第十八章:一通の「果たし状」
七月。
インターン先での騒動を二人で乗り越え、拓海がようやく自分自身の「脆さ」を伸也に見せられるようになってから、数日が経過した。
二人の生活は、それまで拓海が一方的に整えるものだったが、最近では伸也が皿洗いを手伝ったり、拓海の好むハーブティーを不器用ながらに淹れたりと、静かな「歩み寄り」が始まっていた。拓海が纏う完璧な仮面は、この狭いアパートのリビングでだけは、ふわりと外されていることが多くなっていた。
だが、そんな穏やかな午後の空気を凍らせるものが、リビングのテーブルに置かれていた。
場違いなほど真っ白で、指先に刺さるほど厚手の封筒だ。
そこにあるだけで、部屋の湿度が数度下がるような、奇妙な圧迫感を放っている。宛名は、墨の香りが漂ってきそうなほどの、揺るぎない達筆で記された『井上拓海 殿』の文字。
差出人の名は記されていない。しかし、その独特の書体、そして一分の隙もない銀色の封蝋を見れば、それが誰からのものかを知るのに時間は必要なかった。
本家の主であり、一族の絶対権力者であるあの厳格な祖父からの「呼び出し状」であることは明白だった。
「……またこれか。いい加減、この時代にアナログな呼び出しはやめてほしいんだけどな。既読スルーもできないし」
シャワーを浴びて髪を濡らしたままの拓海が、困ったような、けれどどこか乾いた苦笑を浮かべながら封筒を手に取った。
拓海が細い指先で慎重に封を切り、中身の便箋に目を通す。その瞬間、彼の穏やかだった端正な横顔が、一瞬だけ痛みに耐えるように険しく歪んだ。
「……なんて書いてあるんだよ。一真の件、根に持ってるのか?」
伸也が不安に駆られ、拓海の隣に座ってその内容を覗き込む。
そこには、一族の秩序を何よりも重んじる祖父らしい、冷徹な命令が記されていた。
『今後の身の振り方、及び本家との縁について。伸也を伴い、週末に本家へ出頭せよ』
「『出頭』って……。俺たちは何か悪いことでもしたのかよ。お前がインターンで嵌められたとき、あいつらは知らん顔してた癖に」
伸也が吐き捨てるように言うと、拓海はふっと力なく笑い、持っていた便箋をテーブルに置いた。そして、無防備な仕草で伸也の肩に頭を預け、その腰をぐいと自分の方へ引き寄せた。
拓海の髪から、微かにシャンプーの香りと、まだ残っている湿り気が伝わってくる。その重みは、彼が普段、外の世界で背負っている期待や役割の重さそのもののように感じられた。
「……絶対、一真兄さんがチクったんだと思う。俺の潔白が証明されて、自分の立場が危うくなったのが面白くなかったんだろうね。あの人にとって、俺は『扱いやすい、優秀な弟分』でなきゃいけなかったんだ」
拓海は、伸也のTシャツの裾を少しだけ強く握りしめ、掠れた声で続けた。
「一真兄さんが、おじい様に相当余計なことを言ったらしいんだ。『拓海は野心が強すぎて、いつか一族を脅かす』とか……『伸也を甘やかして、藤堂家の格を下げている』とかね。
……たぶん、今回の呼び出しは、俺を本家の厳重な管理下に引き戻すためのものだ。美希ちゃんとの婚約の話も、一気に進めるつもりだろうね」
婚約。美希。
その言葉を聞いた瞬間、伸也の胸の奥が、氷を飲み込んだように冷たくなった。
拓海が「完璧なお兄さん」を演じ続けなければならない場所。自分を殺して、誰かの理想のために笑い続けなければならない場所。美希の純粋すぎる好意さえも、拓海を繋ぎ止めるための「鎖」として利用される、あの息苦しい本家の広間。
「……行かせねえよ」
低い、けれどはっきりとした拒絶の言葉が、伸也の口から漏れた。
「伸也?」
驚いたように顔を上げた拓海の瞳に、伸也はまっすぐ視線をぶつけた。
伸也は、拓海のシャツの胸元をぎゅっと掴み返し、自分よりも背の高い彼を、逃がさないという意志を込めて見上げる。
「あんな息苦しい場所に、お前を一人で返したりしない。お前が今まで、母親を助けるために、俺を助けるために、どれだけ自分の気持ちを押し殺して頑張ってきたか……あいつらは、一ミリも分かってないだろ」
伸也の脳裏には、この数ヶ月の記憶が鮮明に焼き付いている。
朝早く起きて自分の健康を気遣い、不器用な自分を「それでいいんだ」と笑って受け入れてくれた拓海。バッテリーが切れてソファで丸まっていた、あの愛おしいほど無防備な拓海。
その「本当の拓海」を知っているのは、世界中で自分一人だけだという、静かな、けれど絶対的な自負があった。
「一真兄さんも、おじい様も……誰も、お前の本当の顔を見てない。お前のことを本当に必要としてるのは、あんな立派な屋敷じゃない。……ここだろ。お前の『特別』は、俺だろ」
伸也の声は少しだけ震えていたが、その瞳には迷いがなかった。
かつて拓海が「嘘の救済」で自分を繋ぎ止めたと思っていた関係は、いつの間にか、伸也が拓海という人間を「一人の男」として丸ごと守りたいと願う、真実の絆へと変わっていた。
「だから、一緒に行こう。本家へ。俺もついて行く」
伸也は、拓海の胸元を掴んでいた手を緩め、その頬にそっと手を添えた。
「そこで、はっきり言ってやる。拓海はあんたたちの道具じゃないって」
拓海は、息を呑んで伸也を見つめていた。
いつも自分の後ろを、黒い前髪を垂らして歩いていたはずのいとこ。
「不器用だから守ってあげなきゃ」と思っていたはずの伸也が、今、自分という人間を真っ向から肯定し、暗闇から引き摺り出そうとしている。
「……強いな、伸也は。俺が思っていたよりも、ずっと」
拓海は、いつもの作り物の笑顔ではない、心からの、少しだけ情けないほどに幸せそうな微笑みを浮かべた。
彼は伸也の手を、自分の手で上から包み込み、ゆっくりと指を絡めた。
「わかった。一緒に行こう。……お前が隣にいてくれるなら、俺、もう何も怖くないや。本家のシャンデリアの光より、今の伸也の目の方が、ずっと眩しいからね」
窓の外では、夏の夜の気配が濃くなり、蝉の声が遠くで静かに響いていた。
テーブルの上の白い封筒は、もう以前のような威圧感を放ってはいなかった。それはただの、二人が新しい一歩を踏み出すための、きっかけに過ぎないように見えた。




