第二十六章:終わりの予感
きっかけは、母親からの何気ない、あまりにも無邪気な一言だった。
十月。
窓の外では、つい一ヶ月前までの猛暑が嘘のように、冷ややかな秋風が街路樹の葉を揺らしている。日は短くなり、夕暮れ時にはどこか寂寥感の漂うオレンジ色の光がリビングを支配する季節。
大学の講義を終えて帰宅した伸也は、キッチンで夕飯の仕度をしていた母親から、ふいに背後で声をかけられた。
「伸也、そういえば来月で拓海くんの下宿期間、ちょうど半年になるわね。インターンも無事に終わったし、あの契約も一区切りでしょう? 拓海くん、そろそろ次の部屋探し、自分でも始めるのかしら。お母さん、不動産屋の知り合いに相談してあげた方がいい?」
その瞬間、伸也は脱ぎかけていたカーディガンの袖に腕を取られたまま、石像のように固まった。
指先から体温が引いていくような感覚。頭の芯が、しびれるように冷たくなる。
(……来月?)
そんなの、とっくに分かっていたはずのことだ。一月のあの凍てつくような正月の日、本家で祖父から言い渡された「四月から半年間」という居候の条件。拓海が伸也の家に来たのは、あくまで大学の最終学期とインターンの利便性、そして伸也の生活改善という名目だった。
だが、この半年という時間。拓海が台所に立つ音、廊下から漂う清潔な香り、深夜に布団の中で交わした熱。それらが伸也にとって「呼吸」と同じくらい当たり前の日常になっていた。
七月のあのデータ漏洩事件の際、あれほど必死に「こいつを檻から連れ戻す」と本家で宣言したというのに、どこか心の一角では「このまま、この生活がずっと続くのではないか」という甘い錯覚に陥っていたのだ。
(期間限定。……ああ、そうだよ。あいつはいつか、ここを出ていく『下宿人』だった)
伸也は、手に持っていたスマートフォンの画面を無意味に強く握りしめた。
拓海が用意してくれた、この異常なほど温かな「居場所」は、あくまで仮初めの契約に過ぎなかった。
なのに――。
(……なんで今さら、こんなに胸の奥が痛いんだよ)
その日の夜。
十月の冷え込みを連れて、拓海がいつものように帰宅した。
「ただいま、伸也。今日は叔母さん、もう寝ちゃったの?」
ネクタイを緩めながら、自然にリビングへ入ってくるその姿。誰よりもこの家に馴染み、今や伸也の母親からも「実の息子より頼りになる」と絶大な信頼を寄せられている男。
伸也は、ソファに座ったまま、重い口を開いた。
「……なあ」
「ん? どうした? 顔色悪いけど、風邪でも引いた?」
「これ」
伸也は、無言でスマートフォンのメモ画面を突き出した。先ほど母親から言われた「来月の期限」についての言葉を、殴り書きしたものだ。
拓海はそれを一瞥し、一瞬だけ動きを止めた。完璧に整えられた彼の表情が、わずかに、本当にわずかにだけ動いたのを伸也は見逃さなかった。
理解したのだ。自分たちが直視を避けてきた「十月末」という審判の日が、ついに目の前に現れたことを。
「……ああ」
拓海の声は、驚くほど冷静だった。
その「ああ」という短く、受け入れたような響きに、伸也の心臓が不快に跳ねた。
「……『ああ』じゃねえだろ。お前、分かってたのか」
思わず声が低くなる。言葉に棘が混じる。
「どうすんだよ。来月で終わりなんだろ。お前の内定者研修も一段落して、ここでの役割も終わりだ。お前は……このまま、出ていくのか」
沈黙が落ちる。
拓海はソファの背もたれに寄りかかり、少しだけ視線を落として、何かを慎重に選ぶように黙り込んだ。やがて、彼はいつもの「人当たりのいい兄」の仮面を完全に脱ぎ捨てた、静かな声で言った。
「……もともと最初から、インターンと大学の間の半年間だけ、という条件で叔母さんに置いて、もらったわけだから。おじい様との約束も、十月までだ。藤堂家の人間として、筋は通さなきゃいけない」
「で、伸也はどうしたい?」
逆に、突き放すような問いが返ってきた。
伸也は息を呑んだ。
(……なんで、俺に振るんだよ。いつもみたいに、勝手に全部決めて、俺を振り回せばいいだろ)
「俺は……」
言いかけて、言葉が喉の奥でつかえる。
ここで「行かないでほしい」と言ってしまったら。それは拓海の将来や、彼の積み上げてきたキャリアを否定することにならないだろうか。
続けたら、何か取り返しのつかない、自分たちの脆いバランスを壊してしまう一言を漏らしてしまいそうで、伸也はただ、唇を噛んで俯いた。
部屋を支配する濃密な沈黙。
その空気を切り裂くように、拓海の指先がわずかに動いた。彼はソファから立ち上がると、一歩、伸也に近づいた。
「……正直に言えよ。伸也。隠したって、お前の考えてることなんて全部わかるんだ」
拓海の声は、これまでで一番低く、そして切実な熱を持っていた。
「俺がここを出ていくのが、お前は嫌なんだ。でも、自分からそれを止める勇気がないから、このまま曖昧なままでいきたいと思ってる。……そうだろ?」
核心を突かれ、伸也の肩が小さく震えた。
「……っ。否定、できないよ。……お前がいないこの家に、戻ってくるのが怖いんだよ」
「……お前は」
伸也は絞り出すように、問い返した。
「お前は、平気なのかよ。来月から、別の場所で一人で住んで……それで、俺たち、また元通りの『たまに会う親戚』に戻れると思ってんのか?」
拓海は、深く、重い溜息を吐いた。
彼はそのまま伸也の肩を掴むと、強引に自分の身体へと引き寄せた。
「嫌に決まってるだろ。誰が平気だって言った?」
即答だった。拓海の瞳には、一分の迷いもない激しい情動が渦巻いていた。
「むしろ、終わらせる気なんて、一ミリもないよ。俺を、そんな聞き分けのいい人間に見えてたの?」
伸也の心臓が、耳の奥で爆発したかのように強く跳ねた。
「じゃあなんで……。さっきは、あんな他人事みたいに……」
「条件があるからだよ。現実を無視して、お前に嘘はつけないんだ」
拓海は伸也を腕の中に閉じ込めたまま、静かに、けれど逃がさない強さで続けた。
「就職の配属先、まだ確定してないんだ。藤堂家の息がかかった企業に入っても、国内の支社か、それとも海外の研修所か、それは一真兄さんたちが裏でどう動くかにかかっている。地方に飛ぶなら、どっちみちこの家を出ることになる。俺の一存じゃ、どうにもできない『現実』があるんだ」
ああ、そうだ。
拓海には、藤堂一族という大きな期待と、それに伴う「未来」がある。伸也のように、ただこの実家で影を潜めていればいいわけではないのだ。
「配属先によっては、将来的には海外に行くことにもなるだろう。……そんな不確定な未来を抱えたまま、この『ぬるま湯のような下宿生活』をいつまでも続けられるなんて、お前に無責任なことは言えない」
拓海の言葉は、淡々としているのに、どこか氷のように硬かった。
彼は本気で伸也のことを考えている。だからこそ、期待させてから裏切るような真似はしたくないのだ。
だが、伸也の心は、それ以上に強く燃えていた。
七月のあの夜、ボロボロになった拓海を救ったのは自分だ。今度は、この男の背負う「不自由な未来」を共有する覚悟を、自分から示さなければならない。
「……それでも」
伸也は一歩、踏み出した。拓海の胸板に自分の顔を押し付けるように。
「それでも、十月が来たから『はい、終わり』でいいのかよ。そんなの、俺は認めない。……お前がどこに行こうが、俺には関係ないだろ」
沈黙。
次の瞬間、拓海の手が、伸也の腕を折れんばかりに強く掴んだ。
「よくないって、言ってるだろ……!」
拓海の表情が、一瞬にして崩れた。冷静な仮面が割れ、その奥にある一人の青年の、情けないほどの独占欲が顔を出す。
「でも、保証できないんだよ! お前を不幸にするかもしれない未来に、お前を巻き込みたくないんだ!」
距離が一気に、ゼロになる。拓海は伸也をリビングの壁へと押し込み、その瞳を至近距離で見つめた。
「中途半端なこと言うのは嫌なんだ。離れて、疎遠になって、いつかお前に『あんな時期もあったね』なんて懐かしがられるくらいなら……」
「……じゃあどうすんだよ。どうすれば満足なんだよ」
「選べよ、伸也」
拓海は、低く、はっきりと突きつけた。
「このまま期限通りに別れるか。……それとも、どんな場所へ行こうが、どんなに離れようが、地獄まで連れ添う覚悟で、続けるか」
空気が、止まった。
究極の二択。あまりにも拓海らしい、非情なまでの誠実さと、狂おしいほどの愛。
「……ずるいだろ、それ。……また、俺に選ばせるのか」
「お前の意思も必要なんだよ。……俺一人のわがままで、お前を縛りたくない。伸也が、俺を選んでくれないと……俺は、どこへも行けないんだ」
逃がさない。その言葉は、悲鳴のような祈りでもあった。
伸也はしばらくの間、拓海の激しい鼓動を手のひら越しに感じながら、ただ黙っていた。
そして、自分でも驚くほど、小さく、けれど確かな息を吐き出した。
「……今さら別れるとか、無理に決まってるだろ。……お前がいない人生なんて、もう考えられないんだよ」
声は小さかったが、そこには一分の迷いもなかった。
伸也は、拓海のシャツの胸元を強く、ぎゅっと掴んだ。
「お前がどこへ行こうが、俺がそこまで追いかけてやるよ。……半年なんて短い期間で、俺をこんな身体にした責任、お前が取れよ」
その瞬間、拓海の表情が劇的に変わった。
救われたような、あるいは狂おしいほどの歓喜を宿したような、複雑な笑み。
「……じゃあ、決まりだね」
引き寄せられる。拓海の熱い腕が、伸也の背中に回された。
「最後まで責任を取るよ。……どこへ行っても、俺とお前は繋がってる。……絶対に逃がさないから」
「……お前、本当に……勝手だな」
「知ってるよ。お前にしか見せないけどね」
拓海は小さく笑うと、額を伸也の額に預けた。
「もう、ただの『居候』としての期限は、今日で終わりだ。これからは、俺の『生涯のパートナー』としての契約が始まるんだ。……文句、ある?」
「……ないよ。……最初からそうしろ」
その言葉に、伸也の手が、自然と拓海の広い背中に回った。
期間限定なんて言葉は、もう意味を持たない。彼らが手に入れたのは、一族の秩序を破壊してまで掴み取った、本当の意味での「二人の航路」なのだ。
「……離れたら別れる前提で考えてた。お前の幸せのために、俺が身を引くのが『正しい』んだって……そう自分に言い聞かせてたんだ」
拓海がぽつりと、伸也の耳元で告白した。
「でも、無理だった。お前の顔を見たら、全部どうでもよくなったよ。……だから、叔母さんには俺から話す。十月が終わっても、俺はここに居座り続けるよって」
「……なあ」
「ん?」
「……いつか、二人できちんと部屋、借りよう。……下宿人じゃなくて、二人だけの城」
伸也の言葉に、拓海は一瞬の沈黙の後、今までにないほど晴れやかな声を上げた。
「……ああ、そうだね。楽しみだ。俺、そのために今以上に仕事頑張るよ。お前を世界一幸せな同居人にしてあげるから、覚悟しとけよ、俺の軍師様」
笑い混じりの声。けれど、拓海は伸也を離さない。むしろ、さっきよりも強く、抱き寄せた。
終わりがあるはずだった「居候生活」は、気づけば、終わらない「二人の物語」の序章へと変わっていた。
窓の外、十月の冷たい夜風が吹き抜けていったが、二人の身体はいつまでも熱く、重なり合っていた。




