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第十五章:歩くパワースポット、ついに停電

七月。


 梅雨明けを間近に控えた湿った熱気が、街の隅々にまでまとわりつく季節。


 伸也しんや拓海たくみの奇妙な同居生活も、期限である半年まで残り一ヶ月を切っていた。


 この数ヶ月で、伸也の生活は劇的に塗り替えられた。不規則だった睡眠時間は拓海の徹底した管理下で矯正され、コンビニ飯ばかりだった胃袋は、彼が作る栄養満点の「おふくろ(あるいはプロ)の味」によって完全に手懐けられている。


 今や、キッチンから聞こえる包丁のリズムや、拓海が漂わせる清潔な香水の匂いは、伸也にとって「侵食」というより「日常」そのものになっていた。


 そんなある日の夜。


 大学のレポートを片付け、リビングで久々にマリオカートのタイムアタックに没頭していた伸也の耳に、重々しい音が届いた。


 バタン……。


 玄関のドアが、いつもの軽やかさを失った、何とも言いようのない「重み」を伴って開いたのだ。


「……ただいま」


 そこに立っていたのは、伸也が知る限りのどんな時も欠かさなかった「一二〇パーセントの爽やかスマイル」を完全に喪失し、まるで豪雨の中を何キロも彷徨ってきた捨て犬のように、力なく肩を落とした拓海だった。


 歩くパワースポットとまで称されたあの眩いオーラは消え失せ、街灯の影に溶けてしまいそうなほど、彼の存在感は希薄になっていた。


「……おい、どうしたんだよ。顔色、ヤバいぞ。幽霊にでも取り憑かれたのか?」


 伸也が思わずコントローラーを置いて尋ねると、拓海は返事をする気力もないのか、ふらふらとした足取りでリビングに入ってきた。そして、着ていたジャケットを脱ぎ捨てる余裕もなく、ソファにそのままうつ伏せに倒れ込んだ。


「……終わった。伸也、俺のインターン、もう終わったかも……」


 ソファのクッションに顔を埋めたまま、拓海がくぐもった声で呟く。その声には、いつもの自信に満ちた響きは一辺倒もなく、泥濘ぬかるみの底から響くような絶望が混じっていた。


 伸也は、初めて見る拓海の「完全な敗北」の姿に、背筋が冷たくなるのを感じた。


 あの、本家の長男である一真かずまを言葉一つで退け、一族の大人たちを掌の上で転がしていた完璧超人が、今、目の前でボロ雑巾のように打ちひしがれている。


「何があったんだよ。お前なら、どんなトラブルも『笑顔で解決』だろ?」


 伸也が努めて冷静に問いかけると、拓海は顔を上げないまま、ぽつりぽつりと事の経緯を話し始めた。


 聞けば、拓海がインターンをしている大手コンサル会社で、現在進行中だった大規模プロジェクトのコンペ用重要データが、外部に漏洩したのだという。流出したのは、企業の根幹に関わる極秘のシミュレーションデータ。


 そして、社内のアクセス履歴やログイン状況といったあらゆる「状況証拠」が、よりにもよって拓海を第一容疑者として指し示しているのだという。


「……俺のIDで、深夜にアクセスしたことになってるんだ。でも、俺はその時間、ずっとインターン先の別のデスクで作業してた。……だけど、防犯カメラの死角になる場所だったから、証明できない」


 拓海は、疲労困憊の頭を絞り出すようにして、自分なりに状況を整理していた。


 彼はインターン生という身分ながら、その優秀さゆえに重要な業務の一部を任されていた。だが、流出したデータの内容を精査したところ、ある「不自然な痕跡」を見つけたのだという。


「流出したデータには、インターン生の俺にはそもそもアクセス権限がないはずの、『最終更新日時』や特定の社内コードの痕跡が残っていたんだ。……これは、俺を陥れようとした奴が、俺の権限の外側からデータを持ち出して、後から俺のIDを被せたってこと。……高度な偽装だよ」


 拓海はそこで一度言葉を切り、深く、重い吐息を漏らした。


「さらにね……その最終更新日時をフェイクで書き換える手口、以前、一真兄さんが別のプロジェクトで使っていたパターンと完全に一致してたんだ。……あの人、銀行員なのに、なんでコンサルのシステムまで……いや、藤堂家のコネを使えば、協力者を見つけるなんて簡単か」


 六月のあの雨の日。


 拓海が一真のミスを暴き、完膚なきまでに恥をかかせた一件。あの時の、一真の屈辱に染まった顔が伸也の脳裏をよぎる。エリートのプライドをずたずたにされた一真が、拓海の将来を潰すために、裏から手を回したのではないか――。


「たかがインターン生の俺に、会社の存亡を左右するような重大な責任を負わせるなんて、冷静に考えればおかしいんだ。でも……」


 拓海はそこで、声を詰まらせた。


「……もう、疲れたよ。連日の激務で、頭が全然回らないんだ。証拠を提示して戦うための、ロジックを組み立てる気力が……もう、一ミリも残ってない」


 拓海は、シングルマザーの母親を守るために、幼い頃から「完璧な息子」であり続け、家事も学業も人間関係も、すべてを一人で背負ってきた。その緊張の糸が、一真という卑劣な外圧によって、ついに限界を超えてショートしてしまったのだ。


「……もう、いいや。明日、辞退届を出してくる。……俺、向いてなかったんだよ、きっと」


 その弱々しい言葉を聞いた瞬間、伸也の中で、今まで抑えていた感情が爆発した。


「はあ!? ふざけんなよ! お前、それでいいのかよ!」


 伸也はソファに歩み寄り、いじける拓海の肩を掴んで無理やり引き起こした。


「完璧超人のプライドはどうしたんだよ! いつも俺のことを『不器用だ』『俺がいないと何もできない』って、散々バカにして、俺の生活を自分勝手に作り変えといて……自分がやられたら、あっさり逃げるのか!?」


「だって……証明する手段なんて、今の俺には思いつかないし……。伸也、もう俺のことなんて放っておいてよ……。一人になりたいんだ……」


 あろうことか、拓海はソファのクッションをぎゅっと抱きしめ、子供のように顔を隠してガチでいじけ始めてしまった。


 あのスマートで、隙のない拓海の面影はどこにもない。そこにあるのは、ただの疲れ果てた、二十二歳の青年だった。


 伸也は天を仰ぎ、頭を抱えた。


 自分を支配し、翻弄し続けてきた「太陽」のような男が、こんなにも脆く、幼い一面を隠し持っていたなんて。


(……駄目だこいつは。完全にバッテリーが切れてやがる)


 伸也の知っている、憎たらしいほど有能で、他人の秘密を握って微笑むような図太い従兄は、今この瞬間、完全にログアウトしていた。


 だが、その代わりに現れた「弱点だらけの拓海」を見て、伸也の胸の奥には、今まで感じたことのない奇妙な義務感が芽生え始めていた。


 散々、こいつに世話を焼かれてきた。


 自分の生活を、食事を、そして孤独だった心まで、こいつの「余計なお世話」によって救われてきたことは、認めざるを得ない事実だ。


「おい……聞こえてるか、拓海。……お前は座ってろ。一真の野郎がやったっていう証拠、俺が一緒に探してやる」


 伸也の声は、少しだけ震えていた。だが、その瞳には、拓海に依存しきっていた時とは違う、確かな意志の光が宿っていた。


「……伸也?」


 クッションから少しだけ顔を出した拓海が、信じられないものを見るような目で伸也を見上げた。


 その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるようにも見え、伸也は「キモいからこっち見るな!」と叫びたい衝動を必死に抑え込んだ。


「いいから、寝てろ。明日の朝飯は俺がコンビニで買ってくる。……戦うのは、それからだ」


 攻略されていたはずの伸也が、初めて拓海の「前」に立った夜。


 外では夏の嵐を予感させる風が吹き荒れていたが、リビングの空気だけは、静かに、そして力強く、これまでとは違う温度へと変わり始めていた。


 伸也はため息をつきながら、ソファで丸くなる拓海の上に、以前彼が自分にかけてくれたブランケットを、そっと投げ出した。


 バッテリー切れの完璧超人。


 そんな彼の無防備な背中を見つめながら、伸也は自分の「本当の半年間」が、ここから始まるような気がしていた。

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