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春立つ日ちぬ  作者: 夜名
第2章:言葉の破片を繋ぐ手(深まる絆と真実への波紋)

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第6話:二人だけの修復作業

「あの……夏目さん。ちょっと、近すぎませんか」

結衣の囁くような声にハッとして、蓮は思わず息をのんだ。

再開発組合からの「立ち退き前倒し」の打診を一旦突っぱねた翌日。残された時間が僅かであることを痛感した二人は、ナツメ堂の奥にある小さな作業机に並んで座っていた。

結衣の指導のもと、蓮も手紙の修復作業を手伝うことになったのだ。

薄暗いランプの光の下、二人の距離は肩が触れ合うほど近い。結衣の首元から漂う、どこか懐かしい和紙と白檀のようなかすかな香りが、蓮の胸を不必要に締め付ける。

「あ、すみません……慣れていなくて」

慌てて身を引こうとした蓮の手を、結衣の小さく温かな手がそっと包み込んだ。

「ダメです、逃げちゃ。……この作業は、息を合わせてやらないと紙が破れてしまいますから」

結衣の指先が、蓮の手に重なる。

彼女の指は細く繊細だったが、紙を扱うその手つきには確かな芯の強さがあった。

「いいですか? 私が竹べらで糊を薄く伸ばしますから、夏目さんはこのピンセットで、破れた繊維の角をぴったりと合わせてください。コンマ一ミリでもずれたら、元には戻りません」

「……はい」

蓮は唾を飲み込み、手元に全神経を集中させた。

祖父が遺した未完成の手紙。水に濡れ、時を経てカサカサに丸まった紙片。

結衣の呼吸が、自分の呼吸と重なっていくのを感じる。

カチ、カチと刻む柱時計の音も、外を走り去る車の音も遠のき、世界には二人と、一枚の紙だけが残されたような錯覚に囚われた。

「……うまく、いきましたね」

結衣がホッと息を吐いた。

二人の共同作業によって、手紙の左下の破れていた部分が、綺麗に一枚の面を取り戻していた。

「春野さんって……すごいですね。こんなに根気のいる作業を、ずっと一人でやってきたんですか」

蓮が感嘆の声を漏らすと、結衣は少し恥ずかしそうに下を向いた。

「一人だから、できたのかもしれません。……私、昔から人と深く関わるのが下手で。傷つくのも、傷つけるのも怖くて、ずっと古くなった本や紙の世界に逃げていたんです」

結衣は膝の上で静かに手を握りしめた。

「でも……壊れた紙を直しているときだけは、誰かの過去や想いにそっと寄り添えている気がして。本当は寂しかったのかもしれません。自分の言葉で、誰かと繋がりたいって……ずっと思っていたのに」

ランプの灯りに照らされた結衣の側顔は、今にも消えてしまいそうなほど儚く、そして美しかった。

蓮の胸の奥で、熱いものがこみ上げてくる。

自分と同じだ。傷つくのを恐れて殻に閉じこもり、誰とも向き合おうとしなかった。

けれど彼女は、逃げるのではなく「直す」という方法で、懸命に誰かの想いを救おうとしていたのだ。

「……春野さん」

「はい?」

「僕……春野さんと出会えて良かったです」

まっすぐに結衣の目を見つめて告げた言葉に、結衣は大きく目を見開いた。

彼女の白い頬が、ぽっと朱色に染まっていく。

「僕はこの店を失うかもしれない。でも……春野さんとこうして祖父の手紙を直して、言葉を探している今の時間だけは、絶対に後悔したくないんです。……僕に、春野さんの力にならせてください」

言葉を選ばずに放たれた無骨な本音。

結衣は一瞬呆気にとられたような顔をしたが、やがて瞳に涙を溜めながら、今日一番のあたたかな笑みを浮かべた。

「……ずるいです、夏目さん。そんなこと言われたら、私……」

そこまで言った結衣の声が詰まった。

「春野さん?」

「なんでも……ありません」

結衣は照れ隠しのように慌てて目をそらし、修復された手紙へと視線を戻した。

「ほら、見てください! 紙が乾いて……また新しい文字が浮かんできました!」

結衣が指差した先。

新しく繋ぎ合わされた和紙の表面に、祖父の荒々しい筆跡で、隠されていた一文がはっきりと浮かび上がっていた。

『綾子さん。私は、この店で君の帰りを待つ。だから――』

その先の手紙の右半分は、まるで意図的に破り取られたかのように、ぽっかりと丸ごと失われていた。

「待つ……? でも、どうして右半分がないんだ……?」

蓮と結衣は顔を見合わせる。

それは、水で滲んで消えたのではなく、何者かの手によって「破り取られた」痕跡だった。

冬の終わりの静かな夜。

二人の距離が急速に縮まる一方で、昭和三十八年の手紙は、新たな謎を二人に突きつけていた。


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