第1話:宛先のない手紙
夏目蓮がその「終わり」の告知を受け取ったのは、二月の最初の火曜日だった。
「夏目さん、立ち退きの期限だけどね……三月末で確定したよ。四月からは解体工事が入るから」
再開発組合の男が置いていった白い封筒を、蓮はカウンターの片隅に放り投げた。
柱時計が、カチ、カチと不機嫌な音を刻んでいる。
ここ「ナツメ堂」は、祖父の代から続く小さな文房具店だ。ガラスケースに並ぶ万年筆、埃をかぶった高級ノート、絵の具の匂い。子供の頃、蓮にとってここは世界で一番ワクワクする魔法の部屋だった。
けれど、いまや商店街の通りを歩く人の影はまばらで、店を開けていても入ってくるのは近所の老人が買い求める1本のボールペンくらいだ。
二十九歳。夢を追うには遅すぎ、諦めるには少しだけ青くさい年齢。
蓮は、自分自身がこの古びた店と一緒に、ゆっくりと朽ち果てていくのをただ眺めているような心地で暮らしていた。
ガラガラ、と。
重い木枠の引き戸が開く音がした。冷たい冬の風とともに、澄んだ鈴の音のような声が響く。
「すみません、突然……ここ、夏目勝造さんの文具店で間違いありませんか?」
蓮は伏せていた目を上げた。
入口に立っていたのは、深い紺色のコートを着た小柄な女性だった。
首元には白いマフラーを巻き、その間から覗く顔は、寒さのせいかほんのりと赤くなっている。大きな革の鞄を大事そうに抱えていた。
「……勝造は、僕の祖父です。三年前に亡くなりましたが」
「……そう、ですか」
女性は一瞬だけ寂しそうな影を瞳に宿したが、すぐに意を決したように深く一礼した。
「はじめまして。私、春野結衣と申します。東京で、古い書籍や紙資料の修復をしております」
結衣と名乗った女性は、大切そうに抱えていた革鞄から、慎重な手つきで一冊の薄い桐箱を取り出した。
そして、傷ひとつつけないよう静かにカウンターの上へと置く。
蓋が開けられると、そこには全体が茶色く変色し、端がぼろぼろに崩れかけた一枚の手紙が入っていた。
縦書きの薄いインク。ところどころ水に濡れたように滲み、文字の半分は判読できない。
「これは……?」
「先月亡くなった、私の祖母の遺品の中から見つかった手紙です」
結衣はまっすぐに蓮の目を見つめた。その瞳には、揺るぎない強い意思が宿っていた。
「差出人の欄に『ナツメ堂・夏目勝造』とありました。ですが、宛名が滲んで読めず、本文も途中で途切れています。……昭和三十八年二月三日。今から半世紀以上前の日付です」
昭和三十八年。祖父がまだ二十代半ば、このナツメ堂を開業したばかりの年だ。
「祖母は生前、この手紙を固く閉ざされた引き出しの奥に隠していました。私は紙の修復士として、この破れかけた言葉たちをもう一度、あるべき形に戻したいんです。そして……祖母が一生をかけて隠し続けたこの手紙が、誰に宛てられたものだったのかを知りたい」
「修復……? でも、こんなにぼろぼろじゃ」
「直せます」
結衣の声が、静かな店内に小さく響いた。力強く、けれどどこか祈るような響きだった。
「紙は、生きています。傷ついても、千切れても、適切な手当てをすれば、そこに書かれた想いは消えません。お願いです、夏目さん。この手紙の謎を解くために、私に協力していただけませんか?」
窓の外で、寒風がガタガタとガラス戸を揺らした。
店を畳む決意をし、すべてを諦めかけていた蓮の止まっていた時間が、その瞬間、静かに動き始めた気がした。
手紙の紙片から立ち上る、かすかな古紙とインクの匂い。
それはまるで、止まったはずの冬の底で、じっと息を潜めて春を待つ球根の匂いに似ていた。




