第十二章:ちびっこ台風、上陸
五月の大型連休、ゴールデンウィークの後半。
連休特有の、どこか浮き足立ったような気怠い空気の中、伸也と拓海の住む家に突如として、身長百二十センチの小さな台風が上陸した。
「しんやにぃちゃん、あそぼー!!」
アパートの古びたチャイムが激しく連打されたかと思うと、玄関のドアが開くのとほぼ同時に、元気いっぱいの叫び声が廊下を突き抜けた。拓海の異父弟、八歳の勇太である。
今回の「台風」の襲来には理由があった。拓海の母親――藤堂一族の中でも一際輝くキャリアウーマンである彼女が、急遽海外出張に出ることになったのだ。
親戚の家を転々とする案もあったが、結局「拓海がいるなら安心」という全会一致の信頼のもと、この家で三日間預かることになったのである。
「こら勇太、バタバタ走らない。靴はちゃんと揃えなさいっていつも言ってるだろ。ほら、まずは手を洗っておいで。うがえも忘れないように」
「はーい!」
玄関先で勇太のランドセル代わりのリュックを受け取りながら、拓海は完全に「出来た兄」……というより、もはや「完璧な母親」の顔になっていた。
拓海は手慣れた動作で自分のエプロンの紐をキュッと結び直すと、テキパキと勇太の世話を焼き始めた。
洗面所から聞こえてくる勇太の「ぶくぶく、ぺっ!」という景気のいい音を確認しながら、拓海はキッチンに立ち、おやつ用のパンケーキを焼き始めている。
その様子は、もはや「オカン」そのものだった。
しかも、ただのオカンではない。効率的な動線、汚れ一つ残さない調理、そしてバニラエッセンスの甘い香りを漂わせながら焼き上がる完璧な黄金色のパンケーキ。
伸也の実の母親ですら、リビングのソファで
「まあまあ、拓海くん。本当に手際がいいわねえ。保育士さんか何かになればよかったのに」と、自分もお裾分けのパンケーキをちゃっかり期待しながら、のんびりと茶を啜っている始末だった。
伸也の母にとって、拓海は「家事を代行してくれる上に目の保養にもなる理想の甥っ子」として、既に全幅の信頼を勝ち得ている。
「しんやにぃちゃん、マリオカートしよ! 俺、学校の友達の中で一番強いんだから!」
伸也は連休後半、自室で読書でもしながらゴロゴロと過ごすつもりだった。
しかし、そんなささやかな計画は、勇太の小さな、けれど驚くほど力強い手に腕を引かれた瞬間に霧散した。
「おい、ちょっと待て。俺は今、忙し……」
「しんやにぃちゃん、行こー!」
有無を言わさぬ子供の純粋な暴力。伸也はあっさりとリビングのテレビの前、ゲーム機が鎮座する「戦場」へと強制連行された。
「……ま、いいだろう。お手並み拝見といこうじゃないか」
最初は「相手は八歳児だしな、少し手加減してやるか」などと余裕をかましていた伸也だったが、コントローラーを握って五分後、その考えが甘すぎたことを痛感した。
伸也は最近の小学生のゲームスキルというものを、完全に見くびっていた。
画面の中、勇太が操作するキャラクターは、ドリフトを完璧に使いこなし、ショートカットを次々と決めていく。一方、伸也のキャラクターはバナナの皮に滑り、トゲゾーこうらに撃ち抜かれ、挙句の果てにはコースから転落。
結果、伸也は三戦連続でボロ負けを喫した。
「……っ、もう一回だ! 今のはコントローラーのボタンの効きが悪かっただけだ!」
「あはは! しんやにぃちゃん、よわーい! どんくさーい!」
二十歳の大学生が、八歳児相手に本気で悔しがり、声を荒らげるという、客観的に見れば非常に情けない光景がリビングに繰り広げられる。
「うるさい、次だ次! 今のはウォーミングアップだと言っただろ!」
「えー、にぃちゃん往生際が悪いよ!」
キャッキャと騒ぐ伸也と勇太の様子を、キッチンで夕飯の準備に取り掛かっている母と拓海が、くすくすとおかしそうに眺めている。
「仲がいいわねえ。伸也も、あんなに楽しそうに声を出すなんて珍しいわ」
「そうですね。伸也は不器用なところがあるから、勇太みたいなタイプが一番いい刺激になるのかもしれない」
拓海は、煮込み料理の火加減を調節しながら、目を細めて微笑んだ。その視線はどこまでも穏やかで、まるで弟たちの成長を見守る慈愛に満ちている。
四戦目。伸也がようやく一位を走行し、ゴールまであと僅かというところで、勇太がふいにコントローラーを握る手を緩めた。そして、隣に座る伸也の耳元へ、こっそりと内緒話をするように顔を寄せた。
「あのね、しんやにぃちゃん。内緒の話だよ」
「……あ? 何だよ、今いいところなんだから……」
集中を削がれそうになりながらも、伸也は反射的に勇太の方を向いた。勇太は、拓海によく似た綺麗な瞳をキラキラと輝かせながら、小さな声で囁いた。
「あのね、たくみにぃちゃんが言ってたよ。『しんやにぃちゃんは、すごく優しくて不器用な人なんだ。ほっとくとすぐ自分のことを後回しにして、ご飯も食べなくなっちゃうから、俺たちがしっかり守ってあげなきゃダメなんだぞ』って」
「…………は?」
伸也は思わず、コントローラーを床に落としそうになった。
画面の中では、伸也のキャラクターがゴール直前で謎の壁に激突し、後ろから来た勇太に鮮やかに追い抜かれていた。しかし、今の伸也にとってゲームの結果などどうでもよかった。
勇太の口から語られた言葉。
それは、拓海が自分をどのように見ているか、という残酷なまでに優しい「評価」だった。
不器用で、ほっておけない。自分がいなければ、まともに生活もできない欠陥品――。
拓海は、自分だけでなく、この小さな弟にまで、伸也を「世話すべき対象」として認識させていたのだ。
「おい……拓海……!!」
伸也の顔が、みるみるうちに羞恥と憤怒で赤く染まっていく。
「お前、小学生に何を吹き込んでるんだ! 俺はそんなに弱っちくないし、ご飯だって自分で食べられるわ!」
キッチンの方を振り返って叫ぶ伸也に対し、拓海は火を止めて、ゆっくりと振り返った。彼は片手に味見用の小皿を持ったまま、一点の曇りもない、聖母のような「一二〇パーセントの笑顔」を浮かべて見せた。
「え? 別に吹き込んでなんてないよ。ただの事実でしょ? 伸也、放っておくとすぐカップラーメンで済ませようとするし、顔色も悪くなるんだから」
拓海は小首を傾げ、困った弟を見るような眼差しを向けてくる。
「ね、勇太。伸也にぃちゃんのこと、これからもしっかりサポートしてあげてね」
「まかせとけ! 俺がにぃちゃんを守ってあげる! 倒れちゃったら大変だもんね!」
勇太は「えっへん」と効果音が聞こえてきそうな勢いで、小さな胸をドヤ顔で張った。
その隣では、拓海がキラリと効果音がしそうなウインクを伸也に飛ばしてくる。
完璧超人の兄と、その兄を信奉する素直すぎる弟。
この二人にかかっては、伸也の「一人で静かに生きていたい」というささやかな願いなど、濁流に流される小枝のようなものだ。
伸也の家は、拓海という外圧に続き、勇太という新たなエネルギー体の侵入によって、完全に彼らのペースに掌握されてしまった。
「……もういい、勝手にしろ。俺はハンバーグを食うまでここを動かないからな!」
「あはは! にぃちゃん、やっぱりお腹空いてるんじゃん!」
「うるさい! 黙ってコントローラーを握れ!」
大騒ぎするリビング。
伸也は、拓海の思い描く「守られるべき不器用な伸也」という役割に、知らず知らずのうちに自分がぴったりと嵌め込まれていくのを感じていた。
腹立たしくて、恥ずかしくて、けれど――。
拓海が用意してくれた、この異常なほどに温かい「居場所」から、自分はもう二度と逃げ出せないのではないか。
キッチンからは、デミグラスソースの香ばしい匂いが漂ってくる。
伸也は、頭を抱えながらも、次の一戦に向けてコントローラーを握り直した。
拓海の描いたシナリオ通りに、この賑やかな連休は、伸也の心をさらに深く彼らの色彩で塗り替えていくのだった。




