第10話:カウントダウン
息が切れ、肺が焼けるように痛い。
蓮は冬の冷気を切り裂くようにして、駅へと続く心臓破りの坂道を駆け上がっていた。
胸には、祖父が遺したあの『春立つ日』のノートと、結衣とともに修復した一通の手紙。ポケットの中のスマホの画面には、刻一刻と迫る発車時刻が表示されている。
(11時42分……あと18分……!)
駅のロータリーに飛び込むと、改札の向こうから「11時00分発、東京行き特急列車」の構内アナウンスが響いていた。
自動改札を通り抜け、階段を二段飛ばしで駆け上がる。
ホームへ出ると、冷たい風とともに独特の鉄の匂いが鼻を突いた。
「春野さん――っ!」
ホームを見渡す。平日昼前の駅構内は閑散としており、パラパラと乗客が並んでいるだけだった。
ホームの中ほど、自動販売機の脇に、紺色のコートを着た小柄な女性が立っていた。足元には大きな革鞄。マフラーに顔をうずめ、手持ち無沙汰そうに線路を見つめている。
結衣だった。
「春野さん!」
蓮が叫ぶと、彼女は肩を跳ねさせ、弾かれたように振り返った。
驚きで大きく見開かれたその瞳に、息を荒らげて立つ蓮の姿が映る。
「夏目……さん……? どうして……」
「ハァ……ハァ……間に合った……」
蓮はひざに手をつき、荒い息を整えながら彼女に歩み寄った。
「夏目さん、どうしてここに……私、もう行くって……」
結衣の声は震えていた。喜びと、戸惑いと、引き裂かれそうな葛藤が入り混じった複雑な表情で、彼女は一歩後退りをした。
「ダメです……来ちゃダメです。私、決めたんです。夏目さんに迷惑をかけないって……」
「迷惑なんかじゃない!」
蓮は結衣の肩を、強く、けれど壊れ物を扱うように優しく掴んだ。
「僕の話を聞いてくれ。……これを見てほしいんだ」
蓮は胸元から、あの革表紙のノート『春立つ日』を取り出し、結衣の手に押し付けた。
「これは……?」
「祖父の隠し部屋から見つかったんだ。祖父が最期に書いたノート……『ナツメ堂特製』の紙で作られた、世界に一冊しかないノートだ」
結衣は息をのみ、震える指先でノートの表紙を開いた。
そこに記された祖父の最期の言葉を追いかけるにつれ、彼女の瞳から溢れた涙が、ポロポロとページの上に落ちて染みを作っていく。
『言葉は、渡すためにある。想いは、伝えるためにある。愛する人の手を、絶対に離してはならない。』
「おじい様……」
「祖父はね、後悔していたんだ」
蓮は結衣の目をまっすぐに見つめた。
「自分の気持ちを伝える恐怖から逃げて、綾子さんを見送ってしまったことを。一生、その止まった時間の中で生きていたんだ。そして……僕にメッセージを残してくれた。『逃げるな』って」
ガタゴトと地鳴りのような音が響き、ホームに眩しいヘッドライトの光が差し込んできた。
東京行きの特急列車が、滑り込んでくる。
ドアが開き、プシューと低いエアの音が響いた。
「夏目さん……でも、私……」
結衣が涙を流しながら首を振る。
「ナツメ堂は……もうすぐ壊されてしまうんでしょう? 夏目さんのこれからの生活だってどうなるか分からないのに、私がここにいたら……」
「店がなくなったって、僕の人生が終わるわけじゃない!」
蓮は結衣の手をぎゅっと握りしめた。
「僕はもう逃げない。この店がなくなっても、僕はここで……この街で、文房具や言葉の温もりを伝える新しい仕事を始める。祖父が繋いでくれたこの場所で、もう一度やり直すんだ」
「夏目さん……」
「だから……春野さん。東京での仕事を終えたら……また、ここに戻ってきてくれませんか」
列車のアナウンスが響く。
『まもなく、ドアが閉まります――』
結衣は溢れる涙を拭おうともせず、蓮の手を強く握り返した。
「私……ずっと、怖かったんです。壊れた紙を直すことしかできなくて、誰かと新しい思い出を作るのが怖かった……」
結衣の声が、ホームの喧騒に溶けていく。
「でも、夏目さんと一緒に手紙を直して……夏目さんの言葉を聞いて……私、初めて『未来』が欲しくなりました」
「春野さん……」
「戻ってきます……! 東京の仕事を全部終わらせて、祖母の整理も全部つけて……私、必ずここに戻ってきます!」
結衣は車内に足を踏み入れ、振り返った。
プシューと音を立てて、ドアがゆっくりと閉まっていく。
ガラス越しに、二人は互いに手を重ね合わせた。
冷たいガラスの感覚。けれど、その向こうにある熱体温は、確信となって二人の胸に届いていた。
ガタリ、と列車が動き出す。
流れていく景色のなかで、結衣は大きく何度も頷き、涙の浮いた顔で最高の笑顔を見せた。
蓮は列車が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。
空を見上げると、分厚い冬の雲の隙間から、澄み切った青空が覗いていた。
ナツメ堂の取り壊しまで、あと一ヶ月。
カウントダウンは始まったが、蓮の胸に焦りはなかった。
止まっていた時計は動き出した。
二人の「春」を迎えるための準備が、いまここから始まるのだった。




