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第二十一章:呪縛から解き放たれた先で

 本家ほんけという名の巨大な呪縛。代々積み上げられてきた格式と、一族の駒として人間を扱う冷徹な秩序。それらを、伸也しんやの放った渾身の言葉と、拓海たくみが秘めてきた真実の意志で撥ね除けた二人は、深夜の高速道路を静かに走っていた。


 フロントガラスの向こう、都会の夜景が光の帯となって後方へと流れていく。


 つい数時間前まで、あのシャンデリアの黄色い光の下で、一族の期待と憎悪に晒されていたことが、まるで遠い異国の出来事のように現実味を欠いていた。車内を満たしているのは、エアコンの微かな作動音と、二人の静かな呼吸だけだ。


「伸也。……お前、本当にかっこよすぎ。惚れ直したなんてレベルじゃないよ、正直」


 ハンドルを握る拓海が、ふっと前を向いたまま声を漏らした。その表情には、外の世界で見せるあの「一二〇パーセントの完璧な笑顔」の影はない。そこにあるのは、憑き物が落ちたような、一人の二十二歳の青年としての、穏やかで心からの安堵だった。


 拓海は左手を伸ばし、助手席で所在なげに膝を握っていた伸也の手を、包み込むようにぎゅっと握りしめた。


「……うるさい。必死だったんだよ。お前が、あのまま本家に取り込まれて、二度と俺の家に帰ってこないんじゃないかと思ったら……頭が真っ白になって」


 伸也は真っ赤になってそっぽを向き、流れるヘッドライトの光を見つめた。


 あの時、大広間で一真かずまを論破し、祖父の目を真っ直ぐに見据えることができたのは、正義感からではない。


 ただ、自分の隣に拓海がいるこの「日常」を、誰にも奪わせたくなかった。拓海が台所に立ち、母と笑い、自分の世話を焼いてくれる、あの平凡で温かな「下宿生活」を守りたかった。その一心だった。


 深夜二時。


 静まり返った住宅街に、車のエンジン音が微かに響く。伸也の家の前に車を停めると、二人は申し訳程度の音を立ててドアを閉めた。


 玄関の鍵を開け、真っ暗な家の中へと足を踏み入れる。廊下の向こう、一階の奥には伸也の母が眠っているはずだ。彼女は今日、二人が本家でどんな戦いを繰り広げてきたのかも知らず、ただ「拓海くんと伸也が仲良く帰ってくること」だけを信じて眠っている。


 拓海は靴を脱ぐと、慣れた手つきで伸也の背中に手を添えた。半年という時間は、拓海をこの家の住人として完全に馴染ませていた。


 二人は音を忍ばせて階段を上がり、二階にある伸也の部屋へと滑り込んだ。


 扉が閉まり、小さなラッチの音が響いた瞬間、そこは家族の声も、一族の重圧も届かない、二人だけの「聖域」に変わった。


 部屋の明かりを点ける間もなかった。


 拓海は伸也を背後のベッドへと押し倒した。暗闇の中、遮光カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、拓海の瞳を濡れたように照らし出す。


 いつもは拓海の用意周到なペースに、戸惑いながらも身を任せる側の伸也だったが、今夜は違った。拓海の唇が重なる直前、伸也は自分から腕を伸ばし、拓海の首筋を強く、引き寄せた。


 離さない。逃がさない。


 その意志が、爪が食い込むほどの指先の力から伝わる。


「……自分からくるとか、反則」


 低く掠れた声が、至近距離で伸也の鼓膜を震わせる。


 そのまま、どちらからともなく、もう一度。


 今度はゆっくりと、互いの存在を確認し合うように、深く、重なり合う。


 唇が触れ合い、熱い呼吸が絡む。拓海の舌先が、伸也の唇を割って優しく、けれど貪るように侵入してくる。


 伸也は一瞬、あまりの熱量に身体を強張らせたが、すぐに背中に回された拓海の腕の強さに、逃げ場を失った。いや、自分からその逃げ場を捨てたのだ。拓海の体温が、シャツ越しに自分の胸へと溶け出してくる。


「……ん、っ……」


 わずかに濡れた声。それに呼応するように、拓海の指先が伸也のTシャツの裾から滑り込み、薄い脇腹をなぞった。


 その感触が、脳の芯を痺れさせるような快楽となって全身を駆け巡る。拓海の手は、これまで何度も伸也のために食事を作り、洗濯物を畳んできた、あの「日常の優しさ」を湛えた手だ。だからこそ、その手が今、自分を求める熱を帯びていることが、伸也にはたまらなく愛おしく、そして誇らしかった。


「そんな顔、外で見せるなよ。……俺だけの伸也なんだから」


 耳元で囁かれ、伸也の背筋にぞくりと震えが走った。


 拓海の唇が、今度は首筋へと落ちる。吸い付くような、けれど慈しむような、熱い。軽く触れるだけのはずなのに、そこから火がつくように全身が火照っていく。


「お前さ……本当に、無防備。俺がいないと、やっぱり駄目なんじゃないの?」


「…………うるさい。……お前の方こそ、俺がいないと……あの家で、一生笑えないままでいたくせに」


 言い返す余地もなく、伸也は拓海のシャツの胸元を、骨が白く浮き出るほど強く掴んだ。


 これ以上、離れるな。もっと、お前を感じさせてくれ。


 言葉にできない想いが、その握りしめた指先に凝縮されていた。


 拓海は一度唇を離すと、額を伸也の額に合わせたまま、暗闇の中で瞳を覗き込んできた。


 そこには、いつもの完璧な兄の仮面など微塵も残っていない。ただ、伸也という居場所を渇望する、一人の男の剥き出しの心が揺れていた。


「ほら、やっぱり。……俺たち、お互い様だね」


 拓海は逃がさないように、伸也の両手をベッドに固定し、熱い吐息をかけながら囁く。


「全部、俺のにしていい? 本家のことも、期待も、全部忘れて。伸也の全部を俺に頂戴。その代わり、俺の全部もお前にあげるから」


 応えを待たずに、また唇が重なる。


 さっきよりも、ずっと深く、長く。


 伸也の指先が拓海の髪を掻き乱し、無意識のうちに彼を自分の方へと引き寄せ、抱きしめる。


 ――もう、拒む気なんてない。


 この男が伸也の家に下宿し始めたあの日、差し出された「救済」のような優しさは、いつの間にか、二人にとって唯一の「真実の絆」になっていたのだから。


 拓海の温もり、拓海の匂い、拓海が自分に向ける、過剰なまでの、けれど純粋な独占欲。そのすべてが、今の伸也には愛おしくてたまらなかった。


「…………責任、取れよ。……ずっとだ。ずっと、俺のそばにいろ」

 

 息の混じった、切実な声で伸也がそう言うと、拓海はほんの一瞬だけ、驚いたように目を丸くした。

 

 そして次の瞬間、今までに見たこともないほど、子供のように、あるいはすべてを手に入れた者のように、幸せそうな顔をした。

 拓海は、今までで一番優しく、そして骨がきしむほど一番強く、伸也を抱きしめた。


 「当たり前だろ」

 耳元で、低く、甘く。

 そして、魂に刻み付けるような重みを持って、拓海が誓う。


 「一生、離さない。……お前が俺を救い出してくれたんだから、責任は一生かけて、俺が取るよ。……愛してる、伸也」


 窓の外では、夏の夜を告げる蝉の声が、遠くで静かに響き始めていた。


 実家の二階、見慣れた六畳の部屋。そこにはもう、本家の呪縛も、偽りの仮面も存在しなかった。

 あるのはただ、互いを唯一の光として選び取り、支え合うことを決めた、二人の若者の、熱く静かな鼓動だけだった。


 拓海の長い指が、伸也の黒い髪を優しく梳く。

 いつか必ず訪れる「終わりの日」など、最初から存在しないかのように。二人はただ、互いの体温だけを唯一の真実だと思い込もうとしていた。


 突きつけられていたはずのタイムリミットから意識を遠ざけ、このまま世界が止まってしまえばいいと、祈るような沈黙が部屋を満たす。たとえそれが、ひと時の逃避に過ぎないのだとしても。


「明日からは、俺が教えるから。……もっと素直になる方法」

「……余計なお世話だ、バカ」


 伸也はそう毒づきながらも、**脳裏をかすめる「その時」の予感を無理やり振り払い、**自分から拓海の胸に深く顔を埋めた。


 夏の風がカーテンを微かに揺らし、二人の夜を祝福するように、静かに吹き抜けていった。

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