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第二十四章:真夏の歪なノイズと、溶け合う本音

きっかけは、本当に些細な、どこにでもある光景だった。


 七月の午後。梅雨明けを宣言したばかりの太陽が、容赦なくアスファルトを焼き、大学のキャンパスは逃げ場のない熱気に包まれていた。

 講義棟の影でさえも熱を帯びる中、中庭の大きな木陰だけが、唯一の安息地のように学生たちを吸い寄せていた。


 伸也は、次の講義へ向かう途中にその横を通った。烏の羽のような黒髪を指先で払い、額に滲む汗を拭ったその瞬間、視界の端に「まばゆすぎる色彩」が入り込んだ。


「拓海さん、この後お時間ありますか? ちょっと相談したいことがあって……」


 透き通るような高い声。そこにいたのは、いかにも大学の華といった雰囲気の女子学生だった。彼女が向ける視線には、明らかな憧憬と、それ以上の期待が混じっている。


 いつもの光景――のはずだった。拓海はその天性の人当たりの良さで、誰に対しても平等に優しく、そして絶妙な距離感で「申し訳ないけれど、この後は予定があって」と、相手を傷つけずに断る。それが伸也の知っている、完璧な拓海の振る舞いだ。


 だが、その日に限って、拓海は即座に首を振らなかった。


 彼は少しだけ困ったように眉を下げ、それから腕時計を確認して、穏やかに微笑んだ。


「……少しだけなら。十五分後に約束があるから、それまででいいかな」


 その一言。


 遠くで響く蝉の声に紛れてしまいそうなほど小さな承諾を、伸也は少し離れた場所で、耳の奥に突き刺さるような鋭さで聞いてしまった。


 胸の奥で、冷たい氷の粒が弾けたような感覚がした。拓海が自分以外の誰かに、あんなにも「無防備な」時間を与えるなんて。


 伸也は二人から目を逸らし、逃げるようにその場を去った。背後で弾ける女子学生の歓声が、夏の熱気よりも不快に鼓膜を震わせた。


 帰宅後。


 夕暮れ時の伸也の家は、いつもなら拓海が作る夕飯の香ばしい匂いで満たされているはずだった。だが、その日のリビングに流れていたのは、澱んだ水のように重苦しい空気だった。


「……遅かったな」


 ソファで参考書を広げていた伸也は、視線をページに落としたまま、低い声で言った。玄関から入ってきた拓海は、ジャケットを腕にかけ、少しだけ疲れた様子を見せている。


「ごめん、少し付き合いがあって。……お腹、空いたよね。すぐ準備するから」


 いつも通りの会話。いつも通りの、気遣いに満ちた拓海のトーン。


 それなのに、伸也の耳には、そのすべてが上滑りしているように聞こえた。普段なら気にならない些細なズレが、今の伸也には致命的な「嘘」のように感じられてしまう。


「……ああいうの、断るんじゃなかったのかよ」


 ぽつり、と。伸也の口から、抑えきれなかった澱が溢れ出した。


 キッチンへ向かおうとしていた拓海の手が、一瞬だけ止まる。冷蔵庫のドアノブを掴んだまま、彼はゆっくりと振り返った。


「何の話?」


「分かってるだろ。……中庭で、女子に絡まれてたやつ」


 視線がぶつかる。拓海の瞳は、いつもの澄んだ輝きを失い、代わりに深い戸惑いと、隠しきれない鋭さが混ざり合っていた。部屋の湿度が、一気に跳ね上がったような錯覚を覚える。


「……見てたんだ。別に、大した話じゃないよ。試験のことで少し聞かれただけで」


「へえ、そうなんだ」


 伸也の声が、自分でも驚くほど低くなる。腹の底から、黒い感情がせり上がってくるのが分かった。


「楽しそうだったけどな。いつも『牽制』だなんて偉そうなこと言ってる割には、自分から隙を見せてるんじゃねえか」


 その一言に、拓海の端正な眉がわずかに寄った。


「……それ、どういう意味? 俺がわざとやってるって言いたいの?」


「そのままの意味だよ。お前が誰と仲良くしようが自由だけどさ。……あんな、自分だけが特別みたいな顔させてるの、見てて不愉快なんだよ」


「疑ってんの?」


「疑うとかじゃなくて」


 一拍。伸也は参考書を力任せに閉じると、立ち上がって拓海を見据えた。


「……ムカついただけ。お前が俺にだけ見せてる顔を、外で安売りしてるのが気に入らないんだよ」


 沈黙。


 壁の時計の秒針が刻む音が、やけに大きく響く。


 拓海の中で、何かがパチンと切れる音がした。


「は?」


 低く、地を這うような声。


 拓海は一歩、また一歩と伸也に近づいてきた。その体からは、いつもの「人当たりのいい兄」のオーラが完全に消え失せ、底知れない冷徹な執着が滲み出していた。


「俺が誰と話そうが、何をしようが、お前に関係ある? お前は俺のマネージャーにでもなったつもり?」


「……あるだろ。お前が勝手に、俺の生活に入り込んできたんだから」


 伸也は一歩も引かない。烏の羽のような黒髪の間から覗く瞳が、激しく燃えている。


「俺、お前の“特別”なんだろ。自分から俺を救ったなんて言って、依存させたのはお前だろ。だったら……最後まで責任持てよ」


 その言葉に、拓海の目が鋭く細まった。彼は伸也の正面で立ち止まり、その圧倒的な体格差で伸也を威圧するように見下ろす。


「だったら、信用しろよ。俺がお前以外の誰かに本気になるとでも思ってるわけ?」


「……してるよ。でも、外であんなにヘラヘラされると、分かんなくなるんだよ!」


「してないだろ! してないから、そんな風に噛み付いてくるんだろ!」


 珍しく、拓海の声が荒れる。


 互いに一歩も引かず、激しい感情の火花が散る。こんな風に、本気で声を荒らげて喧嘩をするのは、同居を始めてから初めてのことだった。


「……お前さ」


 拓海がさらに一歩詰め寄る。二人の鼻先が触れ合うほどの距離。


「自分で言ったこと、分かってる? “ムカついた”って。不愉快だって」


「……だから何だよ。悪いかよ」


「それ、独占したいってことだろ。自分だけのものにしておきたいって、認めてるのと一緒だよ。……なら、格好つけないで、ちゃんとそう言えよ」


「お前だって同じだろ!」


 伸也が負けじと言い返す。拓海のシャツの胸元を、骨が白く浮き出るほどの力で掴み上げた。


「外であんなに俺の肩を組んだり、牽制だなんて言って、俺の逃げ場を奪ってるのはお前だろ!」


「してるよ!」


「は?」


「してるって言ってるんだ! 牽制も、独占も!」


 拓海は即答した。その瞳には、隠し通してきた暗い熱が渦巻いている。


「俺はお前を誰にも渡したくない。お前の視界に、俺以外の『光』が入るのが耐えられないんだ。だから俺は、わざと周りに見せびらかしてる。お前が俺のもだってことを!」


 はっきりとした、迷いのない宣言。


 伸也は言葉を失った。拓海の口からこれほどまでに剥き出しの独占欲を突きつけられるのは、初めてだった。


 だが、伸也もまた、自分の中にある同じだけの重さの感情に気づいてしまう。


「……っ。だったら……だったら俺だって同じだ! お前が他の誰かと笑ってるのを見るくらいなら、この家ごと消えちまえばいいって、一瞬でも思ったんだよ!」


 一瞬の静止。


 次の瞬間、伸也の手首が強靭な力で掴まれた。


「……っ、拓海――」


 強く引かれる。抵抗する間もなく、伸也の背中がリビングの壁に叩きつけられた。


 ドスン、という鈍い衝撃。


 拓海はそのまま、伸也の両手首を頭上に固定し、自らの身体で伸也の逃げ場を完全に塞いだ。壁に押し付けられた伸也の視界には、拓海の荒い呼吸と、獲物を捕らえた獣のような瞳だけが映る。


「だったら、逃げんなよ」


 低く、押し殺したような、けれど熱を持った声。


「ムカついたなら、ちゃんと俺にぶつけろ。嫉妬してるなら、泣き喚いて俺に縋れ。……お前のその、影に隠れようとする癖が一番腹立つんだよ」


「……ぶつけてるだろ。今、こうやって……」


「足りない。全然足りないんだよ」


 拓海は即答すると、そのまま顔を近づけた。


「もっと来いよ。俺を、お前なしではいられない身体にしたのは伸也だろ。……責任、取れよ」


 その言葉と同時に、強く引き寄せられた。


 重なったキスは、驚くほど荒かった。さっきまでの喧嘩の熱、苛立ち、そして抑え込んでいた独占欲を、そのままぶつけ合うような暴力的なまでの口づけ。


 伸也は逃げようとして身をよじったが、後頭部を大きな手にガシッと押さえ込まれ、逃れることはおろか、首を動かすことさえ許されない。


 拓海の歯が唇に当たり、血の味が微かに広がった。


「……っ、やめ――」


「やめない。お前がちゃんと、俺を欲しがるまで」


 被せるように言われ、さらに深く、貪るように唇が重ねられる。


 激しくぶつかり合っていたはずの感情が、舌が絡み合い、呼吸が混ざり合う中で、次第に別の色へと変わっていく。


 荒さが、ゆっくりと溶けていく。


 拒絶していたはずの伸也の腕が、気づけば自由になった手で拓海の背中を強く抱きしめていた。


「……ほら」


 拓海がわずかに唇を離す。額と額が触れ合い、熱い吐息が肌を叩く。


「ちゃんと欲しがれよ、伸也」


「……っ」


 言葉にならない。ただ、拓海の体温が、自分の内側の空白をすべて埋めていく感覚だけが心地よかった。


 沈黙のあと、伸也の手が、震えながらそっと拓海のシャツの裾を掴んだ。


「……離すな。……どこにも、行くな」


 消え入りそうな小さな声。


 その瞬間、張り詰めていた拓海の表情が、まるで雪解けのように完全に崩れた。


 彼は、伸也を壊れ物のように、けれど力強く、腕の中に収め直した。


「……最初からそうしろ。……バカ伸也」


 今度は、さっきとは違うキス。


 深く、ゆっくりと。お互いの存在を噛み締めるように、確かめるように。


 さっきまでの衝突が、そのまま激しい熱に変わり、二人の境界線を溶かしていく。


「……ごめん」


 拓海が、伸也の耳元でぽつりと呟いた。


「言い方、悪かった。……不安にさせて、ごめん」


「……俺も。……酷いこと言った」


「でも、ああいうの……やっぱり無理。お前が俺以外の誰かにあの顔を見せるのは、死んでも嫌だ」


 伸也の正直な言葉に、拓海は一瞬驚いたように目を見開き、それから、今までで一番穏やかな笑みを漏らした。


「じゃあ、もうしない。断る理由に『嫉妬深いパートナーがいるから』って付け加えてもいい?」


「……本気でやめろ。絶縁されるだろ」


 伸也は顔を背けるが、拓海の胸板から離れようとはしなかった。


 そのまま、夏の夜の静寂の中で、二人は静かに抱き寄せ合った。


 さっきまでの激しい衝突が嘘のように、今はただ、重なり合う体温だけが真実としてそこにあった。


「……なあ」


「ん?」


「……もう一回」


 伸也が上目遣いに、掠れた声で強請る。


 拓海は満足そうに目を細め、短く、何度も唇を重ねた。


 今度は、羽が触れるような優しさで。


 喧嘩のあとだからこそ、


 さっきよりもずっと深く、


 そして二度と解けない強さで、


 二人の心は確かに繋がっていた。

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