十三話:眠るシューシュ
俺はシューシュをずっと抱えていた。小さな体は、いつもより少し重かった。シューシュは精霊の加護の効果で軽くなっていると言っていた。今はその効果が落ちているのかもしれない。
守り手の魔石を取り込んだあと、シューシュの胸のコアは淡く、ゆっくりと光っている。消えてはいない。だから、壊れたわけではない。シューシュは『少し眠る』と言っていた。きっとそのうち目が覚める。
そう何度も自分に言い聞かせながら、俺はシューシュを抱えて階段を上った。
地下から上へ続く石段は、来た時よりもずっと長く感じた。壁に残る緑の光は弱く、足元の石は湿っている。奥から流れてくる冷たい空気が、背中に張りついた汗を冷やしていく。ここはこんなに寒かっただろうか。
腕の中のシューシュは、何も言わない。それだけで、洞窟の暗さが少し増した気がした。
「足元、気をつけなさい」
前を歩くイオナが振り返る。
「わかってる」
「……無理してない?」
「さすがに疲れはあるな」
「正直ね」
「色々ありすぎた。けど、今はとにかくシューシュのことが気になる」
「疲れてるならゆっくり歩きなさい。急がなくても、ミラさんは逃げないわ」
その言い方が、妙に優しかった。俺は小さく頷いて、シューシュを抱え直した。いつもなら、肩の上から「ジン、足元注意です!」とか「段差です!」とか、少し遅れて役に立つようなことを言ってくるはずだった。
だが今は何も言わない。それが、思っていた以上に寂しかった。
「大将、なんか出てきたら俺が対処する。あんたは転ばないようにゆっくり歩きゃいい」
「珍しく優しいな」
「転ばれたら運ぶのが面倒だろ」
「優しさの出し方が雑だ」
「ちゃんと支えてやるって言ってんだよ」
「今のはわかりやすい」
ダリオはそう言いながらも、俺の歩幅に合わせて少し前を歩いていた。俺がふらつけば、すぐ支えられる位置だ。
イオナも、何度もこちらを見る。
俺はその視線に少しだけ救われながら、眠るシューシュを抱えて緑灯窟を出た。
洞窟の外に出ると、朝の光がまぶしかった。
緑灯窟の入口に垂れ下がる蔦の隙間から、薄い金色の陽射しが差し込んでいる。湿った洞窟の匂いが背後に遠ざかり、代わりに草と土の匂いが胸に入ってきた。
空は青い。
最初にここから転がり出た時にも、シューシュと一緒にこの青空を見た。
あの時とは違う。
今は隣にイオナがいて、少し前にはダリオがいる。腕の中には、眠るシューシュがいる。
「ジン」
イオナが静かに言った。
「無理しないで。途中で休んでもいいわ」
「大丈夫。早くミラさんに診てもらいたい」
「わかった。でも、つらくなったら言いなさい。シューシュのためにも、あんたが倒れたら意味がないわ」
「……そうだな」
俺たちはベルカへ向かった。
森道を抜け、細い土の道を歩く。遠くに街の屋根が見え始める頃には、腕の疲労が限界を迎えていた。
一週間前まで、俺は会社員だった。仕事を早く終わらせ、帰って、ビールを飲みながらガラクタコレクションを眺めていた。
それが今は、眠る小型ゴーレムを抱え、未開拓の地下遺跡を見つけた報告をしようとしている。
(人生、七日で変わりすぎだろ!!)
ベルカの街は、いつも通りだった。
朝の通りでは、屋台の煙がゆるく上がり、焼いた肉と香草の匂いが漂っている。商人が荷車を押し、ハンターらしい数人組が組合の方へ歩いていく。
その日常の中で、俺たちだけがやけに土まみれだった。
組合の扉を開けると、木の床の匂いと、ざわついた声が一気に流れ込んできた。
受付に並んでいたハンターたちが、こちらを見る。
俺は土まみれ。ダリオもイオナも傷だらけ。しかも俺の腕の中には、いつも肩の上で騒いでいたシューシュが静かに眠っている。
目立たないわけがなかった。
「ジンさん!?」
受付にいたミラさんが、すぐに立ち上がった。
「シューシュはどうしたんですか?」
「色々あって、今は眠っていると思います。診てもらってもいいですか」
「わかりました。こちらへどうぞ」
ミラさんの表情が変わった。
いつもの穏やかな受付の顔ではない。アーティファクトを見る時の、真剣な顔だった。
俺たちは受付の奥へ通された。
奥の小部屋は、表の喧騒から少し離れていた。壁際の棚には、測定器らしい小さな道具や、布に包まれた旧遺物が並んでいる。窓は細く、差し込む光の中に埃がゆっくり浮いていた。
机の上に柔らかい布が敷かれ、俺はそこへシューシュを横たえようとした。
けれど、指が離れなかった。
「ジンさん」
ミラさんが静かに言う。
「診るだけです。取り上げたりしません」
「……すみません」
俺はゆっくりシューシュを布の上に置いた。
シューシュの胸のコアは、淡い緑の光を一定の間隔で灯している。呼吸しているみたいだった。
ミラさんは小さな測定器を取り出し、シューシュの胸の近くへかざした。針がゆっくり揺れる。次に別の薄い板のような道具を当て、光の流れを確かめるように目を細めた。
俺は黙って見ていた。黙っているしかなかった。
「……正直に言います」
しばらくして、ミラさんが顔を上げた。
「詳しいことはわかりません」
「ミラさんでも?」
「はい。シューシュは普通のアーティファクトではありません。登録上はアーティファクトですが、構造も魔力の流れも、私の知っている分類に当てはまりません」
ミラさんは、シューシュの胸のコアを見た。
「ただ、壊れているわけではなさそうです」
「本当ですか?」
「ええ。胸のコアは安定しています。魔力の流れも乱れてはいません。むしろ、取り込んだ大きな魔力を、内側でゆっくり処理しているように見えます」
「処理……」
「眠っている、という言い方が一番近いと思います。ただ、普通の休眠とは違います。無理に起こすのは危険だと思います」
「そうですか。ありがとうございます。どれくらいで目が覚めそうですか?」
「残念ですが、今のところはわかりません。数時間かもしれませんし、数日かもしれません」
数日。その言葉が、妙に重く響いた。
俺はシューシュを見る。いつもなら、ここで「私は大丈夫です!」と胸を張るはずだった。根拠のない自信で、俺を安心させようとするはずだった。
でも、シューシュは眠ったままだ。
「最後に聞いた声が、いつもと違ったんです」
俺はぽつりと言った。ミラさんが目を向ける。
「違った?」
「はい。いつものシューシュなら、もっと元気に『眠ります!』とか、『起きたら説明します!』とか言うんです」
自分で言いながら、胸の奥が少し苦しくなった。
「でも、あの時は違いました。静かで、落ち着いていて……大人びた話し方で」
思い出す。
『少し、眠ります』
『ありがとう。起きたらちゃんとお話ししますね』
あれは、ただ眠くなった声じゃなかった。何かを悟ったような感じがして。
「大きな魔石を取り込んだ時、シューシュの中で何かが起きたんだと思います」
「記憶が戻ったということでしょうか?」
「たぶん」
俺が言うと、ダリオが少しだけ口の端を上げた。
「シューシュみてえな言い方になってきたな、大将」
「ずっと一緒にいたからな」
「そりゃ口癖もうつるわな」
ミラさんは少し考えてから、静かに頷いた。
「今は休ませてあげるのが一番だと思います。胸のコアが安定しているか、定期的に確認します。異常があればすぐ教えてください」
「わかりました」
「それと、ジンさん」
ミラさんは少しだけ表情をやわらげた。
「一人で抱え込まないでください。シューシュは、組合の登録アーティファクトでもありますけど」
「はい」
「それ以上に、ジンさんの相棒ですから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩んだ。
「……ありがとうございます」
俺はシューシュをもう一度抱き上げた。ミラさんが少し驚いた顔をする。
「ジンさん、そのまま持っているつもりですか?」
「はい」
「ずっと?」
「基本的には」
「食事の時も?」
「横に置いて食べます」
「寝る時は?」
「隣で寝ます」
「大変ですよ」
「いつ目覚めるかわからないんで。目が覚めた時、そばにいたいんです」
「……そうですか」
ミラさんは止めなかった。
「なら、柔らかい布を用意しますので、使ってください」
「助かります」
「はい。シューシュが目を覚ました時に、怒られないようにしないといけませんから」
「怒るかな」
「たぶん、心配かけましたって明るく謝ると思います」
「……それ、ありそうです」
言った。お前が動けない間は、俺が必ず守ってやる。だから、離さない。少なくとも今は。
そのまま、俺たちはグレン支部長の部屋へ向かった。
シューシュは俺の腕の中。イオナは魔力測定器と影針を持ち、ダリオはいつもの気だるげな顔をしているが、目だけは少し真面目だった。
グレン支部長の部屋は、組合の奥にある。厚い木の扉をくぐると、紙と革と古い木の匂いがした。壁にはベルカ周辺の地図が貼られ、赤い印や古い書き込みがいくつも残っている。机の上には依頼書の束が積まれ、その隙間に冷めた茶の入った木杯が置かれていた。
グレン支部長は、俺たちを見るなり眉を動かした。
「……ずいぶん派手にやったな」
「派手にやるつもりはなかったんですけど」
「ハンターらしくなってきたな」
グレンは椅子に座ったまま、俺の腕の中のシューシュを見た。
「そいつは?」
「眠っています。ミラさんによると、取り込んだ魔力を処理している可能性が高いそうです」
「そうか」
グレンの声が少し低くなる。
「報告しろ」
「はい」
俺たちは、緑灯窟で起きたことを順に話した。魔力測定器の反応を追って、シューシュが倒れていた広間に戻ったこと。床の隠し扉が開き、地下へ続く階段が現れたこと。自然の洞窟ではなく、人工的な通路があったこと。大きな石の扉。シューシュが「知っている」と言ったこと。
その奥にあった部屋。床と天井の大きな魔法陣。中心の台座。周囲を囲む石柱。
そして、守り手と呼ばれる石像。俺たちを攻撃したあと、最後にはシューシュへ自分の魔石を差し出したこと。
グレンは途中で口を挟まなかった。腕を組み、眉間に皺を寄せたまま、黙って聞いていた。話し終えると、部屋の空気が少し重くなった。
「緑灯窟の地下に、未開拓区域か」
「はい」
「しかも魔法陣つきの古代施設。守り手。シューシュの記憶に関わる可能性あり」
「……はい」
グレンは椅子の背にもたれた。
「酒場で笑って済ませる類いじゃねえな。これは面倒なことになりそうだな」
「ですよね」
「ジン」
名前で呼ばれ、俺は少し背筋を伸ばす。
「お前には、その部屋が何に見えた」
「わかりません……ですが、何かをどこかへ送るための装置に見えました」
「送るための装置?」
「はい。天井と床にあった大きな魔法陣。中心にある台座。何かを呼び出したり、どこかに送ったりする場所みたいな」
異世界転生ものの召喚陣。あの部屋を見た瞬間にそれが思い浮かんだ。アーティファクトがある世界だ。転移装置があっても不思議じゃない。
「根拠は?」
「見た目と、勘です」
「勘か」
「すみません」
「いや、遺跡で生き残るやつは勘も馬鹿にしねえ」
グレンは低く言った。
「未開拓区域の発見報酬は出る」
「報酬」
その言葉に、俺は思わず反応した。イオナがこちらを見る。
「そこに反応するのね」
「するだろ。俺、金ないんだぞ」
「知ってるわ」
「なら反応して当然だろ」
「そうね。でも胸を張って言うことじゃないわね」
グレンは少しだけ口元を動かした。
「今回の件は、ただの横穴発見じゃねえ。古代施設の発見、危険存在の確認、初期報告。仮払いだけでも十万リルは出せる」
「じゅう……」
声が詰まった。十万リル。俺の感覚では、おおよそ十万円。今の俺には、目の前にいきなり現れた大金だった。
「正式に調査班が入って価値が認められれば、追加報酬も出る。最低でも五十万リル以上は見ていい」
「ごじゅ……」
今度は完全に固まった。五十万リル。五十万円。
屋台飯どころではない。宿代どころでもない。装備も寝具も服も、かなりどうにかなる額だ。
(五十万リル!? 急に人生が変わる金額きた!!いや、命がけだったけど!!)
嬉しい。正直、かなり嬉しい。生活はカツカツだ。組合の空き部屋に寝泊まりして、雑用をしながら、朝は転がされ、夜は文字を習っている。服もボロボロ。まともな寝具もない。金があれば、どうにかなることはいくらでもある。
けれど。俺は腕の中のシューシュを見た。胸のコアは、淡くゆっくり光っている。
あの部屋は、シューシュにとって大切な場所だ。シューシュが眠る前に「ここで何かを失くした」と言った場所だ。
あそこには、まだ何かがあるかもしれない。シューシュの記憶に繋がるものが。精霊たちが残したものが。
それを、シューシュが目を覚ます前に、知らない誰かに掘り返される。そう考えると、胸の奥がざわついた。
組合ならまだいい。でも、教会が関わったら。この世界の教会がどれほどの力を持っているか、俺はまだ詳しく知らない。だが、大きな組織は、必要なものだけを持っていき、不要なものを簡単に処分することがある。
価値がないと決められたものは、捨てられる。壊される。俺はそれが嫌だった。
「グレンさん」
「あ?」
「未開拓区域を見つけたハンターには、何か権利がありますか」
「報酬の話なら、今しただろ」
「報酬じゃなくて」
グレンの目が少しだけ細くなった。
「……何を聞きたい」
「情報を、すぐに公開しないことはできますか」
部屋が静かになった。窓の外から、組合の表のざわめきが遠く聞こえてくる。誰かが笑う声。木杯を置く音。依頼書をめくる紙の音。
その普通の音が、今はやけに遠かった。
イオナが小さく息を飲む。ダリオは何も言わなかった。グレンはしばらく俺を見た。
「理由は?」
「シューシュが目を覚ます前に、あの場所を知らない人に掘り返されたくないんです」
俺は正直に言った。
「金が欲しくないわけじゃないです。むしろ欲しいです。かなり。今の俺には十万リルだって大金です。五十万リルなんて、正直、想像もつきません」
宿代。飯代。装備代。服。寝具。金があれば、今すぐどうにかなることはいくらでもある。
でも。
「でも、あの場所はシューシュにとって大事な場所です。あいつが何を思い出したのか、何を失くしたのか、まだわからない。あそこに手がかりがあるなら、シューシュが起きる前に荒らされたくない」
シューシュを抱く腕に、少しだけ力が入った。
「前にも話しましたが、俺は気がついたら洞窟にいました」
あの時のことを思い出す。湿った石の匂い。足元の悪い岩場。見たことのない魔物。右も左もわからない世界。
「何もわからなくて、怖くて、不安で、正直、かなりきつかったです。そんな時に、初めて出会ったのがシューシュでした」
胸の石をはめた瞬間に動き出した、小さなゴーレム。底抜けに明るくて、やかましくて、よくわからないことを自信満々に言って。
でも、眩しかった。
「シューシュは、俺を助けてくれました。旧遺物を調べてくれた。俺が大切にしていた、普通の人から見たら価値のないガラクタみたいなものまで、価値があるって言ってくれた」
俺の部屋にあったもの。誰かに見せるためでもない。金になるわけでもない。
ただ、俺が好きで集めていたもの。
「俺にとっては大切だった。でも、たぶん他人からしたら、どうでもいいものです。無駄だとか、子供っぽいとか、そう言われても仕方ないものだったと思います」
でも、シューシュは否定しなかった。
「シューシュは、それをすごいって言ってくれた。価値があるって言ってくれた。それだけじゃなくて、そのガラクタに力を与えて、俺を助けるために使ってくれた」
広告マグネット。おみやげブレード。モデルガン。
元の世界では、ただのコレクションだったもの。それがこの世界で、俺を生かしてくれている。
「まだ、会ってからそんなに経ってません」
まだ、ほんの一週間。
でも。
「大事なのは過ごした時間の長さだけじゃない。少なくとも俺にとって、シューシュはもう、ただのアーティファクトじゃない」
俺は腕の中のシューシュを見る。胸のコアが、淡く光っている。
「相棒です」
その言葉は、もう照れずに出てきた。
「俺はシューシュを助けたい。あいつが何を忘れているのか、何を取り戻そうとしているのか、それを知りたい。俺がシューシュと出会ったことには、意味がある気がするんです」
石が俺をシューシュの元へ導いたこと。俺のコレクションが、シューシュの中にあったこと。そのガラクタが、この世界で力を持ったこと。全部が偶然だとは思えなかった。
「だから俺は、金よりも相棒を選びます」
言ってから、俺は少しだけ息を吐いた。部屋の中は静かだった。グレン支部長は、しばらく何も言わなかった。
いつもの豪快な笑みはない。腕を組み、俺と、俺の腕の中のシューシュを見比べている。
「……白札が言うには、ずいぶん重い話だな」
「自分でもそう思います」
「だが、悪くねえ」
グレンは短く息を吐いた。
「金より相棒を取る。言葉にするのは簡単だが、実際にやるやつは少ねえ。特に、金がねえやつほどな」
「正直、今も揺れてます」
「だろうな」
「だが、その選択を馬鹿にはしねえ」
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはまだ早い。決めたなら、背負うもんも増える」
「わかってます」
「ならいい」
グレンはそこで、初めて少しだけ笑った。
「なら、組合長として答えてやる」
俺は息を飲んだ。
「独占は無理だ」
「……はい」
「未開拓区域が見つかった以上、組合には管理責任がある。危険があるなら封鎖もするし、必要なら調査班も入れる。全部隠して、お前たちだけで好きにしろとは言えねえ」
それはそうだ。
あの守り手のような存在が他にもいるかもしれない。危険を放置するわけにはいかない。
「だが、発見者には優先調査権がある。一定期間、発見したパーティを中心に調査を進める権利だ。外部への情報公開も、組合長権限で絞れる」
「教会や領主には?」
「今すぐには流さねえ。緑灯窟地下は、組合管理下で一時封鎖する。表向きは、崩落危険のある未確認空洞だ」
「それなら……」
「ああ。しばらくは、お前たち『精霊の加護』に優先調査権を預ける」
胸の奥から、力が抜けた。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
グレンは指を立てる。
「正式報酬は後回しだ」
「ですよね」
「価値を確定できねえからな。仮払いは出す。危険区域の発見と初期報告分で十万リル。だが、五十万リル以上になるかもしれねえ正式報酬は、調査が進むまで保留だ」
「はい」
「いいんだな」
「はい。今は、シューシュが起きるまで待ちたいです」
グレンは頷いた。
「わかった。書類は俺が通す」
「書類」
「逃げるな」
「まだ何も言ってません」
「顔に出てた」
「顔が先走った」
イオナが小さく息を吐いた。
「……ジン」
「何だ?」
「よく考えなさいって言おうと思ったけど、もう考えた後みたいね」
「一応な」
「なら、私もそれでいいと思う」
「ありがとう」
「シューシュが起きた時、勝手に部屋を荒らされてたら、きっと悲しむわ」
「……そうだな」
「だから、待ちましょう。あの子が自分で話せるようになるまで」
「助かる」
ダリオが肩をすくめる。
「大将らしいな」
「褒めてるのか?」
「金より相棒を取るやつは、嫌いじゃねえよ」
「わかりにくいけど、たぶん褒めてるな」
「たぶんじゃねえ。褒めてる」
「なら、素直に受け取っておく」
「そうしとけ」
シューシュの胸のコアが、ほんの少しだけ明るくなった気がした。
気のせいかもしれない。でも、俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「それはいいとして、大将」
重い話が一段落したところで、ダリオが急に言った。
「何だ?」
「さすがに服は変えた方がいいと思うぞ」
「服?」
「もうボロボロじゃねえか。靴以外、こっちに来た時のままだろ」
言われて、俺は自分の服を見下ろした。そういえば、そうだった。靴だけは中古のブーツに替えた。だが、それ以外はこの世界に来た時のままだ。土にまみれ、袖は擦り切れ、裾には裂け目がある。守り手との戦いで、肩口には石片がかすった跡も残っていた。
(ついに服が限界!!いや、むしろよくここまでもった!!)
「私もそう思うわ」
イオナも頷いた。
「イオナまで」
「むしろ、今までよくその格好で通していたわね」
「金がなかったからな」
「理由が切実すぎるのよ」
グレンも俺の服を上から下まで見た。
「……たしかに限界だな」
「支部長まで」
「仕方ねえな。知ってる仕立て屋を紹介してやる」
「仕立て屋?」
「ハンター向けの軽装を扱ってる店だ。動きやすくて、多少の擦り傷なら耐える。お前みたいな白札にはちょうどいい」
ありがたい。ありがたいが、問題がある。
「でも、金が」
「未開拓区域の仮払いがあるだろ。足りねえ分は、報酬が入った時でいいように話は通してやる」
「そんなことできるんですか?」
「俺が紹介状を書く。踏み倒したら、お前じゃなく俺の顔に泥がつく」
「急に責任が重い」
「だから踏み倒すなよ」
「もちろんです。恩を仇で返すことはしません」
「なら胸を張れ。必要な装備を整えるのも、ハンターの仕事だ」
俺は小声でイオナに聞いた。
「ちなみに、服っていくらぐらいするんだ?」
「ハンター用の基本的な軽装なら、上下で五万リルあればそれなりのものが買えるわ」
「ご……」
俺は固まった。
五万リル。
服。
服だけで五万。
(服ってそんなに高いのか!? いや、防具も兼ねてるならわかる!!わかるけど、俺の財布にはわからない!!)
ダリオが俺の肩を軽く叩いた。
「しょうがねえだろ。ハンターが着る服は、ただの布じゃねえ」
「俺の知ってる服よりだいぶ強気な値段だ」
「大丈夫だ、大将」
「何が大丈夫なんだ」
「そんぐらい、すぐ稼げるようになりゃいい」
「根本的な解決が力技すぎる」
「ハンターだからな」
イオナが呆れたように言う。
「でも、服は必要よ。破れた服は動きにくいし、引っかかる。怪我にもつながるわ」
「服も命に関わるのか」
「遺跡では何でも命に関わるわ。でも、今度はちゃんと選べる。あんたに合うものを探しましょう」
「……頼む」
「ええ。ちなみに今着てる服は?」
「もちろん。捨てずに取っておく」
「でしょうね」
イオナは少しだけ目を丸くして、それから小さく笑った。
俺は腕の中のシューシュを見た。眠ったままのシューシュは、相変わらず淡く光っている。
この日、俺はどこへ行くにもシューシュを抱えていた。
受付へ行く時も、ミラさんに診てもらう時も、グレン支部長に報告する時も、食事をする時も。
小さな体は、いつもより少し重い。けれど、不思議と苦じゃなかった。
肩の上で騒いでいないシューシュは、妙に静かで、妙に寂しい。だから俺は、何度も胸のコアを確認した。淡く、ゆっくりと光っている。それを見るたびに、少し安心できた。
金はない。服もない。相棒は眠っている。
未開拓区域の正式報酬は後回し。
(状況だけ見ると、だいぶ詰んでる!!)
「次は、服か」
異世界生活は、どうやら相棒を守るにも、まず着替えが必要らしい。




