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第二章:光を纏う者

「お祖父様、明けましておめでとうございます。お元気そうで何よりです」


その声が響いた瞬間、屋敷全体の温度が、人の手が加わったかのように二、三度上昇した錯覚を覚えた。


凍てつくような一月の風を連れて現れたその主は、藤堂家の誰もが認め、頼りにする青年――拓海たくみだった。二十二歳、大学四年生。就職も決まり、一族の未来を明るく照らす存在として、彼は今この場所に立っている。


拓海は八歳の異父弟・勇太を片手で軽々と抱え上げていた。勇太は拓海の首にしっかりと抱きつき、安心しきった顔で笑っている。もう一方の手では、足元の悪い義父の荷物をさりげなく持ち、歩調を合わせるようにゆっくりと玄関を上がってきた。


 血の繋がらない弟や父に対しても、彼は微塵も隔てを感じさせない。その自然な慈しみは、この格式張った古い屋敷に、春の陽だまりのような柔らかな空気をもたらしていた。


拓海は、自らを輝きで包み込み、生来の魅力で周囲の人間を惹きつけてやまない天才であった。

 

それは計算された演技などではなく、彼が持つ純粋な「善意」と「聡明さ」の現れだ。厳しい祖父の前では、若者らしい快活さを残しながらも、丁寧な言葉遣いの中に「いつも感謝しています」という懐かしさを滲ませて取り入る。

 

また、何かと小言の多い叔母たちに対しても、彼は決して嫌な顔を見せない。それどころか、彼女たちが一番聞きたい、けれど誰も言ってくれない言葉を、まるで見透かしたかのように、息をするように自然に吐く。


「あれ、叔母さま、また若返りましたか? そのお着物の色、肌がとても綺麗に見えますよ」


 その言葉が嫌味や媚びに聞こえないのは、彼が本当に相手の素敵な部分を見つけ出し、それを伝えることに長けているからだ。彼に褒められた叔母たちは、たちまち少女のような笑顔を見せ、屋敷の重苦しい空気は拓海を中心にどんどん解きほぐされていく。


「拓海さん!」


弾んだ声を上げて駆け寄ったのは、十七歳の美希だった。彼女は日頃の「お嬢様」としての立ち居振る舞いも忘れ、あからさまに感情を露わにして拓海に歩み寄る。


「美希ちゃん、久しぶりだね。……その髪型、とても似合っているよ。一気に大人っぽくなった。さっき一瞬、誰か分からなかったよ」


 拓海は穏やかに微笑み、ぽん、と美希の頭を優しく撫でた。その大きな手のひらから伝わる温もりに、美希は完全に彼の光の中に囚われていた。


 拓海は誰に対しても等しく優しい。その眼差しを向けられた者は、誰もが「自分だけが特別扱いを受けている」という、綿菓子のように甘美な錯覚を与えられる。それは天性のものであり、彼自身に悪意など微塵もないからこそ、その光はどこまでも強く、純粋だった。


そんな無敵ともいえる彼の振る舞いを、縁側の暗がりに座して眺めていたのが伸也だった。


 伸也は自分の烏の羽のような黒髪の隙間から、大広間の中心で光り輝く拓海を見つめていた。眩しすぎる。あまりの光量の違いに、細く目を開くのが精一杯だった。


 エリートの一真や、華やかな美希、そして完璧な拓海。自分とは住む世界が違う人々。伸也は彼らの眩しさから逃げるように、より深く、縁側の影へと身を沈めた。この圧倒的な「陽」を遮る、分厚いサングラスか何かが欲しかった。自分のような影の人間は、彼の光に触れれば、それだけで消えてしまいそうな気がしたからだ。


ふいに、親族の輪の中心で、大人たちの問いかけに爽やかに答えていたはずの拓海が、ふっと顔を上げた。


彼の視線は、迷うことなく、人混みの向こう側にある隅の暗がりへと向けられた。


   伸也と、目が合った。


伸也の心臓が、跳ねる。見つかってしまった。影の中に隠れていたはずなのに、拓海は正確に自分を見つけ出したのだ。


 拓海は、伸也が隅に一人でいることを気に病んでいたのかもしれない。彼は一瞬だけ、その顔全体をさらにまばゆく輝かせ、誰にも気づかれないように、伸也にだけ分かるような優しい笑顔を作った。


そして、周囲に悟られないよう、内緒話でも共有するかのように、唇の動きだけで静かに伝えてきた。


『あとでね』


それは、「あとでゆっくり二人で話そう、お前のところに行くからね」という、兄としての親愛に満ちた、あまりにも純粋な約束だった。


 拓海はそのまま、また美希たちの賑やかな輪の中へと戻っていった。


伸也は、凍りついたように動けなくなった。


 拓海が何を思っているのか。あの一瞬の合図は、間違いなく「善意」からくるものだった。彼は本気で、この影の中にいる伸也を救おうとしている。独りぼっちにさせまいと、その温かな光の中に引き入れようとしている。


(自分のような人間のところへ、あの拓海さんが来てくれる)


その事実が、伸也にはたまらなく恐ろしかった。


 拓海は何も悪くない。ただひたすらに優しく、正しい。それなのに、その光があまりにも清らかであればあるほど、伸也は自分の「黒さ」が浮き彫りになるのを感じてしまう。


 拓海が自分を掌握しようとしているのではない。拓海のあまりに完璧な善意の前に、伸也自身が勝手に「自分は彼なしでは立っていられない」と、心の色を塗り替えられていく予感に震えていた。


窓の外から吹き込む隙間風が、伸也の黒髪を揺らす。  

拓海は、一族という大きな世界を照らしながら、同時にその中心にいる伸也という小さな存在を、見捨てずに照らし続けようとしている。


 それは救済なのだ。誰もが羨むような、美しく温かな救済。


 伸也は膝の上で震える手を、もう片方の手でぎゅっと抑え込んだ。拓海の優しい「あとでね」という言葉が、まるで解けない魔法のように、伸也の胸の奥深くに静かに沈んでいった。

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