第13話:駆け出す足音
解体工事を目前に控え、看板が取り外された「ナツメ堂」の前に、朝の光が静かに降り注いでいた。
商品が一切なくなった店内に、蓮はぽつんと一人で立っていた。
がらんとした空間には、半世紀ぶんの紙とインクの匂い、そして微かな木組みの香りが残っている。
(今日、春野さんが帰ってくる)
胸の奥が、早鐘のように高鳴っていた。
昨夜、結衣から送られてきた『明日、そちらへ向かいます』という一文。
祖父・勝造と綾子さんの真実を知った今、蓮には果たすべき約束があった。
祖父が叶えられなかった「言葉を届ける」ということ。
逃げて、誤魔化して、傷つくのを恐れていた自分を捨て、自分の心の一番深い場所にある想いを、結衣に真っ直ぐぶつけること。
蓮は作業台の上に置いていた革鞄を持ち上げた。
中には、ふたつの破片が繋ぎ合わされた昭和三十八年の手紙、そして祖父の遺したノート『春立つ日』が入っている。
ガラガラ、と。
店の引き戸が開く音がした。
蓮は弾かれたように振り返った。
朝の光を背に受けて立っていたのは、紺色のコートを着た結衣だった。
「春野さん……!」
結衣は革鞄をぎゅっと抱え、少し息を切らせながらドアの縁に手をかけていた。
東京から朝一番の特急に乗ってきたのだろう。マフラーの上から覗く頬は朝冷えでほんのり赤く、その瞳には強い光が宿っていた。
「夏目さん……帰ってきました」
結衣のその一言に、蓮の目頭がカッと熱くなった。
「おかえりなさい、春野さん」
結衣は静かに店内を見渡し、空っぽになった棚や、看板の外されたカウンターを見つめた。
そして、ゆっくりと蓮に歩み寄る。
「ナツメ堂……本当に、終わってしまったんですね」
「……形としてはね」
蓮は自分の鞄をポンポンと叩いた。
「でも、大切なものは全部ここに入ってる。祖父の手紙も、綾子さんの想いも、そして……春野さんと過ごした時間も」
結衣はふっと優しく目を細めた。
鞄の中から、昨夜の写真に写っていた一冊の真っ白な手製ノートを取り出す。
「夏目さん。私、東京で祖母の遺品を整理しながら、ずっと考えていたんです。……祖母は記憶を失っても、どうしてあの手紙を一生手放さなかったんだろうって」
結衣は白いノートの表紙を愛おしそうになぞった。
「きっとね……記憶は消えてしまっても、誰かに深く愛されたという『痕跡』は、魂の中に残っていたんだと思います。おじい様が彼女のために身を引いたことも、言葉を封じ込めたことも……祖母は理屈じゃなく、心の底でちゃんと受け取っていた」
「……うん」
「だから、私はもう逃げません」
結衣はまっすぐに蓮の目を見つめた。
「過去の傷ついた紙を直すだけじゃなくて、これからは『新しい言葉』を綴っていく場所にいたい。……夏目さんと一緒に」
その時、外からガタガタと大きな重機の音が響いた。
工事現場の作業員たちが、ナツメ堂の周りに白い仮囲いを設置し始めたのだ。
「夏目勝造さんのご遺族の方ですかー! そろそろ敷地内の確認に入りますので、お荷物を出してください!」
作業員の声が聞こえる。
もう、ここにはいられない。ナツメ堂という建物としての時間は、本当に終わりを告げようとしていた。
「行こう、春野さん」
蓮は結衣の手をしっかりと握りしめた。
二人は互いの温もりを確かめ合うように強く手を繋ぎ、思い出の詰まった店に深く一礼した。
「ありがとう、ナツメ堂。ありがとう、じいちゃん」
引き戸を閉めると、重いカギの音が響いた。
二人は手をつないだまま、春の足音が聞こえ始めた街へと駆け出した。
めざすのは、祖父と綾子さんが昭和三十八年にすれ違った、あの場所――街を見下ろす高台の公園だった。
冷たい風の中に、微かな沈丁花の香りが混ざり始めていた。
止まっていた時間が完全に動き出し、二人の新しい季節が始まろうとしていた。




