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第十一章:ピンクの弁当箱と謎のモヤモヤ

 四月の終わり。ゴールデンウィークを目前に控えた週末は、まるで初夏を先取りしたような瑞々しい日差しに恵まれていた。


 新生活の緊張がようやく解け、誰もが浮き足立つような休日。しかし、伸也のアパートの玄関に響いたのは、そんな平穏を鮮やかに切り裂く、一点の曇りもない快活な声だった。


「拓海さーん! またまた遊びに来ちゃいました! 今日は絶好のお散歩日和ですよ! 公園行きましょう、公園!」


 玄関の扉を開けるやいなや、春の嵐のような勢いで飛び込んできたのは、いとこの美希だった。


 十七歳の彼女が纏う空気は、いつも「本家」という重苦しい場所で見るものとは違い、自由で、眩しいほどの生命力に溢れている。


 彼女の両手には、リボンで丁寧にラッピングされた可愛らしいピンク色の二段弁当が握られていた。


「わあ、すごい! これ、全部美希ちゃんが作ったの? 朝早くから準備してくれたんだね、ありがとう!」


 奥から現れた拓海は、一二〇パーセントの輝きを放つ「完璧なお兄さん」の笑顔で彼女を迎えた。その表情には、突然の来訪への戸惑いなど微塵も感じられない。むしろ、彼女の努力を瞬時に察し、最高のタイミングで最大の賛辞を贈る。


「伸也もおいで。三人で行った方が楽しいだろ?」


 拓海は、当然のように、影の中にいた伸也を光の下へと連れ出した。


 拒否権などなかった。拓海に爽やかに微笑まれ、美希に無邪気な瞳で見つめられれば、伸也にできるのは、仏頂面を崩さないまま、重い腰を上げることだけだった。


 近所の公園は、名残惜しそうに枝に残る桜と、芽吹き始めた新緑が混ざり合い、穏やかな賑わいを見せていた。


 芝生の上に広げられたシートの上で、拓海は美希をまるでお姫様のように扱っていた。美希が少し照れながら差し出した弁当箱の中身――彩り豊かな卵焼きや、少し形は不揃いだが一生懸命揚げられたのが伝わる唐揚げ――を見るなり、拓海は感嘆の声を上げた。


「これ、本当に美味しいよ! 味付けも絶妙だ。美希ちゃん、料理の天才なんじゃない?」


「も、もう、拓海さん大げさですよぉ……。でも、そう言ってもらえると頑張った甲斐がありました」


 美希は顔を林檎のように真っ赤に染め、指先をモジモジさせながら、拓海の言葉一つ一つを宝物のように飲み込んでいく。拓海の向ける眼差しは、どこまでも温かく、慈愛に満ちていた。


 伸也は、そのキラキラとした、まるで少女漫画の一コマのような空間に耐えきれなくなり、「ちょっと散歩してくる」と短く告げてその場を離れた。


 少し離れた大きなくすのきの影に立ち、遠くのベンチから二人を眺める。春の陽光に照らされた拓海の横顔と、幸せそうに笑う美希。その完成された構図を、伸也は苦虫を噛み潰したような顔で睨みつけていた。


(……なんだ、このイライラは)


 伸也は内心で激しく戸惑っていた。


 美希は可愛いし、彼女に悪気がないことも知っている。拓海が誰に対しても優しく、相手を喜ばせる振る舞いをするのはいつものことだ。分かっている。分かっているのに、胸の奥が熱く、ザラついた不快感で満たされていく。


「いつも俺のご飯を作ってるくせに、あんなデレデレしやがって……」


 無意識に漏れた独り言に、伸也自身が一番驚いた。


 ハッとして口を押さえる。今の台詞はなんだ。まるで、自分から拓海を奪われたことに対してヤキモチを焼いているみたいじゃないか。


(気持ち悪い……! 俺、何を考えてるんだ)


 自分の内側から湧き出た感情の正体に耐えきれず、伸也は今度こそその場を離れた。どこへ行く当てもなく、ただ、あの「光」から遠ざかりたくて、少しばかり速足で、地面を蹴るようにどんどん進んでいった。


 数時間後。


 美希を駅まで送り届け、嵐が去った後のような静けさが戻った家。


 伸也は自分の部屋で、布団を頭まで被って丸まっていた。昼間の自分の醜い感情を思い出すたび、自己嫌悪で息が詰まりそうになる。


 コンコン。


 静かなノックの音がして、ドアがゆっくりと開いた。


「伸也、入るよ。……お前、さっきからずっと部屋に引きこもって、どうしたんだ?」


 拓海の声だ。昼間のあの「お兄さん」の声よりも、少しだけ低く、落ち着いた響き。


 伸也が返事もせずに布団の中で固まっていると、ベッドの縁が沈み込む感覚があった。拓海がすぐそばに腰掛けたのだ。


「……ひょっとして、ヤキモチ?」


 クスクスと、茶目っ気たっぷりに囁かれた言葉に、伸也の脳内が沸騰した。


 


「はあ!?」


 勢いよく布団を跳ね除け、伸也はベッドの上に飛び起きた。


「誰が! お前ら陽キャの空間が、眩しすぎて目が潰れそうだっただけだ! 迷惑なんだよ、あんな見せつけられるの!」


 必死に叫んだ反論は、拓海には全く届いていないようだった。拓海は一瞬呆気にとられたような顔をした後、堪えきれないといった風に「あはは!」と声を上げて笑った。


「はいはい、そういうことにしておくよ。……ごめんな、ほったらかしにして」


 拓海は笑い声を収めると、少しだけ真面目な顔をして、開いた窓の外に視線を向けた。


「美希ちゃんは本家のお嬢様だからさ。あまり冷たくするわけにもいかないし、かといって変に気を持たせないようには気を使っているつもりなんだけど……やっぱり、難しいね」


 拓海の言葉の裏に、伸也はふと、彼が背負っているものの重さを感じた。


 拓海の母親は、藤堂家という古いしがらみの中で、シングルマザーのキャリアウーマンとして戦ってきた人だ。


 拓海が「完璧な人間」でいようとするのは、単なる性格ではない。自分が立派で、誰からも愛される人間でいなければ、大好きな母親が親族から「教育がなっていない」と後ろ指を指されてしまう。彼は幼い頃から、母親の盾になるために、自分の感情を二の次にして「求められる拓海」を演じ続けてきたのだ。


 家事が完璧なのも、人当たりが良いのも、すべては母親を守るための、そしてこの一族で生き抜くための武器だった。


 そう気づくと、昼間のあの完璧な振る舞いさえ、少しだけ痛々しい努力の賜物に見えてくる。


「……別に、謝らなくていいよ。あんたが苦労してんのは知ってるから」


 伸也がぼそりと呟くと、拓海は驚いたように目を見開き、それから今までで一番柔らかい、本当の笑顔を見せた。


「ありがとう。……埋め合わせと言っちゃなんだけど、今日の夕飯、伸也の好きなハンバーグにするよ。これでお前の機嫌、直るかな?」


 拓海は、伸也の反応を見越したように首をかしげる。


 伸也は、一度は反抗的に口を尖らせたが、空腹という生理現象と、拓海の作る料理の抗いがたい魅力を前にしては、あっさりと降伏するしかなかった。


「……チーズインで頼む。あと、デミグラスソース多めで」


「注文が多いなあ。……でも、了解。最高に美味しいやつを作ってあげるよ」


 拓海は満足げに笑い、伸也の真っ黒な髪をポンポンと、優しく叩いた。


 その手のひらの温かさは、昼間に美希の頭を撫でていたものと同じはずなのに、今の伸也には、それが自分だけに向けられた特別な承認のように感じられた。


 結局、またしてもこの男のペースに、その全方位的な優しさに丸め込まれている。


 伸也は拓海が部屋を出ていく後ろ姿を見送りながら、深く、深い溜息をついた。


 


 自分は彼を憎んでいるのか、それとも依存しているのか。


 その境界線は、この春の夕暮れ時のように、ますます曖昧に溶けていく。


 キッチンの方向から聞こえ始めた、パチパチとハンバーグが焼ける音。


 伸也はその音に誘われるように、重い腰を上げて、リビングへと向かっていった。

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