第十四章:エリート襲来と裏ボス
六月。
梅雨入りを目前に控えた空は、低く垂れ込めた灰色の雲に覆われ、街全体が湿った重たい空気に包まれていた。窓の外では、時折、思い出したように細かい雨がアスファルトを叩き、不快な湿度を部屋の中へと押し込んでくる。
そんなじめじめとした土曜日の昼下がり、伸也たちの住む古びたアパートの前に、その場の空気を切り裂くような、場違いにピカピカに磨き上げられた黒い高級車が停まった。
「……また、嵐の予感だ」
窓からその光景を見下ろした伸也は、小さくため息をついた。
その車から降りてきたのは、案の定、本家の長男であり、一族期待の星である藤堂一真だった。
仕立ての良さが一目でわかる濃紺のスーツを完璧に着こなし、曇り空の下でも乱れない髪型を維持したまま、彼は重厚な足取りで階段を上がってきた。
「よう、伸也。久しぶりだな。変わりはないか?」
玄関を開けるなり、一真は親戚の長兄としての「正解」の表情を浮かべて入ってきた。エリート銀行員としてキャリアの階段を突き進む彼は、どうやら「近くまで営業に来たついで」という名目で、伸也と拓海の同居生活を視察しに来たらしい。
だが、伸也の目には、彼が単に「完璧超人である拓海が、落ちこぼれの伸也をどう飼い慣らしているか」を冷やかしに来たようにしか見えなかった。
正月の一件以来、本家の人々は何かと理由をつけてはこの家を覗き込もうとする。彼らは思っているよりもずっと暇なのか、あるいは拓海という存在がそれほどまでに気になるのか。
リビングに通されると、一真は狭いソファに窮屈そうに、しかし偉そうにふんぞり返った。
そこへ、キッチンから麦茶の入ったグラスを盆に乗せて、拓海がやってきた。
「一真兄さん、いらっしゃい。雨の中、わざわざありがとうございます」
拓海は、いつものように「一二〇パーセントの爽やかスマイル」を浮かべていた。その腰には、すっかり馴染んだ様子でエプロンが巻かれている。
一真は運ばれてきた麦茶を一瞥すると、鼻で笑い、挑発的な視線を拓海に投げた。
「拓海、お前……まだそんな、家事手伝いみたいな真似事を続けているのか。叔父上たちも嘆いていたぞ。せっかく名門企業でのインターンも順調だと聞いているのに、志が低すぎるんじゃないか? 学生のうちに身につけるべきは料理の手際ではなく、一族を背負うための『格』だろう。少しは俺を見習って、もっと上を目指したらどうだ」
マウントを取る。それこそが本家の人間が、分家や「格下」と見なした相手に対して行うコミュニケーションの基本だった。
一真は、自分が拓海よりも「社会的価値が高い」ことを証明しようと、言葉の端々にエリート特有の選民意識を滲ませる。
伸也は、あまりの面倒くささに意識を遠のかせ、麦茶のグラスに付いた水滴をじっと見つめた。
いつものように、ここで自分が「すみません、僕が不甲斐ないばかりに……」とでも言えば、この場は丸く収まるはずだ。そうして、自分がまた一歩「影」へと退けばいい。
伸也が重い口を開こうとした、その時だった。
「一真兄さん、貴重なアドバイスをありがとうございます。本当に、兄さんのような高い志にはいつも頭が下がります」
拓海は、怒るどころか、むしろ感銘を受けたような表情で一真の正面に腰を下ろした。
その笑顔には一点の曇りもなく、純粋な尊敬の念すら感じさせる。だが、その瞳だけが、室内の湿度をさらに下げるような、静かで透明な冷たさを湛えていた。
「そういえば、兄さんの勤務先でも大きなプロジェクトが動いているそうですね。先週の、七星銀行さんとのメインバンク争奪コンペ……大変だったみたいですね。俺のインターン先の部長がその件に詳しくて、つい耳に入ってきたんですよ」
ピタッ。
一真の、勝ち誇っていた顔が凍りついた。
「……何を、言っている」
「いえ、兄さんのチームが素晴らしい提案をしたのに、最終段階の書類で、基本中の基本である数字の確認ミスがあったとか。おかげで相手側に付け入る隙を与えて、土壇場でひっくり返された……なんて、まさかそんなことありませんよね? 兄さんに限って」
一真の顔から、サァッと血の気が引いていくのがわかった。
エリートのプライドを支えるのは、完璧な実績だ。その実績に泥がついた事実を、よりにもよって自分が「格下」と見下していた学生の拓海に指摘される。それは、公衆の面前で服を剥ぎ取られるよりも屈辱的なことだったに違いない。
「ま、まあ、人間誰しもミスはありますからね。気になさらないでください。俺はこれからも、陰ながら一真兄さんのご活躍を心から応援していますよ。あ、お茶のおかわり、いかがですか? 胃に優しいハーブティーも淹れられますけど」
拓海は、聖母のような慈しみすら感じさせる笑顔で、一真に手を差し伸べた。
だが、その言葉の裏には、はっきりとしたメッセージが込められていた。
『俺のテリトリー――この伸也との静かな生活を、くだらないプライドで荒らすなら、俺はあんたの致命傷になる情報をいつでも引き出せるんだぞ』
という、静かな、けれど逃げ場のない圧。
「……い、いや、俺はそろそろ帰る! 急な至急案件が入っていたのを忘れていた。仕事が残っているからな!」
一真は逃げるように立ち上がった。先ほどまでの威厳はどこへやら、高級スーツの背中を丸め、高級車を急発進させて去っていった。
エンジンの音が遠ざかり、再びリビングに静寂が戻る。
伸也は呆然として、鼻歌混じりに空いたグラスを片付け始めた拓海の背中を見つめた。
「お前……なんでそんな、エリート銀行員の社内事情なんて知ってんだよ? 怖すぎるだろ」
「ん? 言ったでしょ、インターン先の部長だよ。お酒の席でちょっとね。情報収集は基本だよ、伸也。相手が何を大事にしていて、何を怖がっているかを知っておけば、無駄な争いを避けて優しくなれるでしょ?」
拓海は悪びれもせず、流し台でグラスを洗いながら、さらりと答えた。
彼はシングルマザーとして戦ってきた母親を間近で見てきた。だからこそ、自分の立ち位置を守るために「情報」がいかに強力な武器になるかを熟知している。
彼は、伸也を守るため、あるいは自分たちの生活を守るために、その知略を惜しみなく注ぎ込んでいるのだ。
(……この男を敵に回すのだけはやめよう。絶対に)
伸也は、心の中で深く、自分自身に誓った。
拓海という男は、歩くパワースポットにして、一族の秘密を握りつぶす裏ボスの器を持っている。そして、その巨大な才能は今、伸也という「自分なしでは何もできない(と思わされている)いとこ」をケアするためだけに費やされているのだ。
「お待たせ、伸也。一真兄さんのせいで少し遅くなっちゃったけど、お昼の残りでいいかな。それとも、今日の夕飯は何にしようか? 頑張った一真兄さんのために、生姜焼きにする? それとも、伸也の大好きなチーズハンバーグ?」
拓海はエプロンの紐を直しながら、またあの「優しい兄」の顔に戻って小首を傾げた。
伸也の平穏な、けれど確実に侵食されつつある大学生活は、完全にこの男の手のひらの上で、心地よく、そして抗いがたく転がされているのだった。




