第2話:インクの滲んだ記憶
「紙修復……ですか」
蓮は、カウンターの上に置かれた桐箱の中の手紙を見つめたまま、低く呟いた。
修復士と名乗った春野結衣は、手袋をはめた指先で繊細に手紙の縁に触れている。その所作があまりに丁寧で、蓮はまるで自分が乱暴に扱ってきた「時間」そのものを咎められているような心地になった。
「ええ。傷んだ紙に水分と糊を与え、繊維を一枚ずつ絡め直していきます。繊維さえ残っていれば、紙は蘇るんです。……でも、文字そのものを復元するには、当時の状況や差出人の記憶が必要になります」
結衣はまっすぐに蓮を見つめた。その瞳は澄んでいて、どこか冬の夜空に輝く星のような冷たさと、確かな熱を孕んでいた。
「夏目さん。勝造おじい様の残された日記や、当時の店の記録はありませんか? 昭和三十八年二月……おじい様が何を思い、誰にこの手紙を書こうとしていたのか、手かがりが欲しいんです」
「日記……」
蓮は視線を店の奥へと向けた。
文具店の奥には、帳場兼居住スペースだった八畳の和室がある。祖父が亡くなってからというもの、遺品整理も途中で放り投げたまま、手つかずのダンボールが山積みになっている場所だ。
「……探してみます。でも、期待はしないでください。僕は祖父のこと、大して知りませんから」
「ありがとうございます。探していただけるだけで充分です」
結衣はほっとしたように胸を撫でおろし、小さく笑った。その瞬間、固く結ばれていた彼女の唇が柔らかく綻び、氷が解けるような温もりが店内に広がった。蓮の胸の奥で、カタリと小さな音が鳴った。
――なぜ、これほどまでに一通の古い手紙にこだわるのだろう。
「春野さんは……どうして修復士になったんですか」
衝動的に口から出た問いに、結衣は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに寂しげな笑みを浮かべた。
「……壊れてしまったものを、そのまま終わりにしたくないからです」
彼女は桐箱の蓋をそっと閉めながら、言葉を繋いだ。
「形あるものはいつか壊れます。でも、そこに込められた誰かの強い想いまで消えてしまうのは、あまりにも悲しいじゃないですか。想いだけでも繋ぎ止めることができたら……止まってしまった時間が、また動き出す気がするんです」
止まってしまった時間。
その言葉は、まるで蓮の胸に刺さった刺をなぞるように響いた。
三年前、祖父が倒れたとき、蓮は東京の広告代理店で働いていた。連日の徹夜と過重労働で心を病み、逃げるように故郷へ戻ってきた矢先のことだった。
病床の祖父に「店をよろしく頼む」と言われたとき、蓮は頷くことしかできなかった。けれど、心の中では「どうせこんな廃れた店、長続きするはずがない」と諦めていたのだ。
自分の人生からも、祖父の想いからも、ずっと目を背けて逃げてきた。
立ち退き通知の紙一枚で店を失うことになった今も、心のどこかで「これでやっと楽になれる」と安堵していたのかもしれなかった。
「……羨ましいな」
「え?」
「春野さんは、残したい想いがあるんですね。僕には……何もありません。店を守ることもできず、祖父の想いも理解できないまま、ただ潰れるのを待っているだけです」
自嘲気味に吐き捨てた蓮の言葉に、店内はしんと静まり返った。
柱時計の音だけが虚しく響く。
結衣は静かに立ち上がると、深くマフラーを巻き直した。
「夏目さん。想いがない人なんて、いませんよ」
彼女は店の出口へと向かい、木枠の引き戸に手をかけた。振り返ったその表情は、どこか切なく、それでいて力強かった。
「諦めてしまうのは、傷つくのが怖いからです。……私も、同じですから」
カラン、と小さな音を立ててドアが閉まり、冷たい夕暮れの風が店内に吹き込んだ。
一人残された蓮は、カウンターの上にポツンと残された白い立ち退き通知の封筒と、結衣が座っていた椅子を交互に見つめた。
彼女の最後の言葉が、冷え切った部屋にいつまでも残響していた。
蓮は重い腰を上げ、奥の暗い和室へと足を踏み入れた。埃っぽい空気の中で、長年放置されていた大きな木箱を開ける。
そこには、煤けた万年筆や使い古された帳簿とともに、一冊の革表紙の日記帳が眠っていた。
表紙をめくると、昭和三十八年二月のページが開く。
そこには、祖父の荒々しくも力強い筆跡で、こう記されていた。
『立春まで、あと三日。彼女は二度とここへは来ないかもしれない。それでも私は、この場所でペンを握り続ける。』
蓮の指先が、日記の文字を強く握りしめた。
外では、春を拒むような冷たい雨が降り始めていた。




