオナが俺を見た。
「材料って何の?」
「さあ」
「さあって」
「本人もわからないらしい」
「不安しかないんだけど」
不安はある。だが、それ以上に少し楽しかった。役に立つかわからない欠片。売れるかもわからない部品。
だが、それを拾うことに意味があるかもしれない。俺にとっては、それだけで十分だった。
ベルカに戻る頃には、もう夕方前だった。革靴は泥だらけ。足は痛い。腹も減った。だが、生きて帰ってきた。それだけで、初依頼としては大成功だと思う。
組合に戻ると、受付で報告を行った。当然、俺は文字が読めないので、報告は主にイオナが行う。シューシュが肩から補足し、俺は時々頷く係だった。
「石喰い鼠の巣穴増加。地下魔力反応。新規の旧時代部品露出。現物あり、ですね」
受付の女性は歯車片以外の小さな欠片も確認し、記録を取った。
「外縁調査としては十分な異常報告です。基本報酬三千リルに、追加報酬二千リルを加算します」
「合計五千リルか」
「はい」
銀貨五枚がカウンターに置かれた。俺はそれを受け取る。ずしり。初めて、自分で仕事をして得た異世界の金だった。
(五千リル!!今日の命の対価!!いや、ちょっと安くないか!?でも嬉しい!!労働収入!!見習いハンター初給料!!)
シューシュが肩の上で小さく拍手した。
「ジン、初報酬です!」
「ああ」
「革靴ハンター初報酬です!」
「その名で記録するな」
イオナが横で小さく笑った。
「これで靴が買えるわね」
「ようやくだな」
その時、少し離れた場所から声がした。
「あー、帰ってきた」
ダリオだった。彼は受付近くの壁にもたれて、何かの報告待ちをしているようだった。
「革靴、まだ生きてるな」
「ギリギリな」
「で、鼠の群れを金属で釣って逃げたって?」
「誰から聞いた」
「見た」
「見たのか」
「ちょっとだけな」
ダリオは眠そうな目で俺を見る。
「やっぱ妙だわ。普通、白札の初仕事でああは動かねえ」
「必死だっただけだ」
「あー、はいはい。そういうことにしとく」
「信じてないな」
「半分くらいな」
「残り半分は?」
「面倒だから考えない」
ダリオはひらひらと手を振って去っていった。イオナが呟く。
「また噂になるわね」
「やめてくれ」
「無理じゃない?」
「だろうな」
その足で、俺たちは中古装備を扱う店へ向かった。ベルカの裏通りにある、小さな店だった。棚には使い込まれた革鎧、古びた鞄、欠けたナイフ、修理されたブーツなどが並んでいる。
新品ではない。だが、まだ使えるものたち。
「中古品の店があるんだな」
俺が思わず言うと、イオナが棚を見ながら答えた。
「ベルカでは珍しくないわよ。ハンターの街だもの」
「王都や教会都市でも?」
「そっちはもっと厳しいわね。使い古しの装備は、前の持ち主の管理状態がわからないし、認証印が古い場合もある。だから嫌がる人も多いわ」
「使えるならいい、とはならないのか」
「ベルカならなる。王都なら、正しく管理された新品の方が好まれる」
「なるほど。ここでも街の性格が出るわけか」
「そういうこと」
イオナは傷の入ったブーツを一足持ち上げた。
「でも、ハンターはそんなこと言ってられないの。新人が毎回新品を買えるわけないし、遺跡に入れば装備なんてすぐ傷む。修理して、使い回して、生きて帰る。それがベルカ流よ」
「現実的だな」
「現実を見ないハンターから死ぬから」
「重いな」
「軽く言っても死ぬものは死ぬわ」
俺は棚に並ぶ中古品を見た。傷がある。色も揃っていない。前の持ち主がどんな人間だったのかもわからない。だが、まだ役目を終えていない。
(いい!!中古屋の空気!!前の持ち主の気配がある!!新品とは違う味がある!!こういう店、好きだ!!)
この街が、世界の中では少し変わっている理由が、また一つわかった気がした。
イオナは棚の下から、一足のブーツを取り出した。茶色の革。ところどころ傷がある。紐も少し古い。だが、底はしっかりしている。
「これなら四千リル」
「状態は?」
「中古だけど、外縁や街道なら十分。深部に行くならもっと良いのが必要だけど、今のあんたにはこれでいい」
「なるほど」
俺は履いてみた。少し硬い。だが、革靴よりずっと地面を掴む感じがある。
「歩きやすいな」
「そりゃそうよ。遺跡用だもの」
「文明の差を感じる」
「靴の話よね?」
「靴の話だ」
俺は四千リルを支払った。残金は四千五百リル。朝は三千五百リルしかなかったから増えたが、ブーツを買ったので思ったほどは残っていない。
生きるには金がかかる。グレンの言葉が、少しずつ実感になってきた。
店を出て、俺は手に持った黒い革靴を見下ろした。会社へ向かうために履いていた靴。洞窟を歩き、石喰い鼠から逃げ、ベルカまで俺を運んだ靴。今日の初依頼でも、何とか最後まで壊れずに耐えた靴。つま先は傷だらけ。底もかなり痛んでいる。
遺跡には向かない。たぶん、ハンターの靴としては役立たずだ。
イオナが言った。
「それ、捨てるの?」
「いや、持っておく」
「使わないでしょ」
「ああ」
「じゃあ、何で?」
「初日に一緒に生き延びた靴だ。捨てづらい」
イオナはしばらく俺を見た。
それから、呆れたようにため息をついた。
「また変なこと言ってる」
「自覚はある」
シューシュが嬉しそうに手を挙げた。
「革靴も仲間です!」
「仲間ではない」
「でも、一緒に生き延びました!」
「それはそうだが」
「では、仲間です!」
「定義が広いな」
俺は革靴を布で軽く包み、荷物の奥にしまった。役に立たなくなったからといって、すぐに捨てなくてもいい。少なくとも俺は、そういう人間だった。
そしてこの世界では、どうやらそれがかなり変わっているらしい。街道に刻まれた言葉。教会学校の復唱。無駄は堕落。秩序は幸福。
けれど、シューシュが思い出した昔の世界では、壊れたものも、役目を終えたものも、すぐには捨てられなかったという。
直して。飾って。作り替えて。そばに置いた。その感覚は、俺には少しわかる。
「ジン」
シューシュが俺の肩に座り直した。
「何だ?」
「今日は、少し思い出せました」
「ああ」
「ジンが拾ってくれたからです」
「俺は気になっただけだ」
「気になるのは、すごいことです!」
「そうか?」
「はい!」
シューシュの胸のコアが、淡く光った。俺は空を見上げる。ベルカの空は、夕方の色に変わり始めていた。
初依頼は終わった。金は少し増えたし、靴も買えた。シューシュは少し記憶を取り戻した。俺の変な噂は、たぶん少し広がった。
まともな一日ではない。だが、悪くない一日だった。
(革靴から中古ブーツへ!!白札ハンター、足元だけ少し成長!!次はできれば、命の危険が少ない依頼がいい!!)
隣でイオナが言う。
「明日は、そのブーツに慣れるところからね」
「休みでは?」
「見習いが何言ってるの」
「ブラックだな」
「ぶらっく?」
「いや、何でもない」
シューシュが元気よく言った。
「明日も拾いましょう!」
「ほどほどにな」
「たくさん拾いましょう!」
「聞いてないな」
俺たちはベルカの通りを歩き出した。俺の足元では、中古のブーツが硬い音を立てている。荷物の中には、もう役目を終えた革靴。シューシュのアーカイブ・コアには、小さな歯車片。
そして俺の胸の中には、この世界への小さな違和感。価値のないものなんて、本当にあるのか。その問いは、まだ形になっていない。
けれど、少なくとも今日、価値のなさそうなマグネットと小さな欠片は、俺たちを少しだけ前へ進ませた。
それだけは、確かだった。




