第8話:一番近い遠い人
「……東京の事務所から、連絡がありました」
スマートフォンを握りしめたまま、結衣の指先がかすかに震えていた。
「祖母の遺品整理の件で、実家の片付けの期日が早まったそうです。それに……東京で抱えていた修復の仕事の納期も繰り上げになってしまって。明日には東京に戻らないと……」
「明日……ですか」
あまりに突然の通告だった。
外では冷たい冬の風がガタガタと木枠の窓を揺らしている。つい数分前まで、二つの手紙の破片が重なり合い、半世紀越しの絆に胸を熱くしていた部屋の中が、一瞬にして冷え込んでいくようだった。
「せっかく……手紙の謎が解けたのに」
蓮は声の震えを必死に抑えながら言った。
「ナツメ堂の立ち退きも三月末だし、まだ時間は――」
「時間は、ありません」
結衣はまっすぐに蓮を見つめた。その瞳には、切なさと、自分を言い聞かせるような諦めが混ざり合っていた。
「私の仕事は、壊れた過去の紙を直すことです。でも……私自身はいつまでも過去に縛られているわけにはいかない。祖母の手紙の真実が分かっただけで、私には十分すぎるほどの救いでした」
そう言って、結衣は手紙の破片を慎重に桐箱へと戻した。
その手つきがあまりに手際よく、まるで『ナツメ堂』での日々を過去の思い出として手際よく片付けていくかのように見えて、蓮の胸は苦しく締め付けられた。
「春野さん……」
「夏目さん」
結衣は立ち上がり、蓮に向かって深く頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました。夏目さんがいてくださらなかったら、私はこの手紙を開く勇気すら持てませんでした。おじい様の想いも、祖母の本当の気持ちも……全部、夏目さんのおかげで繋がりました」
「感謝なんて……しないでください!」
思わず強い声が出た。
結衣が驚いたように顔を上げる。
「僕は……ただ、あなたと一緒にいたかっただけだ」
静寂が二人を包んだ。
言葉にしてしまった衝動に、蓮自身が戸惑っていた。けれど、一度溢れ出た感情の波はもう止められなかった。
「傷つくのが怖くて、ずっと自分の気持ちから逃げていた僕に、人を想うことの温かさを教えてくれたのは春野さんです。祖父の手紙を直しながら……僕は、春野さんのことばかり見ていた。過去の手紙の謎が解けたからって、それで終わりだなんて……僕は思いたくない」
結衣の瞳に、見る見るうちに涙が溜まっていく。
彼女は唇を強く噛み締め、何かを耐えるように小さな肩を震ませた。
「……ずるいです、夏目さん」
ぽつりと漏れた声は、今にも消えてしまいそうだった。
「そんな風に言われたら……私、東京に帰りたくなくなってしまうじゃないですか……」
「じゃあ――」
「ダメなんです」
結衣は首を横に振った。一粒の涙が頬を伝って、床に落ちる。
「私と夏目さんは、住む世界も、目指す場所も違います。夏目さんはこの店と、この街でこれからどう生きていくかを決める大切な時期です。私という存在が……夏目さんの未来の邪魔になってはいけないんです」
「邪魔なんかじゃない! 僕は――」
「私にとっては、一番大切な人になりました」
結衣の言葉に、蓮の息が止まった。
結衣は涙を浮かべたまま、今日一番の、悲しいほど美しい笑顔を浮かべた。
「だからこそ、困らせたくないんです。……さようなら、夏目さん」
結衣は革鞄を抱えると、逃げるように店の引き戸を開けた。
冷たい夜風が店内になだれ込み、重いガラス戸がカランと音を立てて閉まる。
蓮は追いかけようとして――足がすくんで動かなかった。
言葉にすれば相手を縛ってしまう。想いを伝えれば、彼女の邪魔になってしまうかもしれない。
昭和三十八年、あの駅のホームで言葉を呑み込んだ祖父と、自分はまったく同じ過ちを繰り返そうとしていた。
手の届く距離にいたはずなのに。
二人の心は、どんなに離れた街よりも、遠く離れてしまっていた。
ガラス窓の向こう、闇の中に消えていく小さな背中を、蓮はただ茫然と見送ることしかできなかった。




