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第十三章:無敵艦隊の沈没

五月半ば。


 大型連休という狂騒が過ぎ去り、街が日常の気怠いリズムを取り戻した頃だった。


 初夏の陽光が窓から差し込み、新緑の匂いが風に乗って運ばれてくる。本来なら心浮き立つはずの季節だが、藤堂とうどう家の下宿人であり、この家の「完璧な主導権」を握っているはずの男に、不測の事態が発生した。


「……あ、おかえり、伸也。ごめん、今日ちょっと、晩飯無理かも……」


 大学の講義を終えて帰宅した伸也しんやがリビングに入ると、そこにはいつもの「一二〇パーセントの爽やかスマイル」を完全に消失させた拓海たくみの姿があった。


 彼はソファに力なく突っ伏し、肩を震わせて荒い息を吐いている。普段の洗練されたオーラはどこへやら、歩くパワースポットが、ただの無防備な病人になり下がった瞬間だった。


「おい、拓海? どうしたんだよ、その顔」


 伸也が恐る恐る近づき、その額に手を触れようとした瞬間、熱気が指先にまで伝わってきた。拓海の頬は林檎のように赤く染まり、前髪は冷や汗で額に張り付いている。


 テーブルの上に置かれた体温計を覗き込むと、そこには三八・五度という無情な数字が刻まれていた。


「三八度五分……。お前、それだけの熱があって、今まで我慢してたのかよ。完璧超人にもシステムエラーって起きるんだな」


「……不徳の致すところだよ。勇太を預かった時に、あいつの風邪をもらったのかな。……喉も、ちょっと痛い」


 掠れた声で弱々しく笑う拓海。いつもは伸也を「不器用だ」とからかい、生活のすべてを掌握している男が、今はただの熱に浮かされた青年としてそこに転がっている。そのギャップに、伸也は言いようのない焦りと、そして心のどこかで「自分がいなければ」という奇妙な高揚感を覚えた。


「ほら、さっさとベッドに行け。お前にうつされたら、俺の単位が本当に死ぬからな。たまらんだろ、病人二人とか」


 伸也は悪態をつきながらも、拓海の腕を自分の肩に回し、彼を自室へと運んだ。


 普段は自分よりも一回り大きく、頼もしく感じる拓海の身体が、今は驚くほど熱く、そして重い。


 どうにか彼をベッドに押し込み、氷枕と水を用意する。拓海は枕に顔を埋めると、深い溜息を吐いて目を閉じた。


 さて、問題はここからである。


 運悪く、伸也の母は昨日から「近所のママ友」との温泉旅行に出かけていた。


 伸也はふと思う。自分の息子がもう二十歳にもなるというのに、いつまで「ママ友」という呼称を使うのだろうか。本人が自称している以上、否定はしないが、いい歳をした大人たちが連れ立って「ママ友旅行」というのは、息子としてはどうにも釈然としないものがある。だが、今そんなことを考えていても腹は膨れない。


 伸也は、専業主婦である母親の至れり尽くせりな世話に甘えきって生きてきた。そして、この半年間は拓海の完璧な家事能力に依存しきっていた。


 つまり、伸也にはまともな自炊スキルが「皆無」なのだ。それは父親も同様であり、母が不在の今、この家には「食わせる側」の人間が一人もいない。


(……コンビニで何か買ってくるか。いや、でも病人にコンビニ飯はさすがに……)


 伸也は意を決して、戦場――もとい、キッチンへと向かった。


 拓海がいつもピカピカに磨き上げているそこは、伸也にとって未知の聖域だった。冷蔵庫を開けてみる。拓海が几帳面に管理している食材が並んでいるが、それらをどう組み合わせて「料理」という完成形に導けばいいのかが分からない。


「……よし、うどんだ。これなら、俺でもなんとかなるだろ」


 冷凍庫の奥に眠っていた冷凍うどんのパックを手に取る。


 キッチンで格闘すること、約三十分。


 お湯を沸かすのにも手間取り、ネギを切れば指を切りそうになり、卵を割り入れれば殻が混ざる。伸也は半ばパニックになりながら、どうにか「ネギと卵をぶち込んだだけの、見た目がなんとも心許ない冷凍うどん」を完成させた。


 どんぶりから立ち上る湯気は、出汁の香りがしている。それだけで、伸也は大きな仕事を成し遂げたような達成感を抱いた。


 トレイにどんぶりを乗せ、こぼさないように慎重な足取りで拓海の部屋へ向かう。


 ドアを細く開けると、拓海はまだ荒い息をつきながら、うつらうつらと眠っていた。


「……拓海。できたぞ。少しでも食えるか?」


 声をかけると、拓海はゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞳は熱のせいで潤んでおり、いつも自分を翻弄するあの鋭い理知的な光は影を潜めている。


 拓海はのそりと身を起こし、差し出されたうどんをじっと見つめた。


「……これ、伸也が作ったの?」


「悪いかよ。冷凍うどんにネギと卵入れただけだ。……見た目はアレだけど、味は市販のスープだから間違いないはずだ」


 伸也が照れ隠しにぶっきらぼうに言うと、拓海はなぜか、じーっと伸也の顔を見つめてきた。その潤んだ瞳に射抜かれ、伸也の心拍数が不自然に上がる。


 すると、拓海は布団をぎゅっと握りしめ、消え入りそうな声でこう言った。


「……伸也。身体が重くて、力が入らないんだ。……食べさせて」


「はあ!? お前な、熱があるとはいえ二十二歳の成人男性が……!」


「……あーん」


 伸也の正論を完膚なきまでにガン無視して、拓海はぱかっと、小鳥のように口を開けた。


 その姿は、これまで伸也の生活を整え、厳しく、かつ慈悲深く世話を焼いていた「オカンっぷり」からは想像もできない、完全に甘えたがりの大型犬のようだった。


 いつもは余裕たっぷりに伸也を掌の上で転がしている男が、今は剥き出しの依存をぶつけてきている。


「……っ。分かったよ、今回だけだからな! 本当に今回だけだぞ!」


 伸也は顔を火が出るほど真っ赤にしながら、レンゲでうどんを掬った。


 麺が長すぎて上手く乗らず、何度もやり直す。ようやく一口分を確保し、子供にするようにフーフーと息を吹きかけて冷ましてから、拓海の口元へと運んだ。


「ほら……食え」


 拓海は素直にそれを口に含むと、ゆっくりと咀嚼し、嚥下した。


 そして、ふわりと、この世の何よりも幸せそうな、とろけるような笑顔を見せたのだ。


「……ん、おいしい。伸也の味がする」


「……冷凍うどんのダシの味だろ、適当言うな! あと、お前さっきからキャラが崩壊しすぎだろ!」


 文句を言いながらも、大人しくうどんを食べる拓海を見ていると、伸也は不思議と悪い気はしなかった。


 これまでは、拓海の圧倒的な「完璧さ」の前に、自分がただ守られ、管理されるだけの存在だという劣等感があった。だが、今この瞬間だけは、自分が拓海という男の生命線を握っている。自分がいなければ、この男は食事すらままならない。


 その優越感とも、庇護欲ともつかない感情が、伸也の胸を心地よく満たしていた。


「……おい、卵も食え。栄養つけなきゃ治らないだろ」


「うん。……伸也が、優しい」


「……当たり前だろ。死なれたら、母さんに何て言えばいいか分からないからな」


 不器用な手つきで食べさせ続ける伸也と、それを全身で受け入れる拓海。


 六畳の部屋には、うどんの湯気と、これまでの関係性とは明らかに異なる、どこか甘やかで濃密な空気が漂い始めていた。


 やがてどんぶりが空になると、拓海は満足げに溜息を吐き、再びベッドに身体を沈めた。


 熱が引いたわけではないだろうが、その表情からは先ほどまでの悲壮感は消え、穏やかな安らぎが浮かんでいた。


「……伸也」


「なんだよ。まだ何か食いたいのか?」


「……いや。……ずっと、俺のそばにいてね」


 掠れた、熱に浮かされたような声での独り言。


 それはいつもの「人たらし」の社交辞令ではなく、心の深淵から漏れ出した、一人の青年の切実な願いのように聞こえた。


「……はいはい。寝言は寝てから言え」


 伸也は、またしても真っ赤になった顔を隠すように背を向け、空になったどんぶりをトレイに乗せた。


 背後からは、規則正しい拓海の寝息が聞こえ始める。


 キッチンに戻り、後片付けをしながら、伸也は自分の指先に残る温もりを見つめた。


 完璧超人の拓海が見せた、たった一度のシステムエラー。


 その隙間に、自分の居場所を見つけたような気がして、伸也は小さく、誰にも聞こえない声で「……お前こそ、俺を一人にするなよ」と呟いた。


 外では夏の夜の気配が深まり、月明かりがキッチンを静かに照らしている

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