第二十三章:距離ゼロの生活
七月の夕暮れ。
大学の講義棟を出た瞬間にまとわりつく湿った熱気も、キャンパスの喧騒も、今の伸也にとってはどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
これまでは、帰宅しても「影」のように自分の部屋にこもるだけだった。だが今は、玄関の扉を開ける際、無意識に心拍数が少しだけ上がるのを感じている。
「……なんでいるんだよ」
玄関を開け、リビングに入った瞬間にこぼれたのは、いつもの不機嫌を装った呟きだった。
視界に入ってきたのは、西日が差し込むリビングのソファで、当然のようにくつろぐ拓海の姿だ。
インターン帰りなのか、彼はビシッとしたスーツ姿のまま、ネクタイだけを緩めていた。第一ボタンを外し、少しだけはだけた首元が、外の「完璧な拓海先輩」ではない、この家だけの無防備な顔を晒している。
「ここ俺の実家なんだけど? 母さんが帰ってきたらどうすんだよ。また変な誤解されるだろ」
「叔母さんなら今日は町内会の集まりで、夕飯までいないの知ってるだろ。さっき連絡があったよ。それに、俺も一応、半年契約の『下宿人』だしね」
拓海は手にしたビジネス書を閉じると、ソファから身を起こした。靴を脱ぎながらぶつぶつと文句を言う伸也を見て、拓海はふっと、柔らかく目を細めて笑う。
「おかえり、伸也。今日も一日、お疲れ様」
その一言が、あまりにも自然で。
この家という風景の一部として完璧に溶け込んでいることが、伸也には少しだけ腹立たしく、そして……どうしようもなく胸の奥を温かくさせた。
「……ただいま」
消え入りそうな声で返した、その瞬間だった。
近づいてきた拓海に、手首をひょいと掴まれる。
「っ、ちょ――」
不意を突かれた伸也は、抗う間もなく腕を引かれた。バランスを崩したまま、ソファへと倒れ込む。気づけば、拓海の長い腕が伸也の肩に回され、ほぼ抱き寄せられているような至近距離にいた。
拓海の纏う、夏の夕風と洗練された香水が混ざり合った匂いが、伸也の思考を一瞬で麻痺させる。
「お前な……いくら母さんがいないからって、帰ってきて早々これかよ」
「だって、久しぶりだし」
「……半日だろ」
「長い」
即答だった。拓海の瞳には、一分の冗談も混じっていない。
伸也は呆れてため息をつくが、その腕を強引に振り払うことはしなかった。拓海の体温が、シャツ越しに伝わってくる。その熱に、自分の身体が安堵を覚えてしまっていることを、伸也は認めざるを得なかった。
「……で、今日はどうだったんだよ。大学の方は」
「普通。講義出て、食堂で飯食って、帰ってきただけ」
「誰かに絡まれなかった? 変な男とか、馴れ馴れしい女とか」
「……お前のせいな」
キャンパスでの、あの「公開接触」を思い出し、伸也は顔をしかめた。
拓海が伸也のキャンパスに現れ、衆人環視の中で親しげに肩を組んだあの日以来、伸也の周囲の空気は一変した。
「あれ、絶対わざとだろ。肩組んで、耳元で喋って。……お前のファンたちが、俺を殺しそうな目で見てくるんだぞ」
「ああ、あれ」
拓海は悪びれもせず、むしろ満足げに笑った。
「牽制」
「誰へのだよ」
「全員。伸也は俺のいとこで、俺が一番近くにいる存在だって、分からせておかないと。変な虫がついたら困るだろ?」
さらっと言い切るその重すぎる独占欲に、伸也は数秒黙った後、
「……重い。お前、本当に性格悪いな」
とだけ返した。だが、その声に拒絶の色はなかった。むしろ、それほどまでに自分が求められているという事実に、喉の奥が甘く疼く。
ふと、拓海の指が伸びてきた。
烏の羽のように真っ黒な前髪を、拓海は儀式のようにゆっくりと持ち上げる。隠されていた伸也の瞳が、拓海の視線と真っ直ぐにぶつかった。
「……目、隠すなよ。せっかく綺麗な目をしてるんだから」
「別にいいだろ。俺は影が薄いのが取り柄なんだから」
「よくない。俺だけが見てるならいいけど、俯いてるのは禁止」
即座に否定され、拓海の指先が伸也の額に触れる。ほんの軽い接触、それもいつもの子供扱いのような仕草なのに、伸也の意識はすべてそこへ持っていかれる。
拓海が自分を「見ている」。
それだけで、かつてあれほど重荷だった「藤堂」という血さえも、今はどうでもよく思えた。
「……お前さ、外ではあんなに完璧で、一族の期待の星なのに」
「うん」
「なんでこのうちだと、こんなんなんだよ。ただの我儘な下宿人じゃねえか」
「……お前がいるからだよ」
迷いのない、射抜くような言葉。
伸也は一瞬、呼吸を忘れて言葉を失った。
拓海にとって、この家は単なる下宿先ではなく、唯一「完璧」であることを強要されない、自分という人間を曝け出せる場所。そしてその中心に、伸也がいる。
沈黙。
けれど、流れる時間は驚くほど穏やかで、居心地が良かった。
西日が部屋をオレンジ色に染め上げ、影が長く伸びていく。
離れる理由など、もうどこにも見つからなかった。
「……腹減った。飯、どうすんの」
「もう作ってあるよ。今日は叔母さんもいないから、伸也の好きなものにした」
「は? お前、いつの間に」
「お前が帰ってくる時間に合わせて、煮込み始めてたんだ。ほら、いい匂いしてきただろ?」
拓海は得意げに鼻を鳴らした。確かに、キッチンの方向からは食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきている。
「……なんで居候の分際で、そんな無駄に完璧なんだよ。俺の母さん、もうお前のこと実の息子だと思ってんぞ」
「無駄じゃない。伸也の胃袋を掴むのは、俺の最優先事項だから。必要、でしょ?」
「誰にとってだよ」
「俺にとって。お前が俺の飯を食べて、幸せそうにするのを見るのがね」
即答。伸也はまた黙り込むしかなかった。
こういうところが、本当に狡い。
夕食は、拓海特製のハンバーグだった。母のいない静かな食卓。
拓海がかいがいしく伸也の皿に野菜を盛り、お茶を淹れる。その様子は、かつて伸也を支配しようとしていた光ではなく、共に生きることを選んだ温かな陽だまりのようだった。
食事のあと。
片付けを終えて二階の自室へ戻ると、背後から当然のような足音がついてくる。
「……なんで来るんだよ。お前の部屋は隣だろ」
「一緒にいるためだけど? 何か問題ある?」
「大ありだ。自分の部屋行け、レポート書かなきゃいけないんだ」
「やだ。俺もここで仕事する」
拓海は即拒否すると、伸也のベッドに当然のように腰を下ろした。そして、半分だけスペースを空け、その場所をポンポンと叩く。
「ほら、座って。隣で見ててあげるから」
「……なんで俺が、そこに行く前提なんだよ。自分の椅子があるだろ」
文句を言いながらも、伸也は結局、磁石に引き寄せられるように拓海の隣に座った。
距離、ほぼゼロ。
拓海の体温が、伸也の腕を通じてじわじわと伝わってくる。
「なあ、伸也」
「……何」
「今日も、一緒に寝る?」
「……いちいち聞くな」
「じゃあ、決定だね」
「おい!」
反論する前に、拓海の腕が伸也の肩を引いた。
そのまま軽く寄せられ、額と額がコツンと触れ合う。至近距離で見つめ合う拓海の瞳は、優しく、深い。
「逃げないくせに。本当は、こうされるの嫌いじゃないだろ」
「……逃げないんじゃなくて。……別に、拒む理由がないだけだ」
消え入るような小さな声。
それを聞いた拓海の目が、嬉しそうに、柔らかく細まる。
伸也の強がりも、不器用な受け入れ方も、拓海にとっては世界で一番愛おしい反応なのだ。
「ほんと素直じゃない。でも、耳が真っ赤だよ」
「……気のせいだ」
「嘘つき」
拓海は軽く笑いながら、さらに距離を詰めた。
キスは短く。けれど、お互いの存在を深く確かめ合うように。
特別な儀式ではなく、これから毎日続いていく「日常」の一部みたいに、自然に、何度も。
「……なあ」
「ん?」
「外でああいう……肩組んだりするの、本当にやめろよ。恥ずかしいんだよ」
「どれのこと? こうやって引き寄せるやつ?」
「……分かってるだろ」
少しだけ睨みつけると、拓海は楽しそうに、そして少しだけ独占欲を滲ませて笑った。
「やだ。絶対にやめない」
「はあ!? なんでだよ」
「だって、見せつけたいからね。お前が、俺の特別な『いとこ』だってこと。誰にも渡さないし、俺だけが触れるんだってことを」
数秒の沈黙。
拓海の真っ直ぐな言葉に、伸也は言葉を失った。
「……バカか、お前は」
そう言いながら、伸也は視線を逸らした。けれど、火照った頬と、拓海のシャツをぎゅっと掴んだ指先が、彼の本心を隠しきれずに曝け出している。
それを見た拓海が、満足そうに目を細めた。
逃がさないように、そして二度と影の中へ戻らせないように、拓海はもう一度強く腕を回し、伸也を抱きしめた。
伸也は「……離せって」と力なく呟きながらも、その温もりに身を委ね、力を抜いた。
かつて「光と影」として引き裂かれていた二人の距離は、もうどこにも残っていない。
狭い六畳間の、夏の夜の静寂。
そこにあるのは、少し重くて、独占欲に満ちていて、けれど世界中で一番心地よい――。
完全な「二人の場所」だった。




