第9話:立春の夜に
結衣が去ったあとのナツメ堂は、まるでしんと静まり返った底冷えのする井戸のようだった。
カウンターの片隅には、彼女が忘れていった小さな竹べらが一本、ぽつんと残されている。
蓮はその滑らかな竹の肌を指先でなぞった。彼女の指の温もりが、まだそこに残っているような錯覚を覚える。
(「私にとっては、一番大切な人になりました」)
昨夜、彼女が残していった言葉が、頭の中で何度も何度も反芻される。
一番大切な人。そう言って涙を流しながら、彼女は去っていった。
自分を守るために。自分の未来を邪魔しないために。
「くだらない……」
蓮は吐き捨てるように呟いた。
邪魔になるだなんて、誰が思っただろう。
自分を暗闇から引っ張り出してくれたのは彼女だった。諦めかけていた人生に、もう一度温かな光を灯してくれたのは彼女だったのに。
ガラガラ、と木枠の引き戸が開く音がした。
期待に胸を跳ねさせて振り返ったが、そこに立っていたのは結衣ではなく、近所で喫茶店を営んでいる幼馴染のタツヤだった。
「レン、お前……ひどい顔してるな」
タツヤは大きな紙袋をカウンターの上にドサリと置くと、呆れたように息を吐いた。
「春野さんから連絡があったよ。『今までお世話になりました』って、丁寧なお礼のメールが届いた。今日のお昼の特急で東京に帰るそうだ」
「……そうか」
「『そうか』じゃねえだろ!」
タツヤが珍しく強い調子で声を張り上げた。
「お前、本当にあの人をこのまま帰していいのかよ! 半年ぶりにこの街に帰ってきたお前が、あんなに楽しそうに誰かと話してる姿、俺は初めて見たんだぞ。店がなくなるからって、自分の気持ちまで立ち退かせてどうするんだよ!」
「……だって仕方ないだろ!」
蓮もまた、叫んでいた。
「僕には何もないんだ! 店を守る力もなければ、東京で彼女を支えられるような仕事だってない! 言葉にして彼女を縛りつけたって、僕が彼女を幸せにできる保証なんてどこにもないんだよ!」
「保証なんて、誰にもねえよ!」
タツヤは蓮の胸倉を掴まんばかりに身を乗り出した。
「お前のおじいさんだってそうだったんじゃねえのか? 保証がないからって言葉を呑み込んで、結局半世紀も後悔し続けたんだろ! お前も同じ後悔を死ぬまで抱えて生きるつもりか!?」
タツヤの言葉が、胸の奥深くに突き刺さる。
お前も同じ後悔を抱えて生きるつもりか。
蓮は拳を強く握りしめた。
昭和三十八年。祖父・勝造は、言葉を伝える恐怖に負け、綾子さんをそのまま見送った。
そして生涯、その未完の手紙を抱えて生き続けた。
自分も今、まったく同じ岐路に立っている。
傷つくのが怖いから。責任を負うのが怖いから。「相手のため」という都合の良い言い訳を用意して、本当の気持ちを伝えることから逃げようとしているのだ。
「……タツヤ」
「なんだよ」
「僕、祖父の部屋をもう一度探してくる」
蓮は奥の和室へと駆け込んだ。
埃っぽい空気の中、山積みになった古い段ボール箱を次々とひっくり返す。
祖父が大切にしていた遺品。その一番底にあった、年季の入った桐の小箱。
蓮はその箱の底板を剥がした。そこには、二重底になった秘密のスペースが存在していた。
中に眠っていたのは――一冊の、革表紙の古いノートだった。
ナツメ堂特製の紙で作られた、世界に一冊しかない手製ノート。
表紙には、金箔で『春立つ日』と刻まれている。
ページをめくると、そこには祖父の最期の筆跡で、こう書かれていた。
『立春の夜。
私の春は、あの雪の日に止まったままだ。
だが、もしもいつか、この店に新しい春が訪れるとしたら。
その時は、どうか逃げないでほしい。
言葉は、渡すためにある。
想いは、伝えるためにある。
愛する人の手を、絶対に離してはならない。』
「じいちゃん……」
ポロポロと、蓮の目から大きな涙が溢れ落ちた。
祖父は後悔していたのだ。言葉にしなかったことを。想いを伝えきれなかったことを。
そして孫である蓮に、最後のバトンを託していたのだ。
時計を見ると、時刻は十一時十五分。
結衣が乗る特急列車の発車時刻まで、あと四十五分。
「蓮!」
タツヤが店の入り口で叫んだ。
「早く行け! 今ならまだ間に合う!」
蓮は祖父のノートと、あの修復された手紙を胸に強く抱きしめた。
「ありがとう、タツヤ!」
蓮は店を飛び出した。
立春の強い風が、頬を刺すように吹き抜ける。
けれど、もう寒くはなかった。胸の奥で、激しい炎が燃え上がっていた。
言葉にしなければ、届かない。
傷ついてもいい。カッコ悪くてもいい。
自分の言葉で、彼女に想いを伝えるために――蓮は、走り出した。




