第11話:破られたページ
特急列車の赤いリアランプが線路の彼方に消えていくのを、蓮はいつまでも佇んで見送っていた。
春野結衣は東京へ去った。
けれど、もう胸の中にあった冷たく重い孤独感はない。彼女の手の温もりと、涙の浮いた笑顔、そして「必ず戻ってくる」という約束が、蓮の心に確かな火を灯していた。
「……よし」
蓮は深く息を吸い込み、駅の階段を駆け下りた。
ナツメ堂の取り壊しまで、あと約一ヶ月。
結衣が戻ってくる場所を守り、そして新しい第一歩を踏み出さなければならない。
店に戻った蓮は、作業机の上に残された『春立つ日』のノートと、昭和三十八年の日記、そしてふたつの破片が繋ぎ合わされた一通の手紙を並べた。
二人の想いは繋がった。祖父・勝造と結衣の祖母・綾子さんは、お互いを拒絶したのではなく、時代と運命に引き裂かれただけだった。
(でも……本当にこれですべてなのか?)
蓮はふと、疑問を抱いた。
日記の記述では、祖父・勝造は「破られた手紙の片割れが送り返されてきた」ことで拒絶されたと思い込んだ。
一方で、綾子さんの手紙には「父が手紙を破り捨てた。破片は拾い集めた」と書かれていた。
だとしたら――誰が、祖父のもとに「破られた手紙の片割れ」を送り返したのか?
綾子さん自身が送ったとは考えにくい。彼女は勝造に諦めないでほしいと願っていたのだから。
「もしかして……」
蓮は昭和三十八年の日記帳を、もう一度最初から丁寧にめくり始めた。
一頁、一頁。インクの匂いと紙の擦れる音。
すると、三月のページの途中で、不自然な違和感に気づいた。
綴じ目の部分。紙の根本に、ほんのわずかな破れ目が残っている。
(ページが……一枚、破り取られている?)
昭和三十八年三月十一日と、十三日の間。
「三月十二日」のページが、カッターナイフのようなもので慎重に切り取られていた。
昨日まで蓮が見ていた『三月十二日。雨。東京から一通の封筒が届く……』という記述は、実は「三月十三日」の欄に書き殴られたものだったのだ。
「どうして……十二日のページだけが消えているんだ?」
蓮は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
この日記帳は、祖父の死後、誰の手にも渡っていないはずだ。
ということは、祖父自身が、自分の手で「三月十二日」の記憶を抹消したことになる。
その日、ナツメ堂で何があったのか。
誰が店を訪れ、何をもたらしたのか。
蓮はナツメ堂の奥、祖父の書斎兼寝室だった部屋へ向かった。
押し入れの奥、古い文箱や押し入れの長持ちをひとつずつ引っ張り出し、古い資料を捜索する。
埃にまみれながら小一時間ほど探した頃、古いアルバムの束の隙間から、茶色く変色した一枚の領収書の控えと、一通の電報の控えが出てきた。
電報の日付は、昭和三十八年三月十二日。
差出人は――『春野 病院』。
『アヤコ ジコ ニ アウ コンキユウ スグ ニ キタレ』
(事故……!?)
蓮は目を疑った。
綾子さんは東京へ向かったあと、事故に遭っていたのだ。
そして、一緒に出てきた領収書の控え。そこには、祖父・勝造の字で、片道の汽車賃と、当時のまとまった金額の現金が「お見舞い金」として引き出された記録が残っていた。
祖父は……三月十二日、東京へ向かっていたのだ。
「じゃあ……どうして……」
なぜ祖父は東京へ行きながら、綾子さんと結衣の祖母は再会できなかったのか。
なぜ「拒絶された」と思い込んで帰ってきたのか。
蓮の頭の中で、断片的な記憶と事実が渦を巻く。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
東京へ到着したはずの結衣からのメッセージだった。
『夏目さん、無事に東京に着きました。今、祖母の実家の荷物整理を始めています。……そこで、少し気になるものを見つけました』
添付されていた写真を見て、蓮は息をのんだ。
そこには、綾子さんの古い医療記録と、一枚の黄色く変色したメモが写っていた。
メモの文字は、綾子さんの父親のものと思われる厳格な筆跡。
『夏目勝造殿。娘の命は助かったが、あなたとの記憶だけを失った。これ以上、娘を混乱させないでほしい。手紙は送り返す。二度と関わらないでくれ』
すべてのパズルのピースが、音を立てて繋がった。
祖父は拒絶されたのではなかった。
事故で記憶を失った彼女のために、自ら身を引いたのだ。
彼女の未来のために、自分の存在と、あの手紙の半分を彼女の父親に渡し、自分自身も「三月十二日」の思い出を切り捨てて、一生をかけて彼女の幸せを遠くから祈り続けていたのだ。
「じいちゃん……」
蓮は破られた日記の綴じ目を固く握りしめた。
すれ違いの悲劇ではなかった。
そこにあったのは、あまりにも深く、あまりにも切ない、祖父の決断だった。
二人が手紙を修復したことで暴かれたのは、昭和の時代に埋もれた、究極の「愛」の形だった。
蓮は震える指で結衣に電話をかけた。
「春野さん……すべての謎が、解けました」
冬の夕暮れ、ナツメ堂の店内に、半世紀の時を超えた真実が静かに満ちていった。




