第12話:最後の文房具店
「本当に、いいのかい? 勝造さんの店を畳んじまって……」
三月最後の土曜日の朝。ナツメ堂の店頭には、朝早くから途切れなく近所の人々が訪れていた。
手芸店のおばあちゃん、下校途中に買い食いをしていた駄菓子屋の店主、小学生の頃からナツメ堂でノートを買い続けていたという近所の高校生。
立ち退きと閉店の知らせを聞きつけた人々が、別れを惜しむように古いガラス戸をくぐってくる。
「寂しくなるなぁ。小さい頃、お小遣い握りしめて鉛筆買いに来たんだよ」
「勝造おじいちゃんには、書道の紙でいつも世話になったっけ」
棚に並んだ文具が、一つ、また一つと手渡され、空になっていく。
蓮は一人ひとりに深く頭を下げ、丁寧に商品を紙袋に包んだ。
かつては「埃をかぶった廃れた店」としか思えなかったこの小さな空間が、どれほど多くの人々の想い出や人生を寄り添い、支えてきたのかを、今さらながら痛感していた。
「夏目くん、お疲れ様」
夕刻、商店街の会長が顔を出した。
手に持った缶コーヒーを蓮に差し出し、寂しげに店内を見渡す。
「勝造さんの時代から、ここは街の『灯台』だったんだよ。どんなに暗い夜でも、この店の明かりがついていると安心したもんだ。……寂しくなるが、君が最後にこうやって店を綺麗に手放してくれて、勝造さんもきっと喜んでるよ」
「……ありがとうございます、会長」
蓮は深くうなずいた。
十一話で明かされた真実――祖父・勝造は、事故で自分との記憶を失った綾子さんの将来を思い、自ら身を引いた。
そして、二度と戻らない彼女を想いながら、この店で一人、ペンと紙を守り続けて一生を終えたのだ。
(じいちゃんは、ずっとここで『灯台』であり続けたんだ)
誰かの言葉を載せる紙を売り、誰かの想いを紡ぐ万年筆を売りながら。
自分の想いは胸の奥深くに閉じ込めたまま、訪れる人々の日常を静かに照らし続けていたのだ。
午後七時。
最後の客が去り、シャッターを下ろす時間がやってきた。
がらんとした店内。棚はすっかり空になり、ガラスケースの木枠だけが街灯の光を反射してほのかに光っている。
蓮は作業台の上に、修復された祖父の手紙と、綾子さんの残した紙片、そしてあの革表紙のノート『春立つ日』を並べた。
二人の愛は、報われなかったかもしれない。
けれど、決して消えてはいなかった。
半世紀の時を超えて、孫である自分と、結衣の手によってこうして繋がったのだから。
ポケットの中でスマートフォンが振動した。
結衣からのメッセージだった。
『夏目さん、お店のお片付け、本当にお疲れ様でした。祖母の医療記録と手紙の件……おじい様の深い深い決断を知って、涙が止まりませんでした。祖母は記憶を失っても、あの手紙をずっと大切に持っていた……きっと心の深いところで、おじい様の温もりを覚えていたんだと思います』
メッセージの最後に、一枚の写真が添えられていた。
東京の修復事務所の作業机。そこには、綺麗に梱包された新しい製本道具と、一冊の真っ白な手製ノートが写っていた。
『明日、そちらへ向かいます』
蓮の胸に、熱い塊がこみ上げてきた。
「ナツメ堂」という文房具店は、今日でその歴史に幕を下ろす。
けれど、ここで紡がれた想いとバトンは、決して途切れない。
蓮は店内を見渡し、最後に静かに照明のスイッチを切った。
「じいちゃん……今まで、店を守ってくれてありがとう」
暗闇の中にぽつんと残った木枠のガラス戸に、月明かりが優しく差し込んでいた。
明日、春立つ日に、物語はクライマックスを迎える。




