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第二十章:【覚醒】本家の座敷での決戦

藤堂とうどう本家、大広間。


 かつて伸也にとって、ここは「呼吸を許されない閉鎖された場所」だった。


 築百年の重厚な造り、高い天井から傲慢に光を放つシャンデリア。そして、冷徹な秩序。一歩足を踏み入れるだけで、自分がこの一族にとって無価値な「影」であることを突きつけられる、そんな場所だ。


 上座には、この一族の絶対権力者である祖父が、深山の大岩のような威圧感を湛えて座している。そのすぐ隣には、勝ち誇ったような薄笑いを浮かべた本家の長男・一真かずまが、これ見よがしに胸を張っていた。


 その正面、冷たい畳の上に、拓海たくみと伸也は並んで座らされていた。


 拓海は、いつもの「一二〇パーセントの笑顔」を消し、静かに目を伏せている。下宿先である伸也の家で見せる、あのエプロン姿の柔らかな面影はどこにもない。彼は再び、一族の期待に応え続けなければならない「藤堂拓海」という重い鎧を纏わされていた。


「……拓海。インターン先でのデータ漏洩騒ぎ、一真から報告を受けている。幸い、表沙汰になる前に火消しは済んだようだが、やはりお前には管理が必要だ」


 祖父の低く掠れた声が、広間の静寂を切り裂く。


「お前は優秀だが、所詮は分家の出。若さゆえの隙がある。今日この場で、本家との縁を確固たるものにせよ。……美希との婚約を正式に進める。そのまま本家に入り、一真の補佐に回れ。それが藤堂家としての正解だ」


 隣に座る一真が、堪えきれないといった風に鼻で笑い、身を乗り出した。


「聞こえたか、拓海。お前は確かに優秀だが、不安定な存在だ。本家の長男である俺の指示に従い、その管理下に置かれることこそが、一族の利益になるんだよ。……なあ、伸也もそう思うだろ? お前も、拓海がいつまでも三男の家なんかに下宿しているのは不相応だと思わないか?」


 一真の蔑むような視線が、伸也を射抜く。


 彼らにとって、伸也の家はただの「格下の家」に過ぎない。拓海という一族の財産を預けておくにはあまりに狭く、貧相な場所――そう決めつけているのだ。


 だが、今の伸也の胸の奥には、あのアパートのキッチンで拓海が立てる包丁のリズムや、母と一緒に笑いながら食卓を囲んだ、あの温かな「日常」の記憶が、折れない盾となって宿っていた。


 伸也はゆっくりと顔を上げた。からすの羽のような黒髪の間から覗く瞳には、一真が期待していた怯えも、祖父に対する盲目的な服従もなかった。


「――お言葉ですが、一真兄さん。ご自分の足元の泥を払ってから仰ったらいかがですか?」


 静かな、しかし凛とした声が、凍りついた広間に響き渡った。


「……なんだと?」


 一真の顔から、余裕の笑みが消える。伸也は構わずに続けた。


「今回のデータ漏洩騒ぎ。アクセス履歴を偽装し、拓海を陥れようとした犯人の社員。……彼と裏で密に接触し、拓海の評価を落とすよう画策していたのは、兄さんの息がかかった関連会社の人間ですよね?」


「なっ……何をデタラメなことを! 妄想も大概にしろ!」


「デタラメではありません」


 伸也は懐から、一通の厚い封筒を取り出し、滑らせるように祖父の前へと差し出した。


「兄さんが拓海のインターン先の部長に、拓海の虚偽の悪評を流していたメールのログ。そして、工作を依頼した人物への不透明な資金の流れ。……すべて、俺が調べたこの調査報告書にまとめてあります。自分の無能さを棚に上げ、一族の誰よりも努力してきた拓海をハメようとした証拠です」


 一真の顔から、一瞬にして血の気が引いていく。


 エリート銀行員として「完璧な秩序」を説いていた男の仮面が、音を立てて崩れ始めた。


「そ、そんな捏造を……! 祖父様、騙されないでください、こいつは拓海とつるんで……!」


「捏造かどうか、今ここで祖父様に一点一点ご確認いただきましょうか?」


 伸也は追い詰めるように、一真を真っ直ぐに見据えた。


「ついでに調べておいたのですが、兄さんが私的に動かした接待費の使途不明金……それも、この裏工作の資金に流用されていますよね。一族の金を私利私欲と嫉妬のために使い込む。藤堂家の『格』を下げているのは、一体どちらでしょうか」


「な……っ! 貴様……!」


 絶句し、醜く顔を歪める一真。その様子を、祖父はこれ以上ないほど冷徹な目で見下ろしていた。


 広間を支配していた威圧感ある静寂は、今や一真を吊るし上げるための絞首台へと変わっていた。


 伸也はそこで一度言葉を切り、今度は上座の祖父に向かって、正面から言い放った。


「祖父様。拓海は、一族の体面を保つための『駒』ではありません。ましてや、本家の管理下に置かなければならない欠陥品でもない。彼は今まで、キャリアウーマンとして多忙な母親を支え、家事も学業も一人で背負い、さらにこの一族のために自分を殺してまで完璧に振る舞ってきました」


 伸也は、隣に座る拓海の気配を感じる。


 拓海は、かつて自分が「守ってやらなきゃ」と思っていたはずの不器用な伸也が、今、自分のために世界を敵に回して戦っている姿に、言葉を失って見惚れていた。


「拓海は、俺の家に下宿しています。あそこには、あいつの作った料理を心待ちにしている俺がいて、あいつを息子のように迎えている母さんがいます。……あそこは、あいつが仮面を脱いで、ただの二十二歳の青年として笑える場所なんです。本家の道具として美希ちゃんの幸せを壊すような真似、俺は絶対に許しません」


 広間が、割れるような静寂に包まれる。


 祖父の眉間の皺が深く刻まれ、誰もがその「雷」が落ちるのを待った。


 だが、長い沈黙の末、祖父の口から漏れたのは、怒声ではなく、低く、皮肉げな笑いだった。


「……フン。影だと思っていた奴が、随分と面白い牙を持っていたようだな」


 祖父は一真を一瞥し、ゴミを見るような視線を投げた後、再び伸也を見た。その瞳には、一族の規律を破られた怒りよりも、予想外の「強者」が現れたことへの冷徹な興味が宿っていた。


「一真。お前はしばらく謹慎だ。この報告書の内容が事実なら、一族としての責任を問わねばならん。……そして伸也」


「はい」


「その牙を剥いた責任、忘れるなよ。今、拓海をあの狭い家に留めておくというのなら、今後、彼が道を誤れば、その時はお前がすべてを背負うことになる。……行け。今日はもう、その黒い髪を見ているだけで胸が焼ける」


 それは、実質的な「解放」の宣言だった。


「……失礼します」


 伸也は深く一礼し、拓海の腕を引いて立ち上がった。


 一真の呪詛のような視線を背中に受けながら、二人は重厚な広間の扉を押し開けた。


 本家の高い門を潜り抜け、駅へと続く夜道を歩き始めたとき、拓海がふと足を止めた。


 街灯のオレンジ色の光に照らされた彼は、いつもの「一二〇パーセントの笑顔」ではなく、どこか泣き出しそうで、けれどこの上なく誇らしげな、剥き出しの素顔で伸也を見つめた。


「すごかったね、俺の軍師様。……本当にかっこよかったよ。俺、伸也の隣にいていいのかなって思っちゃった」


「……バカか。お前が俺の家に下宿し始めたときから、もう決まってんだろ」


 伸也は照れ隠しに前髪をかき上げた。烏の羽のような黒髪の間から覗く彼の瞳は、かつてないほど強く、優しく輝いていた。


「帰るぞ。母さんが、お前の好きな銘柄のビールを買って待ってるって。……それと、明日の朝飯は俺が作る。目玉焼きくらいなら、失敗せずに焼けるようになったから」


「ふふ、楽しみだな。……でも、殻が入ってても文句言わないよ?」


 拓海は満足げに笑い、伸也の肩を引き寄せた。


 二人の影が、夏の夜の街路に長く伸びていく。


 


 本家のシャンデリアの光でも、一族の冷たい期待でもない。


 狭いキッチンの匂いと、自分を待ってくれている家族がいる、あの「普通の家」へと。


 


 完璧な太陽と、それを支える賢明な影。


 二人は今、どちらが上でも下でもなく、等しい重さで互いの人生を支え合うパートナーとして、夜の街へと踏み出した。


「おかえりって、言わせてやるよ」


「うん。ただいまって、言わせてね」


 夏の風が、二人の背中を優しく押し、帰るべき場所へと導いていった。


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