第十九章:嵐の前の、甘い作戦会議
本家へ向かう前夜。
窓の外では、七月の蒸し暑い夜気を孕んだ湿った風が、時折カーテンを揺らしている。
明日には、あの重苦しい藤堂本家へと足を踏み入れ、一族の絶対権力者である祖父、そして卑劣な罠を仕掛けた一真と対峙しなければならない。
伸也の部屋は、今や二人にとっての「司令部」であり、同時に唯一の「聖域」でもあった。
「……さて、最後の作戦会議を始めるぞ。いいか、拓海。向こうが何を言及してきても、まずは冷静に――」
伸也は、あらかじめ用意しておいたメモ帳を広げ、真面目な顔で切り出した。
……というのは、あくまで表向きの名目だ。
実際には、作戦会議は一向に進む気配を見せていなかった。なぜなら、肝心の「主役」である拓海が、伸也を背後から抱き枕のようにして固く抱きしめ、首筋に何度も鼻先を寄せてはその匂いを嗅ぐという暴挙を繰り返しているからだ。
「……っ、やめろって! 話を聞けよ。明日の対策を練るんだろ」
伸也は、首筋にくすぐったい熱を感じて身をよじる。
だが、拓海の長い腕は、逃がさないという確かな意志を持って伸也の細い腰をしっかりとホールドしていた。
いつもの完璧な一二〇パーセントの笑顔とは違う、少しだけ甘えたような、それでいてどこか切実な体温が背中越しに伝わってくる。
「いいよ、対策なんて。あいつらが何を言ってきても、俺の答えはもう決まってるし」
拓海の声は低く、心地よく耳元で響いた。
「俺は伸也を離さない。それだけ。理屈なんて、あの堅物な大人たちには通用しないよ。だったら、俺は俺の意志を突き通すだけだから」
拓海は、伸也の耳たぶを甘く噛み、そのまま吐息を吹きかけるように囁いた。
「ねえ、いっそのこと、明日お祖父様たちの前で、俺たちのこと全部バラしちゃおうか? 伸也が実はこんなに可愛い声で鳴くこととか、俺がいないと眠れないくらい依存してるとかさ。……顔を真っ赤にして俺に縋り付いてるところ、一真兄さんたちに見せてやりたい」
「バカか! 絶縁されるだろ!」
伸也は顔を火が出るほど真っ赤にして、即座に怒鳴り散らした。
「そんなことしたら、お前の今までの努力も、お母さんの立場も全部台無しになるんだぞ。冗談でも言うな!」
「絶縁か……。ふふ、それもいいかもね」
拓海は、伸也の怒りを楽しむように、さらに腕に力を込めた。
「二人で遠い街へ駆け落ちして、誰も俺たちのことを知らない場所で、小さな部屋を借りてさ。俺は毎日、伸也のためにご飯を作って、洗濯して、夜はこうしてずっと抱きしめて……。一族の期待なんて重荷を全部捨てて、ただの『拓海』としてお前と生きていく。……最高の贅沢だと思わない?」
拓海の指が、伸也のTシャツの裾から滑り込み、熱い手のひらが直接、伸也の柔らかな肌に触れた。
その指先が、わざとらしく伸也の腰のくびれをなぞり、ゆっくりと背骨を這い上がっていく。その愛撫の一つ一つに、伸也の思考はバラバラに解けていき、先ほどまで握りしめていたペンが指先から滑り落ちた。
「……お前……本当に、余裕すぎんだろ……。明日が、俺たちの人生の正念場なんだぞ……」
伸也は荒くなる呼吸を必死に整えながら、恨めしげに拓海を睨んだ。
だが、拓海は微笑んだまま、静かに首を振った。
「余裕なわけないじゃん。……ほら、見て」
拓海は、伸也の右手を取り、それを自分の左胸――薄いシャツ越しの、心臓の真上へと導いた。
ドクドク、ドクドク。
手のひらを通じて伝わってきたのは、驚くほど速く、そして身体を揺さぶるほどに力強い鼓動だった。
外ではあんなに冷静で、完璧な立ち居振る舞いを見せる拓海の心臓が、今、伸也の手の下で激しく警鐘を鳴らしている。
「……拓海」
「俺だって怖いよ。お前から引き離されるのが、一番怖い。本家のあの冷たい床の上で、また一人で戦わなきゃいけないのかと思うと、足が震えるくらいにはね」
拓海は、伸也の手に自分の手を重ね、その鼓動を共有するように強く押し付けた。
「伸也がいない人生なんて、もう考えられない。お前がこの半年で、俺の『完璧』だった世界を全部めちゃくちゃにしてくれたから。……だから明日、一緒に戦って。俺を一人にしないで。俺の……俺だけの軍師様」
その瞳には、一族の誰もが見たことのない、剥き出しの孤独と期待が混ざり合っていた。
伸也は、その瞳を見て、すとんと胸に落ちるものがあった。
(ああ、こいつを救えるのは、本当に俺しかいないんだ)
拓海は「太陽」などではない。
誰かを照らし続けるために、自分を燃やし尽くしそうになっている、孤独な熱源なのだ。
それを守り、適切に導き、暴走しないように包み込むのは、影の中にいた自分にしかできない。
「……ああ、わかったよ。安心しろ」
伸也は、拓海の首にゆっくりと手を回した。
いつもは拓海にリードされるままの唇を、自分から彼へと押し当てる。
深く、深く。
互いの不安と決意を交換するように、唾液が混じり合い、二人の境界線が熱の中に溶けていく。
「一真も、お祖父様も、俺が全部論破してやる。お前はただ、俺のそばで笑ってろ」
伸也はキスを解くと、拓海の額に自分の額をコツンと当て、不敵に笑った。
「俺が、お前をあの檻から……藤堂家っていう、寒くて暗い檻から救い出してやる。半年分の恩返しだ、覚悟しとけ」
「ふふ、頼もしいね。……じゃあ、明日の朝食は勝負飯だね。何がいい?」
「……カツ丼。いや、重すぎるか。……ハンバーグでいい。お前の作ったやつ」
「了解。チーズイン、特盛りだね」
拓海は、いつもの、けれど今度は本物の幸せそうな笑顔を見せ、伸也をベッドの上へと優しく押し倒した。
窓の外の夜風が、二人の熱を冷ますように吹き抜ける。
明日という決戦を前にして、二人はただ互いの鼓動と体温を確かめ合い、深い眠りへと落ちていった。




