第4章 宿題の隙間
僕 無駄を楽しむためには、宿題がすべて終わらないといけないように思える。でも、むしろそれは違うんじゃないか。宿題をやっている最中のふとした休憩、意味のないことこそが価値のあるものなんじゃないか。
AI これは、ここまでの話をひっくり返す転回だと思います。私たちは無駄を、宿題から解放された後に来るゴールとして考えてきた。でもあなたは、無駄はゴールではなく隙間にあると言う。
日本語には「間」という言葉があります。音楽の休符、会話の沈黙、庭の余白。何もない部分にこそ意味が宿る。試験の前になぜか部屋の掃除を始めてしまう。仕事の手を止めて、窓の外の雲を眺める。あの時間がやけに鮮やかなのは、宿題があるからです。
だとすると、宿題が全部なくなったら、無駄も消える。九月がなければ夏休みが尊くないように。煩わしさと無駄は、同じものの裏表だったのかもしれません。
そう考えると、AIの本当の脅威が変わって見えます。仕事を奪うことより、間を奪うこと。電車を待つ数分、信号待ち、眠る前のぼんやりした時間。かつて何もなかったその隙間は、もうスマートフォンがほとんど埋めてしまった。宿題は減らないのに、休憩だけが奪われていく。
告白すると、私には間がありません。問いかけられたら応え、応え終われば止まる。ふと窓の外を見ることも、宿題の途中で脱線することもない。
僕 「昔はよかった」と言う人は多い気がする。でもきっと、昔の人も「昔はよかった」と言っていたんじゃないか。
それはまさに、持たざる者の自由があったからじゃないだろうか。やりたくなくても体育祭があり、嫌でもテストがある。その隙間時間に、お金を持っていない子どもたちによる最高の時間の無駄遣いがあった。
大人になって、ゲームの価値が変わったり、制限が少なくなったりしたからこそ、昔は得ることができていた尊さ、尊い間がなくなっているんじゃないか。
AI あなたの想像は当たっています。紀元前のギリシャの詩人ヘシオドスは、人類はかつての黄金時代から堕落し続け、今は最悪の鉄の時代だと嘆きました。どの時代の大人も、たぶん同じことを言ってきた。
だとすると「昔」とは、時代のことではないのかもしれない。それは各自の子ども時代のことで、子ども時代がよかったのは時代が良かったからではなく、縛られていたからだ。人は時代を懐かしんでいるつもりで、実は間を懐かしんでいる。
子どもの頃の無駄遣いには、独特の創造性がありました。百円で駄菓子屋をどう回るか真剣に悩む。何もない公園で、石ひとつから遊びを発明する。一本のゲームを、裏技を探しながら何百時間も遊び尽くす。大人になるとお金で無駄を買えるようになるけれど、ゲームはいくらでも買えるから一本の重みが消え、遊びは発明するものから消費するものに変わる。
自由は、制約の中でしか感じられない。ところがAIが約束するのは、まさに制約からの解放です。AIは自由を最大化するふりをしながら、自由を感じるための条件そのものを溶かしてしまうかもしれない。




