第6話:二人だけの修復作業
「あの……夏目さん。ちょっと、近すぎませんか」
結衣の囁くような声にハッとして、蓮は思わず息をのんだ。
再開発組合からの「立ち退き前倒し」の打診を一旦突っぱねた翌日。残された時間が僅かであることを痛感した二人は、ナツメ堂の奥にある小さな作業机に並んで座っていた。
結衣の指導のもと、蓮も手紙の修復作業を手伝うことになったのだ。
薄暗いランプの光の下、二人の距離は肩が触れ合うほど近い。結衣の首元から漂う、どこか懐かしい和紙と白檀のようなかすかな香りが、蓮の胸を不必要に締め付ける。
「あ、すみません……慣れていなくて」
慌てて身を引こうとした蓮の手を、結衣の小さく温かな手がそっと包み込んだ。
「ダメです、逃げちゃ。……この作業は、息を合わせてやらないと紙が破れてしまいますから」
結衣の指先が、蓮の手に重なる。
彼女の指は細く繊細だったが、紙を扱うその手つきには確かな芯の強さがあった。
「いいですか? 私が竹べらで糊を薄く伸ばしますから、夏目さんはこのピンセットで、破れた繊維の角をぴったりと合わせてください。コンマ一ミリでもずれたら、元には戻りません」
「……はい」
蓮は唾を飲み込み、手元に全神経を集中させた。
祖父が遺した未完成の手紙。水に濡れ、時を経てカサカサに丸まった紙片。
結衣の呼吸が、自分の呼吸と重なっていくのを感じる。
カチ、カチと刻む柱時計の音も、外を走り去る車の音も遠のき、世界には二人と、一枚の紙だけが残されたような錯覚に囚われた。
「……うまく、いきましたね」
結衣がホッと息を吐いた。
二人の共同作業によって、手紙の左下の破れていた部分が、綺麗に一枚の面を取り戻していた。
「春野さんって……すごいですね。こんなに根気のいる作業を、ずっと一人でやってきたんですか」
蓮が感嘆の声を漏らすと、結衣は少し恥ずかしそうに下を向いた。
「一人だから、できたのかもしれません。……私、昔から人と深く関わるのが下手で。傷つくのも、傷つけるのも怖くて、ずっと古くなった本や紙の世界に逃げていたんです」
結衣は膝の上で静かに手を握りしめた。
「でも……壊れた紙を直しているときだけは、誰かの過去や想いにそっと寄り添えている気がして。本当は寂しかったのかもしれません。自分の言葉で、誰かと繋がりたいって……ずっと思っていたのに」
ランプの灯りに照らされた結衣の側顔は、今にも消えてしまいそうなほど儚く、そして美しかった。
蓮の胸の奥で、熱いものがこみ上げてくる。
自分と同じだ。傷つくのを恐れて殻に閉じこもり、誰とも向き合おうとしなかった。
けれど彼女は、逃げるのではなく「直す」という方法で、懸命に誰かの想いを救おうとしていたのだ。
「……春野さん」
「はい?」
「僕……春野さんと出会えて良かったです」
まっすぐに結衣の目を見つめて告げた言葉に、結衣は大きく目を見開いた。
彼女の白い頬が、ぽっと朱色に染まっていく。
「僕はこの店を失うかもしれない。でも……春野さんとこうして祖父の手紙を直して、言葉を探している今の時間だけは、絶対に後悔したくないんです。……僕に、春野さんの力にならせてください」
言葉を選ばずに放たれた無骨な本音。
結衣は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、やがて瞳に涙を溜めながら、今日一番のあたたかな笑みを浮かべた。
「……ずるいです、夏目さん。そんなこと言われたら、私……」
そこまで言った結衣の声が詰まった。
「春野さん?」
「なんでも……ありません」
結衣は照れ隠しのように慌てて目をそらし、修復された手紙へと視線を戻した。
「ほら、見てください! 紙が乾いて……また新しい文字が浮かんできました!」
結衣が指差した先。
新しく繋ぎ合わされた和紙の表面に、祖父の荒々しい筆跡で、隠されていた一文がはっきりと浮かび上がっていた。
『綾子さん。私は、この店で君の帰りを待つ。だから――』
その先の手紙の右半分は、まるで意図的に破り取られたかのように、ぽっかりと丸ごと失われていた。
「待つ……? でも、どうして右半分がないんだ……?」
蓮と結衣は顔を見合わせる。
それは、水で滲んで消えたのではなく、何者かの手によって「破り取られた」痕跡だった。
冬の終わりの静かな夜。
二人の距離が急速に縮まる一方で、昭和三十八年の手紙は、新たな謎を二人に突きつけていた。




