第八章:エリートの焦燥と、笑顔の脅迫状
ゴールデンウィークを目前に控えた、四月最後の金曜日。
大学の講義を終えた伸也が駅に向かって歩いていると、突然、見慣れない高級車が目の前に横付けされた。
後部座席の窓がスッと開き、不機嫌そうな顔が覗く。
「乗れ、伸也。少し話がある」
本家の長男、一真だった。 エリート銀行員である彼は、仕立てのいいスーツを着こなしているが、その目元には隠しきれない焦燥感と隈が張り付いている。
断る理由も勇気もない伸也は、大人しく後部座席に乗り込んだ。車は駅前の喧騒を抜け、静かな喫茶店の駐車場へと滑り込んだ。
「……で、話ってなんですか。一真兄さん」
コーヒーが運ばれてくるなり、伸也は居心地悪そうに尋ねた。 一真は周囲を一度見回し、声を潜めて言った。
「拓海のことだ。あいつ、最近お前の家に居座ってるそうじゃないか」
「居座ってるっていうか、下宿ですけど」
「同じことだ。いいか伸也、あいつに騙されるな。あいつは昔から要領がいいだけの人たらしだ。裏では本家の財産や、お祖父様の権力を狙って動いてる」
一真の言葉に、伸也は心の中で(そんなの知ってるよ)と毒づいた。拓海が腹黒いことなんて、三年前から身をもって知っている。
「あいつ、インターン先でも優秀なふりをしているが、裏で不正な取引に加担しているという噂がある。俺の銀行の伝手で調べた。……これを見ろ」
一真は自信満々に、タブレット端末をテーブルに置いた。そこには、拓海が関わっているらしい怪しげな資金移動のデータが並んでいる。
「お前からも、お祖父様に言ってやれ。拓海は危険だってな。そうすれば、お前の家の株も少しは上がるぞ」
一真の魂胆はミエミエだった。自分が直接手を下して拓海を陥れるのではなく、立場の弱い伸也を鉄砲玉に使おうとしているのだ。
「……あの、これ、本当なんですか?」
「疑うのか。俺が調べたんだぞ。あいつは本家に寄生する害虫だ。早めに駆除しなきゃならない」
一真が勝ち誇ったように身を乗り出した、その時だった。
「へえ。俺が害虫ね。面白いこと言うなあ、一真兄さんは」
頭上から降ってきた、恐ろしく爽やかな声。
伸也の心臓がヒュッと縮み上がった。 振り返ると、そこには私服姿の拓海が、完璧な笑顔を張り付けて立っていた。
「た、拓海……! お前、なんでここに……」
「伸也のスマホのGPS、僕のスマホと同期してるんで。こいつが急に変なルートで移動し始めたから、心配で迎えに来ちゃいました」
さらりと恐ろしいことを言いながら、拓海は伸也の隣に当然のように腰を下ろした。伸也は「いつの間にGPSなんて!?」と抗議したかったが、拓海の纏う見えない威圧感に声が出ない。
拓海は、一真のタブレットを横目でチラリと見た。
「なるほど。これが一真兄さんが捏造した、俺の不正データですか。数字の辻褄は合ってますけど、ダミー会社のアカウント、兄さんの後輩の名前になってますよ。詰めが甘いなあ」
「なっ……! でたらめを言うな!」
顔を真っ赤にする一真に対し、拓海はどこから取り出したのか、自分のスマートフォンをテーブルに滑らせた。
「でたらめじゃないですよ。それより、一真兄さん。兄さんが今担当してる丸由商事の融資案件、あれ、稟議書ごまかしてますよね? あと、先月銀座のクラブで使った経費の誤魔化し。それから、お祖父様のコレクションの壺、一つ勝手に売りました?」
「…………っ!!」
一真の顔から、一瞬で血の気が引いた。
伸也は目を丸くした。拓海のスマホの画面には、一真の不正の証拠となるメールの履歴や写真が、これでもかと並んでいる。
「これ、お祖父様や銀行の頭取が見たらどうなるかな。本家の嫡男が、横領と私文書偽造。……一族の恥ですね」
拓海は、春風のような穏やかな声で、容赦なく一真の息の根を止めた。
「お、お前、どこでそれを……!」 「俺を誰だと思ってるんですか。情報なんて、いくらでも集まりますよ」
拓海はにっこりと笑い、一真のタブレットを指先でツンと押し返した。
「俺は、本家の財産になんて興味ないです。ただ、俺の可愛い従弟(伸也)に変なこと吹き込んで、巻き込もうとするのはやめてもらえます? ……次やったら、これ、全部公に出しますから」
一真はガタガタと震えながらタブレットをひったくり、「覚えとけよ!」という三流悪役のような捨て台詞を吐いて、逃げるように喫茶店から飛び出していった。
嵐が去った後のテーブルで、伸也は呆然と拓海を見つめていた。
「……あんた、本当に何者なの」
「ん? ただの優秀なインターン生だけど?」
拓海は何事もなかったかのように、一真が飲み残したコーヒーの伝票を手に取った。
「まったく、一真兄さんも暇だよね。伸也、あんな奴の車にホイホイ乗るなよ。心配したんだから」
「心配って……ていうか、GPSってどういうこと!?」
「あ、ばれた? この前、伸也が風呂入ってる間に設定しといた。便利だろ?」
悪びれもせずウインクをする拓海を見て、伸也は頭を抱えた。
一真の陰謀も怖かったが、それ以上のバケモノが、今自分の家に居候しているのだ。
「ほら、帰るぞ。今日の晩飯、伸也の好きなハンバーグにしてやるから」
「……子供扱いすんな」
文句を言いながらも、拓海の背中を追ってしまう自分。
腹黒くて、手際が良くて、絶対に自分を守ってくれるスパダリ。
この男から逃げられる日なんて、一生来ないのではないか。伸也は春の夕暮れの中で、深々とため息をついた。




