第4話:言えなかった言葉
立春の朝、街は冷たい霧に包まれていた。
暦の上では春が訪れたはずなのに、ガラス窓を叩く風は相変わらず刃のように鋭い。
「……よし」
蓮はナツメ堂のカウンターで、祖父の古い日記帳と、修復された一通の手紙を並べていた。
結衣はまだ来ていない。約束の時間は午前十時。柱時計の針は九時半を回ったところだった。
蓮は手紙の、あの白い空洞になった部分に目を落とした。
インクが完全に流れ落ち、文字が消えてしまった場所。祖父が最も伝えのたかったであろう言葉が、そこには眠っている。
『……私はここで、君がいつでも帰ってこられるように――』
「帰ってこられるように……なんだ」
祖父はここで、何を待ち続けていたのだろう。
そして自分は今、この場所で何をしようとしているのだろう。
ガラガラ、と鈍い音を立てて引き戸が開いた。
「おはようございます、夏目さん」
入ってきた結衣の顔を見て、蓮は息をのんだ。
彼女の目は少し赤く腫れており、顔色も昨日よりどこか蒼白だった。それでも彼女は、いつものように無理に口角を上げて微笑んで見せた。
「すみません、少し早かったでしょうか」
「いえ、大丈夫です。……春野さん、体調でも悪いんですか?」
「……ううん、大丈夫です。ただ、昨日の夜、祖母の古いアルバムを見返していたら……色々と考えてしまって」
結衣は大きな革の鞄から、一冊の小さな黒いアルバムを取り出した。
慎重にめくられたページには、モノクロの白黒写真が何枚も貼られている。
その中に一枚、若き日の祖父・勝造と、凛とした佇まいの美しい女性が並んで写っている写真があった。
場所は、このナツメ堂の店頭だ。まだ柱も新しく、ガラスケースの中にはびっしりと文房具が並んでいる。
「これ……おじいちゃんと、綾子さんですか」
「ええ。昭和三十七年の秋に撮影されたものみたいです。祖母は当時、東京の出版社で働くことを夢見ながら、この街の図書館で働いていたそうです」
結衣の指先が、写真の中の祖母の姿をそっとなぞる。
「祖母はずっと、自分の想いを言葉にして文章に書き残したかった。でも……当時の時代背景もあって、家族からは大反対されていたみたいです。『女が文章を書いて生きていくなんて夢みたいなことを言うな』って。そんな時、唯一祖母の夢を応援してくれたのが、勝造おじい様だった……」
「祖父が……」
「おじい様は、祖母に一冊の特別なノートを贈ったそうです。『ナツメ堂特製の、最高級の紙で作ったノート』を。そこに、君の言葉を自由に書きなさいって」
蓮の頭の中で、昨日読んだ日記の言葉が重なった。
『あの雪の日に君が言った「自分の言葉を持ちたい」という言葉が、今も私の胸を離れません。』
祖父は、彼女の夢を誰よりも理解していたのだ。だからこそ、応援したかった。
けれど――。
「でも、どうして二人離れ離れになってしまったんでしょう」
蓮の問いに、結衣はそっと目を伏せた。
「祖母の東京行きが決まった日、おじい様は駅まで見送りに行ったそうです。でも……最後の最後まで『行かないでくれ』とも『応援している』とも言えなかった。自分の店を開業したばかりで生活も不安定だったおじい様は、彼女の夢の邪魔をしたくないという思いと、手放したくないという思いの間で、固まってしまった……」
「言葉に……できなかったんだ」
「はい。そして、この手紙を書いたけれど……宛先を書く勇気が出なかった。あるいは、書いたけれど途中で送るのを躊躇ってしまったのかもしれません」
結衣の声が微かに震えていた。
「想いがあっても……口に出さなければ、届かない。言葉にしなければ、相手にとっては『なかったこと』と同じになってしまうんです。……私、それがすごく悲しくて。祖母が亡くなるまでずっと大切に隠していたこの手紙の本当の意味を、私自身の手で確かめたいんです」
結衣の目から、溢れ出た涙が頬を伝ってポロポロとこぼれ落ちた。
「ごめんなさい……私、でしゃばりですよね。他人の過去の恋愛にこんなに首を突っ込んで……」
「そんなことないです!」
蓮は思わず声を張り上げていた。
自分でも驚くほどの強い声だった。
結衣が驚いたように顔を上げる。
「春野さん……僕は、ずっと逃げてました」
蓮は深く息を吐き出し、胸の奥に溜め込んでいたドロドロとした想いを吐き出すように吐露した。
「会社で挫折して、逃げるようにこの街に帰ってきて……倒れた祖父から店を任された時も、心の中では『どうせこんな古くさい店、すぐ潰れる』って諦めてました。自分の気持ちを誰かに伝えるのが怖くて、傷つくのが怖くて、いつも適当な笑顔で誤魔化して……立ち退きの紙をもらった時も、どこかでホッとしてたんです」
蓮は拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込んで痛かったが、その痛みが自分の生きている実感のように思えた。
「でも、春野さんがこの手紙を持って現れて……一枚の傷ついた紙をあんなに愛おしそうに直す姿を見て、恥ずかしくなったんです。僕は自分の人生も、祖父が遺してくれたこの店も、何ひとつ真剣に向き合ってこなかった」
「夏目さん……」
「祖父が言葉にできなかった想いを、僕が一緒に探します。この手紙に何が書かれていたのか、祖父が本当は何を伝えようとしていたのか……僕に、最後まで協力させてください」
窓の外で、寒風が一瞬止んだ。
どんよりとした曇り空の切れ間から、ほんのわずかだが、温かな冬の光が差し込んできた。
結衣は涙を拭うと、今度は悲しみのためではない、心からのあたたかな笑みを浮かべた。
「はい……! よろしくお願いします、夏目さん」
二人の止まっていた時間が、いま確実に、小さく刻みを始めようとしていた。
しかしその時、店のガラス戸が勢いよく叩かれた。
「夏目くーん! 大変だ、再開発組合から連絡があってな……!」
商店街の会長が青ざめた顔で飛び込んできたことで、二人の静かな時間は唐突に切り裂かれることになるのだった。




