第九章:完璧超人のバッテリー切れ
同居生活が始まって数週間。伸也の生活リズムは、拓海という圧倒的な「外圧」によって、本人の意志とは無関係に見事に書き換えられていた。
それまでの伸也の暮らしは、いわば自堕落な自由の中にあった。昼過ぎに起き、母親が作り置きしてくれているおかずで適当に空腹を満たし、深夜までスマホの画面を眺める。
そんな輪郭のぼやけた毎日が、拓海がやってきたその日から、軍隊のような、あるいは寄宿学校のような規則正しさを帯び始めた。
朝七時には、キッチンから漂う出汁の香りと、トーストの焼ける香ばしい匂いで強制的に意識を引き戻される。
拓海が作る朝食は、栄養バランスも彩りも完璧で、それを拒否する正当な理由はどこにも見当たらない。
伸也が眠い目をこすりながら食卓につけば、そこには既に新聞を読み、白シャツをパリッと着こなした拓海が「おはよう」と爽やかな笑顔で座っている。
その眩しさに当てられ、伸也は毒気を抜かれたまま、気づけば大学の講義にも遅れず出席するようになっていた。
夜中、ふと喉の渇きを覚えて部屋を出たときのことだ。廊下を渡り、水を飲みにキッチンへ向かおうとした伸也は、リビングの一角で奇妙な光景に出くわした。
真っ暗なリビングの中で、一点だけ青白い光が浮き上がっている。それは、ソファの上に置かれたノートパソコンの液晶画面から放たれる光だった。
「……拓海さん?」
声をかけたが、返事はない。伸也はそっと近づいて、その様子を伺った。 いつもなら、物音一つで優雅に顔を上げ「どうした? 眠れないのか?」と気遣ってくれるはずの従兄が、そこでは無防備な姿を晒していた。
ノートパソコンを開いたまま、拓海がソファの端で丸くなって寝落ちしていたのだ。画面には、インターン先の企業で任されているのであろう、目がチカチカするような数字の羅列と複雑な図表が映し出されている。資料の端々には細かな修正の跡があり、彼がどれほどの時間をこれに費やしたのかを物語っていた。
「……なんだ。こいつも疲れるんだな」
伸也は、独り言のように小さく呟いた。 拓海という男は、藤堂家という巨大な組織の中で、常に「期待される自分」を演じ続けている。誰に対しても一二〇パーセントの笑顔を崩さず、家事を完璧にこなし、さらに外ではエリートの卵として成果を出し続ける。
伸也にとっては、その存在自体が一種の超人であり、疲れや弱音とは無縁の生き物だと思い込んでいた。
だが、目の前で眠る男は、案外と小さく見えた。 いつも余裕たっぷりに自分を見下ろすあの瞳は固く閉じられ、まつ毛の影が頬に落ちている。
その寝顔は、普段の洗練された雰囲気とは裏腹に、二十二歳の青年相応に幼く、どこか危うい。そして、青白い画面に照らされた目の下には、隠しきれないうっすらとした隈が刻まれていた。
自分を世話するために、毎朝早く起きて食事を作り、自分の家から母が引っ越す準備まで手伝って、その合間にこんな難解な仕事をこなしている。その事実を突きつけられたようで、少しだけ、胸の奥がチクリとした。
伸也は、重いため息を一つ吐き出す。
(風邪でも引かれたら、こっちの寝覚めが悪いし……)
そんな言い訳を自分自身にしながら、彼はソファの背もたれに無造作にかけられていた厚手のブランケットを手に取った。
そっと、拓海の肩から冷えないように上にかけてやろうとした、その瞬間だった。
ガシッ。
「うわっ!?」
静寂に包まれたリビングで、伸也は短い悲鳴を上げた。 暗闇の中で、自分の右手首が、いきなり強靭な力で掴まれたからだ。
「……どこ行くの」
ビクッとして心臓が喉元まで跳ね上がる。見下ろすと、拓海がうっすらと瞼を開けていた。しかし、その瞳にはいつもの鋭い理知的な光はなく、どこか遠くを彷徨っているような、ぼんやりとした色彩を湛えている。焦点が合っていない。
完全に、意識が深い眠りと現実の狭間で揺れている「寝ぼけ」の状態だった。
「と、トイレだよ! 急に掴むなよ、びっくりするだろ! 離せって!」
伸也は慌てて腕を引き抜こうとしたが、掴まれた手首の力は思いのほか強かった。拓海はそのまま、ずるずると伸也を自分の方へ引き寄せようとする。
「……だめ。伸也は、俺がいないと何もできないんだから……」
掠れた、けれど耳の奥にこびりつくような甘い声で、拓海が呟いた。
その言葉は、いつもの「人当たりのいい兄」が口にする親切なアドバイスではなく、どこか心の深淵から漏れ出した本音のような重みを持って、伸也の胸に突き刺さった。
「お前が俺の生活能力を根こそぎ奪ったんだろうが!」
伸也は精一杯の、そして最も的確なツッコミを投げつけた。 朝の目覚ましから、晩飯の献立、果ては洗濯物の畳み方に至るまで、拓海がやってきてからの生活はすべて彼が主導権を握っている。
自分が何もできなくなったのではなく、拓海が「何もさせない」環境を完璧に構築したのだ。
しかし、伸也の必死の反論も虚しく、拓海は「むにゃ……」と意味不明な言葉を呟きながら、さらに力を込めた。
彼は伸也の手首を自分の胸元まで手繰り寄せると、そのまま抱き枕のように、伸也の腕を両腕でぎゅっとホールドしてしまったのだ。
「ちょっ、おい! 離せって! 重いし、暑苦しい……!」
抗議を重ねるものの、拓海は既に再び深い眠りの海へと沈み始めていた。伸也の腕を抱えたまま、規則正しい、静かな寝息が聞こえてくる。
振り解こうと思えば、全身の力を使えばできたはずだ。 けれど、伸也の体は、なぜかそれ以上の抵抗を止めてしまった。
いつもは圧倒的な光で自分を眩ませ、洗練された言葉で自分を翻弄する側の男。そんな男が、今のこの瞬間に限っては、まるで誰かに縋り付かなければ眠ることもできない子供のように見えたからだ。
拓海の体温が、シャツの袖越しに伝わってくる。 その熱は驚くほどに生々しく、彼もまた一人の人間として、無理をしてこの「完璧な自分」を維持しているのだという現実を、伸也に突きつけていた。
(……一〇分だけ。こいつが完全に深い眠りに入るまで、待ってやるだけだ)
伸也は心の中でそう自分に言い聞かせたが、その顔は、暗闇の中でかすかに赤らんでいた。 いつもは敵わない相手が見せた、奇妙なほど無防備な隙。 伸也はブランケットを握りしめたまま、結局、そこからしばらく動けなくなってしまった。
壁の時計が刻む規則正しい秒針の音と、拓海の穏やかな呼吸音だけが、深夜のリビングに溶けていく。 外では三月の雨が上がり、雲の間から、弱々しい月光が差し込み始めていた。
伸也は、自分の腕を力強く、けれど大切そうに抱え込む従兄の姿を、ただぼんやりと見つめ続けていたのだった。




