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氷の国の朝食――食料は尽きた。それでも彼らは、朝食の話をした。  作者: アコンプリスの人


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第三章 僕を人数に入れないでください

 北村航平が目を覚ましたとき、最初に見えたのは光ではなかった。

 白い息だった。

 自分の口から漏れた息が、ランタンの弱い明かりの中で薄く広がり、すぐに消えた。雪洞の中は、眠る前よりも冷えていた。壁に貼られた断熱シートの端には霜がつき、床に敷いたマットも湿り気を帯びている。どこかから水が染みているのではない。人間の吐く息が凍り、触れたものを少しずつ濡らしているのだ。

 時計を見る。

 午前五時四十八分。

 朝だった。

 朝という言葉に、もう明るさの意味はない。彼らにとって朝とは、夜を越えたという確認でしかなかった。夜を越えた。だが、それで何かが好転したわけではない。

 北村は体を起こそうとして、全身の重さに一瞬息を止めた。眠ったはずなのに、回復した感じがない。手足の先は痺れ、肩は石のように硬い。腹の奥が空洞になっている。胃が縮んで、体の中心から冷えているようだった。

 入口のそばでは、田代剛が座ったままこちらを見ていた。

 眠っていなかったのかもしれない。あるいは、北村より先に目を覚ましていたのかもしれない。スコップは膝の上に置かれていた。田代の顔には、一晩で薄い影が増えていた。髭のせいではない。空腹と睡眠不足は、人の頬を内側から削る。

「外は」

 北村が聞くと、田代は首を振った。

「まだ風があります。ただ、昨日よりはましです」

「入口は」

「細い穴は生きています。完全には塞がっていない」

「無線は」

「試してません。バッテリー、もったいないと思って」

 田代の声は低かった。昨日のような苛立ちはなかった。むしろ、言葉を選びすぎている。自分が口にした禁句が、まだ彼の中に残っているのだろう。

 北村は周囲を見た。

 高梨悠斗は毛布の中で丸くなっていた。顔だけを出している。目は閉じているが、眠りは浅い。時々、唇が動く。夢を見ているのかもしれない。いや、夢を見るほど深くは眠れていないだろう。空腹は、人を夢からも追い出す。

 真柴玲奈は佐久間修の隣にいた。

 佐久間は目を閉じている。横になってはいない。壁にもたれ、膝の上に両手を置いたまま動かない。その姿勢が、眠っているというより、電池の切れた機械のように見えた。真柴は彼の手首に指を当て、脈を取っていた。

 北村の中で、何かがきしんだ。

「真柴」

 声をかけると、真柴は顔を上げた。

 その目を見ただけで、北村は結果を察した。

「あとで」

 真柴は言った。

「今、起こした方がいいです」

 北村は佐久間の前に移動した。膝をつくと、床の冷たさが防寒着越しに伝わる。

「佐久間」

 反応はなかった。

「佐久間」

 二度目で、佐久間の睫毛が動いた。薄く目が開く。焦点が合うまで数秒かかった。

「……朝ですか」

「ああ」

「そうですか」

 佐久間は小さく息を吐いた。

「朝は、来るんですね」

「当たり前だ」

「当たり前のことは、失ってから分かります」

「哲学はいらん。具合は」

「悪くありません」

 真柴が即座に言った。

「悪いです」

 佐久間は困ったように笑おうとしたが、口元がうまく動かなかった。

「真柴さんは厳しいですね」

「昨日も言いました。患者が嘘をつくからです」

「少し、寒いだけです」

「少しではありません」

 真柴は体温計を北村に見せた。

 数字を見た瞬間、北村は喉の奥が冷えた。

 三十四度台。

 低体温が進んでいる。

「測り間違いは」

「二度測りました」

「意識は」

「まだ保っています。ただ、反応が遅い。脈も弱い。脇腹の痛みも増えているはずです」

「はず?」

「本人が認めないので」

 佐久間が目を伏せた。

「認めています。少し痛いです」

「少しではない」

 真柴の声が硬くなった。

「肋骨の損傷だけなら、まだ説明できます。問題は、その奥です。内出血があるかどうか、この場では確認できません。低体温と痛みで体力を消耗しています。温める必要がある。食べさせる必要もあります」

 北村は床に置かれた食料を見た。

 非常用ビスケットは、もう小さな欠片しかない。栄養バーも半分以下。粉末スープは一包。ブドウ糖タブレットが四粒。飴が五つ。

 数えなくても分かった。

 五人で一日を過ごす量ではない。

 外では風が鳴っている。

 救助は、まだ来ていない。

 北村は息を吸った。空気が冷たく、肺の内側が痛んだ。

「ブドウ糖を一粒、佐久間に」

 真柴がうなずいた。

「賛成です」

「待ってください」

 佐久間が言った。

「命令だ」

「ブドウ糖は高梨くんに」

 毛布の中で、高梨が目を開けた。

「俺?」

「若い人の方が、体力はあります。でも、精神的な消耗が大きい。昨日からずっと、食べ物の幻に引っ張られている」

「俺は大丈夫です」

 高梨は反射的に言った。

 その言葉を聞いて、田代が苦い顔をした。

「ここで大丈夫って言う奴は、だいたい大丈夫じゃない」

「田代さんに言われたくないです」

「俺も大丈夫じゃないからな」

 高梨は何か返そうとして、失敗した。唇だけが震えた。

 北村は佐久間を見た。

「お前に飲ませる。食わせる。以上だ」

「隊長」

「以上だと言った」

 佐久間は黙った。

 真柴がブドウ糖を一粒取り出し、佐久間に渡した。佐久間はそれを受け取ったが、すぐには口に入れなかった。小さな白い粒を手袋の上に乗せ、しばらく見つめている。

「佐久間」

 北村の声に、彼はようやくそれを口へ運んだ。

 噛む音はしなかった。

 舌の上で溶かしているのだろう。長く味わおうとしているのか、飲み込む力を節約しているのか、北村には分からなかった。

「甘いです」

 佐久間が言った。

「当たり前だ」

「当たり前の味も、こういう場所では驚きますね」

 高梨が喉を鳴らした。

 北村はそれを見た。高梨はすぐに顔を背けた。羨ましさ。罪悪感。その二つが、同時に彼の顔を歪ませていた。

 食料を誰か一人に多く与える。

 それは正しい判断のはずだった。負傷者を生かすため。体温を上げるため。医療上の判断として、説明はつく。だが、正しい判断が、必ず人の心に正しく届くわけではない。

 田代が低く言った。

「朝の分はどうします」

 誰も、その言葉を責めなかった。

 朝の分。

 昨日までは、粗末であっても朝と夜に食べるという形があった。それが、彼らを辛うじて人間の時間につないでいた。だが、今朝の食料は、五人が食べたという事実を得るには少なすぎる。

 北村は栄養バーの残りを手に取った。固く凍っている。ナイフで削るように切る。五等分にはならない。五等分にしたところで、一片は爪ほどの大きさになる。

「全員に配る」

 北村は言った。

 真柴がわずかに目を動かした。

「佐久間さんには」

「あとでスープを飲ませる」

「燃料が」

「使う」

 田代が口を開きかけたが、閉じた。

 高梨は自分の手のひらを見ていた。食べ物が置かれる前から、そこに何かを受け取る準備をしているようだった。

 北村は栄養バーを五つに分けた。

 均等ではない。

 均等ではないことを、全員が見ていた。

 一番大きな欠片を佐久間に渡すつもりだった。だが、その瞬間、佐久間が首を振った。

「同じでお願いします」

「同じではない」

「なら、一番小さいものを」

「ふざけるな」

「ふざけていません」

 佐久間の声は弱かった。だが、妙に澄んでいた。

「僕を特別扱いすると、みんなが苦しくなります」

「お前は負傷者だ」

「はい」

「医療上の判断だ」

「分かっています」

「なら従え」

「でも、隊長」

 佐久間は北村をまっすぐ見た。

「僕を人数に入れないでください」

 雪洞の中の空気が、音を失った。

 風の唸りも、ランタンの燃えるかすかな音も、誰かの息遣いも、遠ざかった。北村の耳に残ったのは、自分の血が内側から鳴る音だけだった。

「何だと」

 自分の声がひどく低いのが分かった。

 佐久間は視線を逸らさなかった。

「僕を、五人分の計算に入れないでください」

「二度と言うな」

「でも」

「二度と言うなと言った」

 北村は佐久間の胸倉を掴みかけた。真柴がその腕を押さえた。昨日と同じだった。だが、今度は田代も動いた。彼は北村と佐久間の間に片膝をついた。

「隊長、だめです」

「離れろ」

「だめです」

「お前も同じことを考えていたのか」

 田代の顔が歪んだ。

「考えました」

 彼は正直に言った。

「でも、言わせたくない」

 北村の手が止まった。

 田代は佐久間を見た。

「俺が昨日、言ったからだろ。俺があんなことを言ったから、あんたは自分を差し出せばいいと思った。違うか」

 佐久間は答えなかった。

「違うって言えよ」

「田代さんのせいではありません」

「そういう言い方をするな」

 田代の声が震えた。

「俺は、あんたにそんなことを言わせるために、あんなことを言ったんじゃない」

「分かっています」

「分かってない」

 高梨が毛布から這い出るように身を乗り出した。

「佐久間さん、やめてください。そういうの、俺、嫌です」

「高梨くん」

「嫌です。食べ物の話して、牛丼とか味噌汁とか、そういう話して、なんとか笑ってたじゃないですか。なのに急に、自分を数に入れないでくださいって、そんなの」

 高梨は言葉を詰まらせた。

「そんなの、朝飯の話をした意味がなくなるじゃないですか」

 佐久間の目が、そこで初めて揺れた。

 真柴は静かに言った。

「医療担当として言います。佐久間さんは危険な状態です。でも、まだ生きています。意識もある。自分で判断できる。だからこそ、今の発言は認められません」

「僕は、自分の状態を理解しています」

「理解と諦めは違います」

「諦めではありません」

「では何ですか」

 佐久間はしばらく黙っていた。

 その沈黙の中で、北村は彼の手帳を思い出した。

 献立表。

 全員まだ人間。

 五人分書け。

 昨夜、北村はそう命じた。佐久間は返事をした。だが、その返事の中に本当に五人分の未来があったのか。北村には分からなくなっていた。

「佐久間」

 北村は努めて声を抑えた。

「これは命令だ。お前は五人の一人だ。食料配分からも、救助対象からも、俺の責任からも外れない」

 佐久間は目を伏せた。

「はい」

「返事が軽い」

「はい」

「俺は怒っている」

「分かっています」

「分かってない」

 北村は栄養バーの欠片を佐久間の手に押しつけた。

「食え」

 佐久間は、今度は逆らわなかった。

 彼が欠片を口に入れるのを、全員が見ていた。噛む力が弱い。少しずつ砕き、ゆっくり飲み込む。小さな欠片を食べるだけで、彼の額に薄く汗が浮かんだ。寒いはずなのに、汗が出る。痛みのせいだ。

 北村はそれを見ないふりをした。

 見れば、また計算してしまう。

 どれだけ持つか。何時間持つか。救助まで持つか。

 隊長の頭は、残酷なほど現実的にできている。だからこそ、北村は自分の頭を信用しすぎてはいけなかった。

 朝食と呼ぶには、あまりにも小さな食事が終わった。

 高梨は手のひらをしばらく見つめていた。田代は粉を一粒も残すまいと指をなめ、それから自分の仕草に気づいて手を握った。真柴は記録をつけた。北村は残りの食料をまとめ、袋を閉じた。

 佐久間は手帳を開いた。

「書くな」

 北村が言った。

 佐久間はペンを止めた。

「命令ですか」

「そうだ」

「では、あとで書きます」

「そういう意味じゃない」

「分かっています」

 分かっていると言いながら、佐久間の目は手帳に落ちていた。

 北村は手帳を取り上げるべきか迷った。だが、取り上げれば、佐久間から何かを奪うことになる。この場所で、彼に残されている役割。気象を読むこと。記録を残すこと。朝食の話を覚えておくこと。それらを奪えば、佐久間はもっと早く遠くへ行ってしまう気がした。

 午前中、雪洞の中ではほとんど会話がなかった。

 高梨が何度か水を欲しがったが、水も節約しなければならない。雪を溶かすには燃料を使う。燃料を使えば、スープを作る分が減る。すべてが何かと交換だった。

 田代は入口の穴を広げる提案をした。北村は却下した。風がまだ強い。無理に開ければ雪が流れ込む危険がある。田代は反論しなかった。ただ、何もしないで座っているのが苦痛なのか、スコップの柄を何度も握り直していた。

 真柴は佐久間の状態をこまめに確認した。体温は下がり続けているわけではない。だが、上がりもしない。意識はある。会話もできる。けれど、返答の前に少し間が空くようになっていた。

 北村は無線を試した。

「こちら冬季調査班、北村。緊急退避用雪洞内。負傷者一名。応答願う」

 雑音。

「こちら北村。応答願う」

 雑音。

 その向こうに、また一瞬だけ声のようなものが混じった。

 今度は北村だけではなかった。田代も顔を上げた。真柴もペンを止めた。高梨は身を乗り出した。

「聞こえましたよね」

 高梨が言った。

「声、しましたよね」

 北村は無線機を握った。

「こちら北村。聞こえるか。応答せよ」

 返ってきたのは、途切れ途切れの雑音だった。

 その中に、かすかな音が混じる。

 ――……班……位置……。

「こちら北村。現在位置、緊急退避用雪洞。観測中継小屋南側ルート。入口埋没。負傷者一名。食料、燃料、残り少ない。応答願う」

 雑音。

 それから、ほとんど聞き取れない声。

 ――天候……待機……救……。

 そこで切れた。

「おい、今の」

 田代が膝で近づいてきた。

「救助って言いましたよね」

「分からない」

「言いましたよ」

 高梨の声が明るくなりかけた。

「救助って。今、救助って」

「確定するな」

 北村は強く言った。

 高梨の顔が固まった。

 北村はすぐに言いすぎたと思ったが、訂正しなかった。期待は危険だ。期待して、裏切られた時、人は一気に崩れる。

「通信は不安定だ。向こうにこちらの位置がどこまで届いたかも分からない。天候もまだ悪い。救助隊が出ているとは限らない」

「でも、声は」

「希望は持て。だが、確定するな」

 高梨は唇を噛んだ。

「難しいです」

「難しくてもやれ」

「はい」

 無線機のバッテリーを見て、北村は電源を切った。次の通信機会まで温存しなければならない。

 田代が入口を見る。

「外に合図を出せば、拾いやすくなるんじゃないですか」

「今出るのは危険だ」

「入口を少し広げて、発煙筒だけでも」

「風で流れる」

「ライトは」

「視界が悪すぎる」

 田代は舌打ちしかけて、やめた。

 その時、佐久間が口を開いた。

「風が弱まる時間があります」

 全員が彼を見た。

 佐久間は目を閉じたまま続けた。

「今の音の変化なら、正午過ぎに一度、谷側からの巻き込みが弱まります。長くはない。十分か、十五分」

「その間に入口を開けるか」

 田代が言った。

「開けるだけなら可能です。でも、出るのは危険です」

「じゃあ意味がない」

「意味はあります」

 佐久間はゆっくり目を開けた。

「外に合図を出せれば」

 北村は胸の奥がざらつくのを感じた。

「誰が出る」

 佐久間は答えなかった。

「誰が出ると聞いている」

「その時の状態で判断を」

「今答えろ」

 佐久間は北村を見た。

「僕が行きます」

 高梨が即座に叫んだ。

「だめです」

 田代も同時に言った。

「ふざけるな」

 真柴は佐久間の手首を掴んだ。

「今の状態で外へ出れば、戻れません」

「戻る必要はありません」

 佐久間は言った。

 北村は、今度こそ佐久間の襟元を掴んだ。

「お前は、朝の命令をもう忘れたのか」

「忘れていません」

「なら何を言っている」

「五人で帰るための話です」

「自分を置いていく話は、五人で帰る話じゃない」

「僕が中に残っても、五人で帰れる可能性は下がります」

「黙れ」

「隊長」

「黙れ!」

 北村の声に、雪洞の壁から小さく雪が落ちた。

 佐久間は黙った。

 だが、その目は変わらなかった。

 北村はその目が嫌だった。諦めた目ではない。死にたい人間の目でもない。むしろ、生きている者のために、余計なものを削ぎ落とした目だった。

 だから、余計に腹が立った。

「俺が行く」

 田代が言った。

 北村は振り返った。

「何を言ってる」

「俺が行きます。体力なら俺が一番ある。入口を開けるのも俺が一番早い。発煙筒を持って出て、すぐ戻ればいい」

「戻れる保証がない」

「だったら佐久間さんより俺でしょう」

「田代さんもだめです」

 高梨が泣きそうな声で言った。

「じゃあ俺が」

「お前は座ってろ」

 田代が即座に言った。

「でも」

「お前が一番だめだ」

「なんでですか」

「若いからだよ」

「理由になってないです」

「なる」

 田代は高梨を睨むように見た。

「お前は帰って牛丼を食え」

 高梨の顔が歪んだ。

「そういう言い方、ずるいですよ」

「ずるくていい」

 真柴が静かに言った。

「私が行く選択肢もあります」

「ない」

 北村が言った。

「医療担当を外に出すわけにはいかない」

「なら隊長もだめです」

「なぜだ」

「指揮を取る人間が必要です」

「指揮なら田代でも」

「隊長」

 真柴の声が鋭くなった。

「ここで全員が自分を差し出す競争を始めたら、終わります」

 その言葉は、雪洞の中に冷たく落ちた。

 全員が黙った。

 真柴は佐久間の手首を離さなかった。

「合図を出す方法を考えましょう。誰か一人が戻れない前提ではなく、戻る前提で」

「時間が短い」

 佐久間が言った。

「入口を開け、外へ出て、発煙筒を焚き、風向きのいい場所まで移動する必要があります。雪洞の入口付近では雪壁に隠れる。少し上がらないと」

「それで戻れるんですか」

 高梨が聞いた。

 佐久間は答えなかった。

 高梨はそれを見て、唇を震わせた。

「戻れないんじゃないですか」

「可能性の話です」

「可能性って言葉、もう嫌いです」

 高梨は膝を抱えた。

「助かる可能性。戻れる可能性。風が弱まる可能性。全部、可能性ばっかりで」

 北村は高梨に声をかけようとしたが、その前に佐久間が言った。

「高梨くん」

「何ですか」

「牛丼の話をしてください」

 高梨は顔を上げた。

「今?」

「はい」

「なんで」

「聞きたいので」

「そんな場合じゃ」

「そんな場合だからです」

 高梨は佐久間を見た。

 佐久間の顔色は悪い。唇は青白い。だが、目だけは静かに高梨を見ている。

「牛丼ですか」

「卵もつけるんでしょう」

 高梨は鼻をすすった。

「つけますよ。特盛です。いや、今ならメガでもいけます。紅しょうがは山盛り。七味もかけます。卵は、最初から混ぜない派です」

「どうするんですか」

「半分くらいまでは普通に食べるんです。肉と玉ねぎで。で、途中から卵を落とす。黄身を崩して、肉に絡めて、最後に米と混ぜる」

 高梨の声が、少しずつ震えから離れていった。

「味噌汁もつけます。あの、やたら熱いやつ。具が少ないのに、なんか安心するやつ。あと、できればお新香も」

「いいですね」

 佐久間は言った。

「田代さんは」

 田代は一瞬、面食らった顔をした。

「俺か」

「はい」

「納豆ご飯だ」

「昨日も聞きました」

「何度でも言う。納豆ご飯だ。妻が朝、無言で出す。飯は少し硬め。納豆にはからし。ネギがあれば勝ちだ。味噌汁は玉ねぎ。卵焼きはいらない。あれば食うけどな」

「文句ばっかりですね」

 高梨が言った。

「文句を言いながら食うのが、うちの朝飯なんだよ」

 田代の声が少しだけ柔らかくなった。

「でも、戻ったら文句は言わないかもしれん」

「たぶん言いますよ」

「言うかもな」

 真柴が佐久間の手首を押さえたまま、目を伏せた。

「私は缶コーヒーです」

 誰も聞いていなかったが、彼女は自分から言った。

「病院の自販機で買う、熱すぎる缶コーヒー。味は正直、よく分かりません。甘すぎるか、苦すぎるか。でも、手の中が温かいと、まだ大丈夫だと思える」

 佐久間がうなずいた。

「北村隊長は」

 北村は答えなかった。

「焦げたトーストですか」

「そうだ」

「今日は、どのくらい焦げていますか」

「真っ黒だ」

 高梨が小さく笑った。

「それ、食べられるんですか」

「食べる」

「バターは」

「多すぎるくらい塗ってある」

「娘さん、豪快ですね」

「下手なんだ」

「でも、うまいんですよね」

 北村は佐久間を見た。

「うまい」

 その言葉は、今度は嘘ではなかった。

 味の話ではない。

 佐久間は手帳を取り出した。

 真柴が止めようとしたが、北村が手で制した。佐久間はペンを握る。指先がうまく動かないらしく、文字を書くのに時間がかかった。それでも彼は一行ずつ、丁寧に記した。

 三日目朝。

 高梨、牛丼。卵、紅しょうが、七味、味噌汁、お新香。

 田代、納豆ご飯。からし、ネギ、玉ねぎの味噌汁。

 真柴、缶コーヒー。熱すぎるもの。

 北村、焦げたトースト。バター多め。

 佐久間――

 そこでペンが止まった。

 北村は見ていた。

 佐久間は少し迷ってから、書いた。

 佐久間、冷えたご飯。昨日の味噌汁。

 北村は安堵しかけた。

 だが、その下に、佐久間はもう一行書いた。

 備考、朝食は四人分で足りるかもしれない。

 北村は手帳を奪った。

「消せ」

 佐久間は抵抗しなかった。

「消せ、佐久間」

「記録です」

「願望だ」

「違います」

「違わない」

 北村はペンを取り、書かれたばかりの一行に強く線を引いた。紙が破れそうになった。線を引いても文字は読める。何度も引いた。黒い傷の下で、それでも文字は残った。

 佐久間はそれを静かに見ていた。

「隊長」

「何だ」

「ありがとうございます」

「礼を言うな」

「消してくれて」

 北村はペンを握り締めた。

 佐久間は自分で消せなかったのだ。

 消してほしいと思いながら、書いた。書かなければならないと思ったのだろう。冷静な記録者として。気象担当として。あるいは、自分が弱る前に、誰かが決めやすいように。

 北村は手帳を閉じた。

「お前は臆病だ」

 佐久間は少し驚いたように北村を見た。

「はい」

「死ぬのが怖いくせに、怖くないふりをしている」

「……はい」

「俺たちに選ばせるのが怖いから、自分で選んだことにしようとしている」

 佐久間の喉が動いた。

「はい」

「なら、怖いと言え」

 佐久間は唇を結んだ。

 雪洞の中に、誰の息も聞こえなくなった。

 やがて、佐久間は小さく言った。

「怖いです」

 高梨が顔を覆った。

 田代が目を閉じた。

 真柴は佐久間の手首を握ったまま、動かなかった。

「帰りたいです」

 佐久間は続けた。

「母に、まだ返していないものがあります。借りた本も、言わなかったことも。冷えたご飯は嫌いじゃなかったと、一度も言っていない」

 北村は黙って聞いた。

「でも、このまま何もしないで、全員の体力が落ちて、合図を出せる時間も逃して、救助隊が近くまで来ているのに見つけられなかったら」

「それはお前の責任じゃない」

「責任の話ではありません」

 佐久間は北村を見た。

「朝食を、残したいんです」

「何を言っている」

「誰かが明日の朝を食べるために、今できることをしたい」

「自分を犠牲にする話に聞こえる」

「そう聞こえると思います」

「なら言うな」

「言わないと、ただ死にに行く人間になります」

 北村は返せなかった。

 佐久間の声は弱かった。だが、そこには自暴自棄の響きはなかった。むしろ、恐ろしいほど現実を見ていた。死にたいのではない。誰かを助けたいという綺麗な言葉だけでもない。自分の状態、食料の量、風の変化、無線の断片、入口の位置。そのすべてを並べた上で、彼は一つの結論に近づいている。

 北村は、その結論を認めたくなかった。

 正午前、風が一度、明らかに弱まった。

 佐久間が言った通りだった。

 雪洞の外の唸りが遠のき、入口の細い穴から入り込む空気の勢いが変わった。田代が即座にスコップを持った。北村も立ち上がる。真柴は救急セットをまとめ、高梨は発煙筒とライトを握った。

「入口を開ける」

 北村は言った。

「外へ出るのは、俺が判断する」

「了解」

 田代が答えた。

 彼らは入口を掘った。

 昨日より硬い。雪は押し固められ、ところどころ氷の層になっている。田代が砕き、北村が掻き出し、高梨が後ろへ送る。真柴は佐久間のそばに残りながら、時々、作業する三人の呼吸を見ていた。

 佐久間は座ったまま、入口の方を見ていた。

 穴が広がる。

 白い光が差し込んだ。

 眩しすぎて、全員が目を細めた。

 外は相変わらず白かった。だが、昨日ほどではない。風はある。雪も舞っている。けれど、数メートル先の斜面が見える。岩の影も見える。遠くに、折れたポールらしき黒い線が突き出している。

 そして、低く、遠い音が聞こえた。

 高梨が息を止めた。

「今の」

 北村も聞いた。

 風とは違う。雪崩とも違う。低く、断続的で、空気を震わせる音。

 ヘリかもしれない。

 確信はできない。

 だが、聞こえた。

「発煙筒」

 田代が言った。

「俺が行きます」

「まだ待て」

 北村は外を見た。雪洞の入口は斜面の陰にある。この場所で発煙筒を焚いても、上空から見えにくい。少し先、岩の上まで出る必要がある。距離にして二十数メートル。今なら行けるかもしれない。戻れるかもしれない。

 だが、その「かもしれない」に、人の命が乗る。

「ロープをつける」

 真柴が言った。

「外に出る人間にロープをつけて、こちらで保持する。戻れなくなったら引く」

「雪面で引っかかったら」

 田代が言う。

「それでも、ないよりはましです」

「俺が行く」

 北村が言った。

 全員が反応した。

 田代が首を振る。

「隊長は中に残ってください」

「これは命令だ」

「命令でも反対です」

「田代」

「俺が行くべきです」

「力がいるのは、戻す側だ」

 北村は言った。

「中に残ってロープを保持しろ。入口が崩れた時も、お前が必要だ」

 田代は歯を食いしばった。

「高梨は補助。真柴は佐久間を見る」

「隊長」

 真柴が言った。

「外に出れば、体温を一気に奪われます」

「分かっている」

「戻る前提で動いてください」

「そのつもりだ」

 北村は発煙筒を受け取った。

 その時だった。

 佐久間が立ち上がった。

 立ち上がった、というより、壁に手をつきながら体を持ち上げた。真柴がすぐに支えようとしたが、佐久間は小さく首を振った。

「僕が行きます」

 北村は怒鳴るより早く、彼の肩を押さえた。

「座れ」

「風向きが分かります。発煙筒を焚く場所も」

「俺に言え」

「言うより早いです」

「ふざけるな」

「隊長」

「座れ!」

 佐久間は座らなかった。

 彼は発煙筒ではなく、別のものを手にしていた。携帯ライトと、反射板。気象観測用の小さな金属板だ。光を拾えば、白い中でも一瞬きらめく。

「発煙筒は風で流されます。煙だけでは見えない可能性がある。ライトと反射板を併用します。上の岩場なら、ヘリの進路から見える」

「だから俺が行く」

「隊長は、上の岩場の位置を正確には知りません」

「見れば分かる」

「吹雪の中では分かりません」

「お前の体で行ける距離じゃない」

「今なら行けます」

「戻れない」

 佐久間は少しだけ微笑んだ。

「それを、言わない約束にしていたんですけど」

 北村は息を呑んだ。

「僕はもう、朝食を済ませました」

「食ってないだろ」

 声が掠れた。

 佐久間は手帳を胸元に押し込んだ。

「食べましたよ。みんなの話を」

 高梨が泣き出した。

 声を押し殺すような泣き方だった。田代は佐久間の前に立ちはだかろうとした。だが、佐久間は田代を見上げて言った。

「田代さん、中から支えてください。入口が崩れたら、僕が出た意味がなくなります」

「俺は」

「あなたが一番、ここを保てます」

 田代は動けなかった。

 真柴が佐久間の腕を掴んだ。

「佐久間さん。医療担当として、外へ出ることを許可できません」

「はい」

「はい、ではありません」

「許可されないまま行くことになります。すみません」

 真柴の手に力が入った。

「謝らないでください」

「では、お願いします」

「何を」

「手帳を」

 佐久間は胸元から手帳を取り出した。

 北村が手を伸ばすより先に、真柴が受け取った。受け取ってしまった。受け取った瞬間、彼女の顔が歪んだ。これが別れの動作になると分かってしまったのだ。

「持っていてください」

 佐久間は言った。

「戻ってきたら、返してください」

 嘘だった。

 誰もが分かった。

 それでも、真柴はうなずいた。

「返します」

 その嘘は、必要だった。

 佐久間は北村を見た。

「隊長」

「行かせない」

「命令してください」

「何を」

「帰ってこい、と」

 北村の喉が詰まった。

「僕は、命令なら聞きます」

「なら、行くな」

「それは聞けません」

「勝手だな」

「はい」

「最低の部下だ」

「すみません」

「謝るな」

 佐久間はうなずいた。

 北村はロープを掴んだ。彼の腰に巻く。手が震えた。怒りのせいか、寒さのせいか、分からなかった。結び目を確認する。田代が反対側を持つ。高梨もそのロープに手を添えた。真柴は手帳を胸に抱き、佐久間の首元の防寒具を締め直した。

「行って、合図を出して、戻ってこい」

 北村は言った。

「命令だ」

 佐久間は、少しだけ背筋を伸ばした。

「了解」

 入口から外へ出た瞬間、白い光が佐久間を飲み込んだ。

 北村たちはロープを握った。

 佐久間の背中は、数歩で白に滲んだ。足取りは弱い。だが、迷いはなかった。彼は斜面の凹凸を読み、雪の硬い場所を選ぶように進んでいく。風が巻くたび、姿が消え、また現れる。

「ロープ、たるませるな」

 北村が言う。

「分かってます」

 田代の声は震えていた。

 高梨は歯を食いしばり、両手でロープを握っていた。

 佐久間が一度、膝をついた。

「引くぞ」

 田代が言った。

「待て」

 北村は外を見た。

 佐久間は自力で立った。

 ライトが点いた。

 白い中に、小さな光が揺れる。次に、反射板がきらりと光った。佐久間は岩場へ近づき、そこで発煙筒を焚いた。赤い煙が風に引きちぎられながら、それでも白い世界に傷のような色をつけた。

 遠くの音が大きくなった。

 ヘリだ。

 今度は全員が分かった。

「来た」

 高梨が呟いた。

「来た、来たんですよね」

 北村は答えなかった。

 佐久間は岩場のそばに立っていた。ライトを振っている。赤い煙が彼の周囲で流れ、反射板が断続的に光る。

 ヘリの音は近づいた。

 だが、風も戻り始めていた。

 雪が強くなる。

 佐久間の姿が霞む。

「戻れ!」

 北村は叫んだ。

 声は届かない。

 ロープを引く。

 重い。

「引け!」

 田代が叫び、全員でロープを引いた。

 一瞬、手応えがあった。佐久間がこちらへ向かおうとしている。そう思った。

 次の瞬間、ロープが大きく揺れた。

 雪煙が走る。

 白い壁が視界を塞いだ。

「佐久間!」

 高梨が叫んだ。

 ロープを引く。引く。引く。

 だが、途中で何かに引っかかった。動かない。田代が全身の力を込める。北村も腕が裂けるほど引いた。真柴も手帳を置き、ロープに飛びついた。

 動かない。

 やがて、ふっと軽くなった。

 軽くなりすぎた。

 田代が尻餅をついた。高梨が叫んだ。北村の手の中には、切れたロープの端があった。雪か、岩か、氷か。どこかで擦れ、断ち切れたのだ。

 外ではヘリの音が轟いていた。

 救助は近い。

 佐久間は遠い。

 北村は入口から飛び出そうとした。田代が背後から羽交い締めにした。

「離せ!」

「だめです!」

「離せ、田代!」

「今出たら隊長も死ぬ!」

「離せ!」

「佐久間さんが何のために行ったと思ってるんですか!」

 田代の声が割れた。

 北村は動けなくなった。

 高梨は入口に向かって泣きながら名前を呼び続けていた。真柴はロープの切れ端を握り、唇を噛んでいる。血がにじんだ。

 ヘリの音が近づく。

 赤い煙は、まだ白い世界のどこかで上がっていた。

 北村は膝をついた。

 入口から見える外は、ただ白かった。

 その白の向こうで、佐久間修は朝食を置いていった。

 真柴が震える手で、彼の手帳を開いた。

 最後に書かれたページには、北村が黒く塗り潰した一行の下に、別の文字があった。いつ書いたのか分からない。おそらく、手帳を渡す直前だ。

 三日目朝。

 食料なし。

 だが献立あり。

 高梨、牛丼。

 田代、納豆ご飯。

 真柴、缶コーヒー。

 北村、焦げたトースト。

 佐久間、冷えたご飯と昨日の味噌汁。

 その下に、短く続いていた。

 備考。

 朝食は、四人分でいい。

 真柴が声を殺して泣いた。

 北村はその文字を見つめた。

 怒りも、悲しみも、感謝も、まだ形にならなかった。ただ、腹の奥に空いた穴だけが、さっきより大きくなっていた。

 ヘリの音が、雪洞の上を通過した。

 高梨が涙で濡れた顔を上げる。

「来た……来たんですよね?」

 北村は、答えられなかった。

 外では、赤い煙が白に引き裂かれながら、それでもまだ空へ向かっていた。



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