第十一話:緑灯窟、再び
組合暮らしが始まって三日。
俺は、転び方と自分の名前と、組合の床が思ったより冷たいことを覚えた。
朝はダリオに転がされる。夜はイオナに文字を叩き込まれる。昼は組合の雑用を手伝いながら、読めない文字と、読めるようになった文字の差に一喜一憂する。
異世界生活というより、新人研修のような日々を過ごしていた。
「受け身が遅い」
「今、受け身しただろ」
「転んでからじゃねえ。転ぶ時に受け身を取るんだよ」
「転ぶ時点で忙しいんだが」
「忙しくてもやれ。怪我したくねえならな」
「異世界の地面、厳しすぎる」
朝の訓練場で、俺は土まみれになっていた。
ダリオは短刃も抜かず、片手だけで俺を転がしてくる。剣の稽古ではない。立ち方、歩き方、転び方。つまり、戦う以前の問題だ。
「足だけで逃げようとすんな。腰ごと動け」
「腰ごと」
「そうだ。あと肩に力入りすぎ」
「力を抜いたら倒れる」
「力を入れてても倒れてるだろ」
「反論できない」
悔しいが、ダリオの教え方はわかりやすかった。
口は悪い。呼び方も悪い。だが、俺が転ぶたびに、どこで足を置き間違えたか、どこで体が遅れたかをちゃんと指摘してくる。
おかげで三日目には、少なくとも転んで顔面から地面に突っ込むことは減った。
成長である。
(低い!!成長の基準が低い!!でも大事!!命に関わる!!)
夜は夜で、イオナの読み書き講座が待っていた。
「これは?」
「依頼」
「これは?」
「報酬」
「これは?」
「危険」
「これは?」
「……なんか嫌な形の文字」
「読めてないじゃない」
「雰囲気は伝わった」
「文字は雰囲気で読むものじゃないの」
組合の空き部屋に置かれた古い机で、俺は木板に文字を書いていた。
自分の名前。数字。依頼。報酬。危険。場所。期限。採取。討伐。最低限、依頼書で見落とすと死にそうな単語から覚えることになった。
「ジン、見てください!」
隣では、シューシュも小さな指で木板に文字を書いている。線はぐにゃぐにゃだが、本人は胸を張っていた。
「これは何だ?」
「ジンです!」
「俺の名前か」
「たぶん!」
「そこは自信を持て」
「では、ジンです!」
「よし」
イオナがその木板を見て、小さく息を吐いた。
「二人とも、同じくらいね」
「俺は三十八歳なんだが」
「文字に年齢は関係ないわ」
「正論が痛い」
そんな数日を過ごした俺は、強くなったわけではない。だが、少しだけ動けるようになった。少しだけ読めるようになった。そして、組合のどこに掃除道具があるかも覚えた。
(強くなったというより、生活力が少し上がっただけな気がする!!)
いいかどうかはわからないが、今の俺には必要なことだった。
そんな三日目の夜、俺はミラさんに相談した。
「緑灯窟をもう一度調べたいんです」
「緑灯窟を?」
ミラさんは受付の奥で、書類から顔を上げた。隣にはイオナ。少し後ろにはダリオ。俺の肩にはシューシュがいる。
「シューシュが目覚めた場所ですし、前に魔力測定器で地下に反応があったんですよね」
「ありました。弱い反応でしたが、自然な魔力溜まりとは少し違っていました」
「なら、何か手がかりがあるかもしれない」
シューシュは胸のコアに両手を当てて、静かに頷いた。
「私も、もう一度行きたいです」
「怖くないのか?」
「怖いです」
「正直だな」
「でも、知りたいです」
その声は、いつもより少しだけ小さかった。
ミラさんは少し考え、それからイオナとダリオを見た。
「緑灯窟は浅い層なら危険度は高くありません。ただ、以前石喰い鼠が出ていますし、地下反応の調査となると話は別です」
「青札二人が同行するなら?」
「……許可は出せます」
イオナが確認すると、ミラさんは頷いた。
「魔力測定器はこちらで用意します。影針も使うなら、無理はしないでください。探査機能は問題ありませんが、影を留める力はまだ扱いが難しいですから」
「わかってるわ」
「本当か?」
「あんたに言われたくない」
「確かに」
ダリオが気だるげに肩を回す。
「ま、ちょうどいいんじゃねえの。大将の訓練にもなる」
「緑灯窟で訓練する気か?」
「実戦が一番だろ」
「言うと思った」
俺はため息をついた。
こうして、俺たちは翌朝、緑灯窟へ向かうことになった。
緑灯窟の入口に立つと、妙な感覚がした。
初めてここを出た時、俺は右も左もわからなかった。革靴で岩場を走り、石喰い鼠から逃げ、シューシュを抱えて外へ転がり出た。
あの時は、ただ怖かった。今も怖い。だが、隣にはイオナがいる。前にはダリオがいる。肩にはシューシュがいる。
前と同じ洞窟なのに、同じではなかった。
「ジン、大丈夫ですか?」
「たぶん」
「たぶんですか」
「お前にだけは言われたくない」
「たぶん仲間です!」
「嫌な仲間だな」
イオナが魔力測定器を確認する。小さな円盤のような道具で、針が淡く震えていた。
「影針でも探れるのか?」
「空洞が近ければ反応は出ると思う。でも、まずは魔力測定器で追うわ」
「道具は使い分けか」
「そういうこと。影針は、場所を絞ってから使う」
「頼む。俺が床を踏み抜く前に見つけてくれ」
ダリオが先頭に立つ。
「俺が前。イオナは中。大将は後ろ寄り。シューシュは落ちるなよ」
「落ちません!」
「ジンが転んだら?」
「一緒に転びます!」
「誇るな」
俺は深呼吸した。
「行くか」
「はい! 緑灯窟、再探索です!」
シューシュの胸のコアが、いつもより少し強く光っていた。
洞窟の中は、記憶よりも暗かった。
壁に残る淡い緑の苔が、ぼんやりと通路を照らしている。水滴の音。岩を踏む音。自分の呼吸。
初めて来た時には気づかなかったが、壁の一部には古い線が刻まれていた。文字なのか、模様なのか、俺にはまだわからない。
「ジン、そこ」
「え?」
イオナに言われて足を止める。
足元に、半透明の緑色の塊があった。ぷるん、と揺れている。
「……スライムだ」
(出た!!異世界定番!!スライム!!思ったより綺麗!!ちょっと光ってる!!)
「灯りスライムね。踏まないで」
「危険なのか?」
「毒はないけど、滑るわ」
「それは危険だな」
俺は慎重に横を通ろうとする。だが、灯りスライムはゆっくり動き、俺の足元に寄ってきた。
「寄ってくるんだが」
「魔力に反応してるのかしら」
「シューシュのコアですか?」
「たぶん」
「たぶんです!」
シューシュが胸を張る。
「胸を張ることか?」
「反応されています!」
「されて嬉しい反応じゃないだろ」
ダリオが軽く笑った。
「大将、訓練の成果を見せろ」
「スライム相手に?」
「足元を見る練習だ」
「なるほど実用的」
俺は慎重に足を置き、灯りスライムを避けて進む。避けた。避けた、はずだった。次の瞬間、かかとの下で、ぬるっとした感触がした。
「うおっ」
体が傾く。だが、前ほど派手には転ばなかった。膝を曲げ、手をつき、どうにか体勢を戻す。
「……危なかった」
「今のは悪くねえ」
「褒められた?」
「転びかけただけだがな」
「褒めてから落とすな」
シューシュが拍手する。
「ジン、転びませんでした!」
「そうだな」
「すごいです!」
「基準が低い」
「でも大事です!」
「それはそう」
俺は少しだけ胸を張った。異世界で初めて、スライム相手に転ばなかった男である。
(本当にそれでいいのか!?)
奥へ進むと、通路の空気が変わった。
カリ、カリ。聞き覚えのある音がする。俺は足を止めた。
「……石喰い鼠か?」
「ああ」
ダリオが短く答える。
暗がりの奥で、小さな目が二つ光った。いや、四つ。二匹いる。
一話で俺たちを追いかけてきた、石を食べる大きな鼠。背中には石のような突起。爪が岩を削る音が、妙に耳に残る。
シューシュの胸のコアが、少しだけ強く光った。
「ジン」
「わかってる。あいつら、コアに反応するんだよな」
「はい」
以前なら、迷わず逃げていた。今も逃げたい。だが、今回は一人ではない。
「二匹か」
ダリオが短刃に手をかける。
「一匹は俺が止める。イオナ、もう一匹は任せた」
「わかった」
イオナが影針を構える。黒い糸模様の残る刃が、淡く震えた。
「ジン、今は下がってなさい」
「下がるだけでいいのか?」
「今のあんたが前に出ると、こっちが守る場所が増えるわ」
「正論が痛い」
「でも、見てなさい。何もするなって意味じゃない」
俺は唾を飲み込んで、一歩下がった。
ダリオが一匹の正面に出る。もう一匹はイオナの方へ低く身を沈めた。
速い。
だが、二人は慌てない。ダリオは短刃で鼠の突進を横へ流し、イオナは影針を逆手に構え、横へ流れるように避ける。
俺は、その動きを見ているしかなかった。
(下がれと言われた。正しい。俺が前に出ても邪魔になる。でも、本当に見ているだけでいいのか?)
石喰い鼠の爪が岩を削る。ダリオが一匹を壁際へ追い込み、イオナがもう一匹の突進をかわす。
倒すのは、たぶん二人だけでできる。でも、少しでも隙を作れれば。足を止められなくても、目を逸らせれば。
俺は肩のシューシュに小声で言った。
「シューシュ」
「はい」
「何か、後ろから飛ばせるものはないか?」
「飛ばせるものですか?」
「ああ。石をぶつけるとか、気を逸らすとか、そういうやつ」
「あります! 射出器らしき反応です!」
「射出器?」
その言い方で、嫌な予感がした。シューシュの胸のコアが光り、俺の手の中に何かが落ちる。
黒い握り。銀色の筒。古い西部劇に出てきそうな形のモデルガンだった。
「……お前かよ」
「射出器です!」
「モデルガンだ!」
「もでるがん?」
「俺のいたところの、弾が出ない飾りの銃だ」
「弾が出ないのに射出器ですか?」
「だから普通は射出器じゃないんだよ」
だが、手にした瞬間、銃口に淡い緑の光が集まった。
「……出るのか?」
「出そうです!」
「何が?」
「たぶん、何かが!」
「たぶん禁止!」
俺は慌てて周囲を見る。
直接当てる自信はない。そもそも、二人の間に撃ち込むなんて怖すぎる。
なら、狙うのは魔物じゃない。
イオナの相手をしている鼠が、横へ跳ねる。その先の床に、小さな石が転がっていた。
(あれなら……!)
「何も出ないのはやめてくれよ、モデルガン……!」
俺は鼠ではなく、その少し前の床を狙って引き金を引いた。乾いた銃声ではなかった。ぱしゅん、という、少し気の抜けた音が洞窟に響いた。
小さな光弾が飛び、床の石に当たって弾ける。跳ねた石と光に、石喰い鼠が一瞬だけ身をすくめた。
「え?」
イオナが一瞬だけこちらを見る。だが、すぐに動いた。
「助かったわ」
短く言って、影針の刃を鼠の首元の隙間へ突き入れる。石喰い鼠が低く鳴き、床に崩れた。
「大将、こっちにもできるか!」
「できるかは知らん!」
「俺の前の床でいい!」
ダリオはそう言いながら、もう一匹をこちらから見える位置へ追い込んでいた。
俺は震える手でモデルガンを構える。狙うのは、ダリオではない。鼠でもない。ダリオの少し前、鼠が逃げ込もうとしている隙間。
「当たれ、じゃなくて……出ろ!」
もう一度、引き金を引く。
ぱしゅん。光弾が壁際の石に当たり、小さく弾けた。
鼠が反射的に身を引く。その瞬間、ダリオの短刃が、鼠の首元を切った。
「よし」
石喰い鼠は、ぐったりと動かなくなった。
倒した。いや、俺が倒したわけではない。ほとんどダリオとイオナが倒した。でも、後ろからでもできることはあった。
ほんの少し、二人の動きを助けることはできた。
「……役には立ったか?」
「立ったわよ」
イオナが短く答えた。
「足止めとしては十分」
「本当か?」
「嘘を言う場面じゃないでしょ」
「それはそう」
ダリオも笑った。
「その玩具みてえな射出器にしちゃ悪くねえ」
「玩具なのは否定できないが、射出器なのは今知った」
「撃てるなら射出器だろ」
「そう言われると反論しづらい」
緊張が少しだけほどける。俺は手の中のモデルガンを見る。
元の世界では、ただの飾りだった。弾も出ない。使い道もない。棚に置いて、たまに眺めて「かっこいいな」と思うだけのもの。
それが今、石喰い鼠の足を止めた。
(お前も来てたのか……!!)
俺は少しだけ、口元が緩むのを感じた。
「ジン、嬉しそうです」
「嬉しくない」
「嬉しそうです!」
「……ちょっとだけな」
シューシュが胸を光らせる。
「射出器、初陣です!」
「モデルガンな」
「もでるがん、初陣です!」
「……まあ、それならいい」
イオナが呆れたように言った。
「名前で揉めるのは後にして。魔石を回収するわよ」
「魔石?」
イオナは動かなくなった石喰い鼠のそばにしゃがみ、短刀で胸元の硬い部分を探った。倒した石喰い鼠からは、小さな魔石が二つ取れた。
「魔石って、ちゃんと取れるんだな」
「魔物なんだから当然でしょ」
「いや、知識としては聞いてたけど、実際に見るとちょっと感動するな」
イオナが取り出した魔石は、親指の爪ほどのくすんだ石だった。奥で淡い緑色の光が弱く揺れている。
「石喰い鼠の魔石は小さいけど、討伐証明にもなるし、素材としても売れるわ」
「売れるのか」
「そこに一番反応するのね」
「金がないからな」
「胸を張るところじゃないわよ」
俺は受け取った魔石を、手のひらの上で転がした。
その時、もう片方の手に持っていたモデルガンが、かすかに震えた。
「……ん?」
銃身の横に、細い溝のようなものが浮かび上がる。そこへ、魔石の光がすっと吸い込まれた。
「おい」
「ジン、モデルガンが食べました!」
「食べた言うな」
魔石は小さくなり、色を失っていく。代わりに、モデルガンの弾倉に淡い緑の光が三つ灯った。
「……三つ?」
「弾みたいですね!」
「つまり、三発か」
「たぶん!」
「今回はそのたぶん、かなり当たってそうだな」
俺はモデルガンの弾倉を覗き込む。
実弾が入っているわけではない。だが、六つある穴のうち三つに、小さな光が灯っていた。
「魔石を弾に変えてるのか?」
「そう見えるわね」
イオナが興味深そうに、俺の手の中の筒状の道具を見る。
「形は見たことないけど、旧遺物の射出型アーティファクトに近いわ」
「あるのか、こういうの」
「かなり珍しいわ。普通のハンターが持つものじゃない」
「それを聞くと急に怖くなるな」
「安心して。威力はかなり低いから」
「安心していいのか、それ」
ダリオが横から覗き込み、にやりと笑った。
「よかったな、大将。その変な射出器に弾が入ったぞ」
「変な射出器って言うな」
「じゃあ何だよ」
「モデルガン」
「もでるがん、な。覚えにくい」
「覚えなくてもいい」
俺は弾倉に灯った三つの光を見つめる。
小さな魔石一つで三発。威力は低い。だが、さっき石喰い鼠の足を止めるには十分だった。
「つまり、これを撃つたびに魔石が減るのか」
「そうなるわね」
「急に引き金が重くなった」
「命とお金、どっちが大事なの」
「今すごく難しい質問をされた」
「難しくないわよ」
イオナが呆れたように言う。
俺はもう一つの魔石を見下ろした。これも取り込ませれば、あと数発撃てるかもしれない。
だが、売れば少しは金になる。撃てば生き残る確率が上がる。売れば飯代になる。
(異世界、選択肢がいちいち世知辛い!!)
シューシュが俺の顔を覗き込む。
「ジン、どうしますか?」
「……入れる」
「全部ですか?」
「ああ。命が先だ。飯代はあとで泣く」
「泣くのですか?」
「心の中でな」
俺はもう一つの魔石をモデルガンに近づけた。今度は意識してみる。すると、銃身の横の溝が淡く光り、魔石の光を吸い込んだ。
弾倉に、さらに三つの光が灯る。六つの穴すべてが、淡い緑色に満たされた。
「満タン、か」
「満タンです!」
「急に現代っぽい言い方になったな」
俺はモデルガンを握り直した。撃てるのは六発。威力は低い。連射もきかない。狙いだって怪しい。それでも、できることは増えた。
ただし、撃つたびに金が減る。
(なんだこの財布直結武器!!でも、嫌いじゃない!!)
弾倉に灯った光は、魔石の大きさや質で変わるらしい。小さな魔石なら淡い光が数発分。もっと大きな魔石なら、弾倉全体が濃く光るのかもしれない。
小分けに撃つか、一発にまとめるか。
まだ試していない。試したくもない。だが、いざという時の切り札にはなる。
(撃ったら財布も腕も死にそうだけどな!!)
イオナが洞窟の奥へ視線を向けた。
「今度こそ奥へ行くわよ」
「はい」
俺はモデルガンを握り直した。威力は低い。連射もできない。狙いも怪しい。だが、少しだけできることが増えた。それだけで、足元が少し軽くなった気がした。
魔力測定器の反応は、奥へ進むほど強くなっていった。
緑灯窟の広間。俺がシューシュを見つけた場所へ近づくにつれ、シューシュの胸のコアも淡く揺れ始める。
「シューシュ、大丈夫か?」
「はい。でも、変な感じがします」
「変な感じ?」
「胸の奥が、ざわざわします」
「胸部コアが?」
「はい。胸部コアがざわざわです」
「言い方はかわいいが、状況はたぶんかわいくないな」
広間へ続く通路の手前で、ダリオが足を止めた。
「待て」
「何だ?」
「いる」
低い音がした。岩の上を、硬いものが擦る音。
暗がりから現れたのは、大きなトカゲだった。背中は石のような鱗で覆われ、口元からは細い息が漏れている。
「石殻トカゲね」
「強いのか?」
「正面から斬ると面倒。背中が硬いの」
「嫌な情報だな」
石殻トカゲが体を低くした。次の瞬間、岩を蹴って突進してくる。
「横に動け、大将!」
ダリオの声と同時に、俺は反射的に足を動かした。朝練で何度も言われた、足だけではなく腰ごと動く。完全には避けきれない。だが、真正面ではなくなった。
「シューシュ、金属片!」
「はい!」
俺の手に小さな金属片が落ちる。石殻トカゲがこちらへ突っ込んでくる。
俺は金属片を、トカゲの足元へ向けて投げた。狙いは雑だ。まともに当たる気はしない。だが、金属片が床を跳ねた瞬間、俺は広告マグネットを握り込んだ。
金属片が、ほんの少しだけこちらへ引かれる。そのわずかなズレで、石殻トカゲの爪先に金属片がかすった。
転ばせる必要はない。ほんの少し、突進の向きがずれればいい。石殻トカゲの体が、わずかに外へ流れた。
「イオナ!」
「見えてる!」
イオナが横へ回り込み、影針の切っ先を石殻トカゲの目元へ走らせた。石殻トカゲが反射的に頭を引く。その隙に、ダリオが横から踏み込む。
風切りの白い揺れが、石殻トカゲの硬い背中ではなく、露出した横腹を裂いた。石殻トカゲが低く呻き、その場に崩れる。
「……倒した?」
「まだだ」
ダリオは油断なく短刃を構え直し、動こうとしたトカゲの首元へもう一撃入れた。
石殻トカゲは今度こそ動かなくなった。
「硬いな」
「硬かったです!」
「俺はほぼ見てただけだ」
「足元をずらしたわ」
イオナが言う。
「あれがなかったら、少し厄介だった」
「役に立った?」
「立ったわ」
「今日、俺けっこう役に立ってないか?」
「調子に乗らない」
「はい」
イオナは石殻トカゲから魔石を取り出した。
石喰い鼠のものより一回り大きい。奥で揺れる光も、少し濃かった。
「これは?」
「石殻トカゲの魔石。鼠のものよりは値がつくわ」
「値がつく」
「今、売ることしか考えてない顔をしたわね」
「否定はしない」
「まだ探索中よ。お金の計算は後にしなさい」
イオナは魔石を布に包み、自分の鞄へしまった。
「これは私が預かる」
「なぜ」
「今のあんたに渡すと、その変な射出器に食べさせるか、売値を考えて固まるかのどちらかでしょ」
「否定できない」
「でしょうね」
俺は少しだけ肩を落とした。
(俺の飯代が、イオナの鞄に消えた……!!)
シューシュが俺の肩を軽く叩く。
「ジン、元気出してください」
「お前は優しいな」
「魔石は逃げません!」
「それは慰めになっているのか?」
やがて、俺たちはあの広間に戻ってきた。崩れた石柱。砕けた石板。天井の隙間から差し込む細い光。
ここで、俺はシューシュを見つけた。
半分土に埋もれていた小さなゴーレム。胸のくぼみに、拾った石をはめた。そこから全部が始まった。
「……戻ってきたんだな」
俺が呟くと、シューシュが静かに頷いた。
「はい」
いつもの元気な声ではなかった。イオナが魔力測定器を床に近づける。針が小刻みに揺れた。
「反応は、この下ね」
「やっぱり地下か」
「ええ。前よりはっきりしてる」
イオナは影針を取り出し、床にそっと当てた。黒い刃が、かすかに震える。
「空洞がある」
「どこだ?」
「この広間の中央……シューシュが倒れていた場所の、少し奥」
ダリオが床を足で軽く叩く。
「石板か。隙間は見えねえな」
「隠し扉ってやつか?」
「それっぽいわね」
俺は思わず胸が高鳴った。
(出た!!隠し扉!!遺跡探索の王道!!テンション上がる!!ただし開いた先が安全とは限らない!!)
シューシュがゆっくり広間の中央へ歩く。
「シューシュ?」
「……ここ」
シューシュは床の一部に手を置いた。胸のコアが、ふわりと光る。
すると、床に刻まれていた細い線が、淡い緑に浮かび上がった。
「おお」
「ジン、私、何かしました!」
「自覚なしで起動するな」
「すみません!」
「謝るのも早い」
浮かび上がった線は、円形の紋様になっていた。文字のような、回路のような、不思議な形。
その中心に、シューシュの胸のコアと同じ色の光が集まる。
ゴト、と低い音がした。床の石板が、ゆっくりと横へずれていき、地下へ続く階段が現れた。
冷たい空気が、下から流れてくる。
「……本当にあったな」
「ありましたね」
「嬉しそうだな、シューシュ」
「嬉しいです。でも、少し怖いです」
「俺もだ」
イオナが表情を引き締める。
「ここから先は、未確認区域よ」
「戻るか?」
「戻りたい気持ちはある」
「頼むぜ、大将」
ダリオが笑う。
「でも行くんだろ?」
「行く」
俺は階段の下を見た。暗い。緑の光がかすかに揺れている。シューシュの記憶に繋がる何かがあるかもしれない。
俺がこの世界に来た理由に繋がる何かがあるかもしれない。
怖い。だが、知りたい。
「行こう」
俺たちは地下へ降りた。
階段の先は、小さな通路だった。
壁は自然の岩ではない。滑らかな石材で作られている。ところどころ崩れてはいるが、明らかに人の手で整えられていた。
シューシュの胸のコアが、通路の壁に刻まれた線に反応するように光る。
「シューシュ、何か思い出すか?」
「……わかりません。でも、知らない場所ではない気がします」
「見覚えがある?」
「はい。たぶん」
「たぶんか」
「でも、強いたぶんです」
「強いたぶんとは」
通路の奥には、扉があった。石でできた大きな扉。表面には、緑色の細い線が幾何学模様のように刻まれている。
イオナが魔力測定器を近づけると、針が大きく揺れた。
「反応はこの先」
「開くのか?」
「普通には無理そうね」
ダリオが扉を軽く押す。びくともしない。
「力で開ける扉じゃねえな」
「ダリオが言うと説得力あるな」
シューシュが扉の前に立った。胸のコアが強く光る。
「……ここ」
シューシュの声が震えた。
「ここ、知っています」
俺は息を飲む。
「思い出したのか?」
「全部じゃありません。でも……この奥に、部屋があります」
「何の部屋だ?」
「わかりません。でも、私は……ここに来たことがあります」
シューシュが扉に手を触れる。その瞬間、扉の模様に光が走った。ゆっくりと、石の扉が開いていく。
中は広い部屋だった。
円形の床。壁に並ぶ壊れた台座。そして、床と天井に刻まれた大きな魔法陣。
床の魔法陣の中心には、小さな台座があった。その周囲を囲むように、数本の石柱が立っている。どれもひび割れ、ところどころ欠けていたが、柱の表面には細い緑色の線がまだかすかに残っていた。
俺は、その光景に息を飲んだ。
(これ……)
異世界転生ものの主人公が、最初に立っていそうな場所。召喚陣。転送陣。魔法陣の中心に台座。周囲を囲む柱。
俺の知っている創作なら、これは何かを呼び出すか、どこかへ送るための部屋に見えた。
(いや、待て。決めつけるな。ここは本当に異世界だし、俺の知識が当てになるとは限らない。でも……)
あまりにも、それっぽい。
部屋の中央には、膝をついた石像があった。人型に近い。だが、顔はない。胸の中央には、欠けた黒い魔石が埋まっている。
「……ゴーレムか?」
俺が呟いた瞬間、シューシュの胸のコアが強く光った。
「違います」
シューシュの声が、いつもより小さかった。
「これは……守り手です」
「守り手?」
シューシュは、ゆっくり部屋の中央を見回した。床の魔法陣。天井の魔法陣。円を囲む石柱。そして、中心の台座。
「ここ……知っています」
「思い出したのか?」
「わかりません。でも……」
シューシュは胸のコアを両手で押さえた。
「ここは、とても大事な場所です」
その時、石像の胸の黒い魔石に、緑色の光が走った。ごり、と重い音がする。
膝をついていた石像が、ゆっくりと顔のない頭を上げた。
「……起きたな」
ダリオが短刃に手をかける。
「起こしたのは誰だ」
「俺じゃないと言いたい」
「ジンです!」
「言うな」
石像の腕が、床を砕くように動いた。
イオナが影針を構え、ダリオが一歩前へ出る。俺はモデルガンを握りしめた。
シューシュは、魔法陣の中心にある小さな台座を見つめたまま動かない。
「シューシュ?」
「ジン」
シューシュの声は、かすかに震えていた。
「私、ここで……何かを失くしました」
石像の胸の魔石が、もう一度光る。
緑灯窟の地下で、古い守り手が目を覚ました。




