第3話:昭和三十八年の春
翌日、雨はあがったものの、空には重たく湿った雲が垂れ込めていた。
午前十時を回った頃、ガラス戸の向こうで小さな足音が止まり、静かに引き戸が開いた。
「おはようございます、夏目さん」
春野結衣は大きな木製の道具箱を両手で抱え、慎重な足取りで入ってきた。箱の中には、大小さまざまなブラシや竹べら、吸水紙、ガラス瓶に入った特製の糊が整然と収められている。
蓮はカウンターの上に、昨夜見つけた一冊の革表紙の日記帳を置いた。
「……祖父の日記がありました。昭和三十八年の手帳です」
結衣の目がパッと輝いた。彼女は大事そうに手帳を受け取ると、手袋をはめた指先でページをめくった。
「ありがとうございます……! これで、手紙が書かれた背景が見えてくるかもしれません」
結衣はカウンターの一角を借り、手紙の修復作業を始めた。
木枠の窓から差し込む冬の淡い光の中で、彼女の指先は驚くほど優しく、そして迷いがなかった。
傷んで千切れた和紙の裏から、薄い修復紙を当て、筆で極小量の糊を注していく。水を含んだ紙がしっとりと息を吹き返し、白く濁っていた繊維が透明感を連動させていく様子は、まるで魔法を見ているかのようだった。
「すごいですね……本当に、紙が生き返っていくみたいだ」
思わず漏らした蓮の言葉に、結衣は作業の手を止めずに、ふっと柔らかく目を細めた。
「紙は、木の命を分けてもらってできているんです。だから、どれだけ時が経っても、水と手当さえあれば思い出したように強く結びつき直すんですよ。……人も、そうならいいのにって、時々思いますけど」
その呟きはあまりに小さく、風の音に掻き消されそうだった。
蓮は胸の奥が一瞬きゅっと締め付けられるのを感じながら、日記の開かれたページに目を落とした。
『昭和三十八年二月五日。風強し。
綾子は今日、東京へ発つという。あの駅のホームで、私はかけるべき言葉を見つけられなかった。
店に残されたのは、彼女が置き忘れた一本の万年筆と、未完成のノート。
私は彼女に手紙を書いた。だが、届けるべき宛先を、私はついに尋ねることができなかった。』
「……綾子さん」
結衣が手を止め、日記の文字を見つめた。その瞳に、かすかな揺らぎが走る。
「祖母の名前です。……春野 綾子」
店内を、深い静寂が支配した。
「じゃあ……やっぱり、この手紙は」
「はい。勝造おじい様から、私の祖母・綾子へ宛てられた手紙です」
結衣は慎重に、水気を含ませた吸水紙で手紙の表面をなぞった。
浮き上がってきたインクの影が、少しずつ文字の形を結んでいく。
『綾子さんへ。
君が去ったあとのナツメ堂は、まるで灯りの消えた燈台のようです。
あの雪の日に君が言った「自分の言葉を持ちたい」という言葉が、今も私の胸を離れません。
私はここで、君がいつでも帰ってこられるように――』
そこから先は、大きな水の染みによって完全にインクが流れ落ち、白い空洞になっていた。
「どうして……届かなかったんだろう」
蓮は呟いた。
祖父は手紙を書いた。結衣の祖母・綾子さんもまた、その手紙を大切に桐箱に入れて隠し持っていた。
届いていたはずなのに、なぜ「宛先不明」のまま、手紙の半分は白く消えてしまっているのか。
「祖母は、一生独身でした」
結衣は静かな声で言った。
「若い頃に東京で出版社に勤め、ずっと一人で本を作り続けていました。晩年、認知症が進んでからも、時々『ナツメ堂のノートに、まだ続きを書かなくちゃ』って……うわ言のように繰り返していたんです」
結衣は、修復を終えたばかりの一枚の手紙を慈しむように見つめた。
その目には、あふれ出そうな涙が溜まっていた。
「祖母も、おじい様も……きっと一番伝えたかった言葉を、お互いに言えないまま離れ離れになってしまったんだと思います。想いがあっても、言葉にしなければ……伝わらないまま、過去になってしまう」
結衣の瞳から、一粒の雫がこぼれ落ちそうになった。
蓮は咄嗟に手を伸ばしかけ――けれど、自分の指先が微かに震えていることに気づき、拳を固く握りしめて引っ込めた。
人を傷つけるのが怖くて、自分自身が傷つくのが怖くて、ずっと本音を隠して逃げてきた自分。
そんな自分には、彼女の涙を拭う資格なんてない気がした。
「……明日、立春ですね」
結衣は素早く涙を拭い、いつもの凛とした笑みを浮かべた。
「この手紙の『消えた続き』……絶対に、読み解いてみせます。それが、二人の止まった時間を動かすことになると思うから」
ガラス戸の外で、ヒューと冷たい風が鳴った。
明日からは暦の上で「春」。
けれど二人の胸の中には、まだ深く冷たい冬が居座り続けていた。




