第四章 備考、感謝
救助隊員の手が差し伸べられたとき、北村航平はそれを掴むことができなかった。
腕が動かなかったわけではない。
動かせば、外へ出てしまうと思った。
外へ出れば、佐久間修がいないことを認めなければならない。雪洞の中にいるあいだは、まだどこかで否定できた。白い外のどこかに佐久間がいて、赤い発煙筒を握り、こちらへ戻る道を探している。ロープは切れたが、彼なら風の弱い場所を見つけ、岩陰を伝い、ひょっこり入口へ現れるかもしれない。
そんなことはないと、北村は知っていた。
だから、動けなかった。
「北村さん、手を」
救助隊員の声が、ヘルメット越しにくぐもって聞こえた。顔はゴーグルとマスクでほとんど見えない。背後では別の隊員が高梨悠斗に酸素マスクを当てている。高梨は泣いているのか、震えているのか、自分でも分からない様子で、隊員の腕にしがみついていた。
田代剛は最後までスコップを離さなかった。
「それは置いてください」
隊員に言われても、田代はすぐには従わなかった。スコップの柄を握る手が、白く固まっている。あの柄を握っていなければ、自分が何をしたか、何をできなかったか、考えずにはいられないのだろう。
真柴玲奈は、佐久間の手帳を胸の前に抱えていた。
救助隊員が彼女の体を支えようとしたとき、真柴は最初にその手帳を差し出した。自分の手が震えていることに気づき、すぐに引っ込める。そして、もう一度、胸に抱え直した。
「これは、私が持ちます」
声はかすれていたが、はっきりしていた。
北村はその手帳を見た。
防水紙の表紙。角の擦り切れた観測手帳。佐久間が雪洞の中で何度も開き、何度も閉じたもの。彼が最後に、戻ってきたら返してください、と真柴に渡したもの。
戻ってきたら。
あの嘘は、まだ雪洞の中に残っている。
「北村さん」
救助隊員がもう一度言った。
「歩けますか」
北村は自分の手を見た。手袋の指先が切れていた。ロープを握ったせいで、手のひらに痛みがある。だが、そんな痛みはどうでもよかった。
「佐久間は」
声がうまく出なかった。
救助隊員は一瞬だけ黙った。
その沈黙だけで、北村には十分だった。
「捜索しています」
「場所は」
「発煙筒の付近に反応がありました。別隊が向かっています」
「俺も行く」
「無理です」
「行く」
北村が立ち上がろうとした瞬間、膝から力が抜けた。救助隊員が支える。北村はその腕を振り払おうとしたが、できなかった。体が自分のものではないようだった。寒さと空腹と疲労が、今になって一斉に押し寄せてきた。
「北村さん、あなたも要救助者です」
「俺は隊長だ」
「だから、生きて出てください」
その言葉は正しかった。
正しすぎて、北村は反論できなかった。
外に出た瞬間、白が目を刺した。
雪は弱まっていた。完全にやんだわけではないが、風は昨日までの暴力的な勢いを失っている。空は灰色で、雲の切れ目などない。ヘリのローター音が頭上から降ってくる。発煙筒の赤い煙は、もうほとんど薄れていた。それでも、白い世界の中に赤い痕跡が残っている。
佐久間がつけた傷だった。
雪洞から二十数メートル先、岩場の手前に黒い点が見えた。
人影ではない。救助隊員の装備かもしれない。反射板かもしれない。北村は目を凝らした。隊員が彼の視線に気づき、体を支える腕に力を込めた。
「見ない方がいい」
「見る」
「北村さん」
「見る」
救助隊員は、それ以上止めなかった。
白の中で、二人の隊員が膝をついていた。彼らの間に、人の形があった。発煙筒はすでに消えている。片手が雪の上に投げ出され、その手袋の近くに、銀色の反射板が半分埋まっていた。
距離があるのに、北村には分かった。
佐久間だった。
佐久間修は、観測小屋ではなく、雪洞でもなく、雪の上で見つかった。発煙筒を焚き、ライトを振り、反射板を掲げ、救助隊に四人の場所を知らせた男は、戻る途中で倒れたのではなかった。
彼は、戻ろうとしていた。
ロープが切れたあとも、こちらへ向かっていたのだ。
雪面には、短い跡が残っていた。膝をついた跡。手をついた跡。途中で一度倒れ、また起き上がろうとした跡。
そこまで見て、北村は視界が歪んだ。
「隊長」
田代の声がした。
彼も見ていた。救助隊員に支えられながら、入口のそばで立ち尽くしている。田代の手にはもうスコップはなかった。代わりに、空になった両手を握りしめていた。
「俺が、行けばよかった」
田代は言った。
北村は答えなかった。
その言葉は、北村自身の中にもあった。俺が行けばよかった。もっと早く止めればよかった。手帳を取り上げておけばよかった。ロープをもっと太くしておけばよかった。結び目を変えておけばよかった。そもそも、この行程を中止していればよかった。
後悔は、雪より細かく、雪より多かった。
だが、そのどれもが、佐久間を連れ戻してはくれない。
ヘリに収容されるとき、高梨が泣きながら言った。
「佐久間さんは」
隊員は答えなかった。
高梨は何度も聞いた。
「佐久間さんは、後から来ますよね。別のヘリですか。そうですよね」
誰も答えなかった。
真柴が、高梨の肩に手を置いた。
「高梨くん」
「言わないでください」
「高梨くん」
「言わないでください。分かってます。分かってるんです。でも、言わないでください」
真柴はそれ以上言わなかった。
ただ、高梨の肩に手を置いたまま、佐久間の手帳をもう片方の腕で抱きしめていた。
北村はヘリの窓から外を見た。
雪洞が遠ざかっていく。
白い斜面に開いた小さな穴。赤い煙の薄い残り。岩場の近くに集まる救助隊員。佐久間が最後に立っていた場所。
そのすべてが、白に戻っていく。
雪は、証拠を消すのが早い。
だが、手帳がある。
北村は真柴の腕の中の手帳を見た。
佐久間が残した、食べたものと、食べたかったものの記録。誰かを責めるためではなく、誰も完全には壊れなかったことを残すための献立表。
ヘリの振動の中で、北村は目を閉じた。
眠ったのではない。
目を閉じなければ、白い景色の中に、いつまでも佐久間の背中が見えてしまう気がした。
◇
病院の天井は、白かった。
雪の白とは違う。均一で、温度があり、蛍光灯の光を受けて少しだけ黄ばんで見える白だった。北村はしばらく、その天井を見つめていた。白いものを見ると、胸の奥が小さく縮む。ここは暖かい。布団もある。点滴もある。医師も看護師もいる。酸素も、食べ物も、水もある。
それなのに、体はまだ雪洞の中にいた。
手を握れば、ロープの感触が蘇る。
耳を澄ませば、風が聞こえる。
目を閉じれば、赤い煙が白に引き裂かれていく。
「北村さん」
声をかけられ、北村は顔を向けた。
病室には、二人の男がいた。一人は所属機関の上席者。もう一人は事故調査の担当者だった。警察ではない。だが、状況によっては警察にも報告が行くだろう。死亡者が出ている。行程判断、装備、通信、食料配分、救助要請、すべてが検証対象になる。
北村は体を起こそうとした。
「そのままで結構です」
上席者が言った。
「体調は」
「問題ありません」
言った瞬間、自分でも嘘だと分かった。
調査担当者が小さくメモを取る。
「少し、確認をさせてください。つらいとは思いますが」
「構いません」
声は思ったより冷静だった。
冷静でいることに、北村は軽い嫌悪を覚えた。佐久間が死んだ。高梨は隣の病棟で点滴を受けている。田代は自分を責め続けている。真柴は手帳を放さない。それなのに、自分は質問に答えようとしている。
隊長だから。
その言葉が、便利な言い訳に思えた。
「遭難に至った経緯は、すでに救助隊から概略を受けています。詳細な報告書は後日で構いません。今お聞きしたいのは、佐久間修さんが外へ出た経緯です」
北村は呼吸を止めた。
担当者は続けた。
「救助隊の報告では、発煙筒と反射板による合図が確認され、それが雪洞発見の決め手になったとされています。佐久間さんは雪洞から約二十七メートル離れた地点で発見されました。右手に発煙筒、近くに携帯ライトと反射板。腰部にロープの痕跡がありましたが、途中で切断されていた」
二十七メートル。
それだけの距離だった。
人間が暖かい日に歩けば、十数秒で進める距離。子どもが駆けても大した距離ではない。病院の廊下なら、病室からナースステーションまでの半分ほどかもしれない。
その二十七メートルを、佐久間は戻れなかった。
「誰が、外へ出る判断をしましたか」
担当者が聞いた。
北村は目を閉じた。
ここで答えを間違えれば、佐久間の行動は別の意味を持たされるかもしれない。隊長の命令で外へ出たのか。自発的に出たのか。制止はあったのか。安全確保は十分だったのか。全員の体力が低下した中で、なぜ負傷者を外へ出したのか。
質問は正当だ。
だが、正当な質問が、死者に対して正しいとは限らない。
「私です」
北村は言った。
上席者が眉を動かした。
「北村さん」
「最終的な責任は私にあります。私は隊長です」
「責任の所在を聞いているのではありません。事実を」
「事実です」
北村は担当者を見た。
「佐久間が外へ出ることを、私は止めきれなかった。それは、私の判断ミスです」
「命令したのですか」
「命令はしていません」
「では、自発的に」
「そう書けば、佐久間だけが勝手に動いたように見える」
北村の声が少し荒くなった。
「違います。あれは全員の状況の中で起きたことです。通信が一瞬入り、救助隊が近くにいる可能性があった。風が弱まる時間があった。入口付近では合図が見えにくかった。誰かが外へ出る必要があった。私が行こうとした。田代も行こうとした。真柴も選択肢に入れた。高梨も名乗り出ようとした。佐久間だけが、外へ出たいと言ったわけではありません」
担当者のペンが止まった。
北村は続けた。
「だが、実際に出たのは佐久間です。止められなかった。ロープをつけた。戻れと命じた。戻ってこいと命令した。それでも戻れなかった」
言葉にすると、事実はあまりにも貧しかった。
戻れなかった。
そこには、佐久間が怖いと言ったことも、帰りたいと言ったことも、母親の冷えたご飯を思い出していたことも、全員の朝食を手帳に書いたことも含まれない。
担当者が静かに聞いた。
「食料の状況についても確認します。救助時、残存食料は非常用食料の一部のみ。負傷者である佐久間さんに追加配分をした記録があります。ほかの隊員から異議はありましたか」
北村は答えようとした。
その時、病室の扉が開いた。
真柴玲奈が立っていた。
入院着ではなく、病院が用意した簡易の上着を羽織っている。顔色は悪い。唇にも血の気がない。それでも歩いてきたのだろう。片手に、佐久間の手帳を持っていた。
「その質問には、手帳を確認してください」
真柴は言った。
上席者が立ち上がった。
「真柴さん、まだ安静に」
「短時間で済ませます」
彼女は病室に入り、担当者の前に手帳を置いた。
「佐久間さんの記録です。気象、食料、体調、会話内容。すべてではありませんが、あの場で何があったかが残っています」
担当者は手帳を見た。
「拝見しても」
「はい。ただし、これは事故調査資料である前に、佐久間さんの遺品です。扱いには注意してください」
真柴の声には、医療担当としての冷静さとは別の硬さがあった。
担当者はうなずき、手帳を開いた。
北村はベッドの上で、それを見ることができなかった。だが、ページの内容は覚えている。佐久間の字。細く、整った、記録者の字。
担当者が読み上げることはしなかった。
ただ、何度かページをめくり、ある場所で手を止めた。
真柴が静かに言った。
「そこです」
担当者は黙って読んだ。
一日目夜。粉末スープ一包を五等分。全員摂取。
高梨、牛丼の話。田代、納豆ご飯。真柴、サンドイッチ。北村、焦げたトースト。
佐久間、冷えたご飯と味噌汁。
二日目朝。ビスケット五等分。全員摂取。高梨、残そうとする。真柴、食べさせる。
備考、食べたという事実は残る。
二日目昼。食事なし。味噌汁の具について話す。じゃがいも、玉ねぎ、豆腐、大根、わかめ。
備考、昼は忘れられなかった。
二日目夕。粉末スープ半包。佐久間、追加摂取。北村命令。
田代、禁句を言う。高梨、自分も考えたと告白。真柴、浮かんだものまで裁けば人間はいなくなると言う。
備考、全員まだ人間。
担当者の指が止まった。
彼は顔を上げなかった。
真柴は続けた。
「誰かを見捨てる話はありました。人間なので。空腹で、寒くて、救助が来るか分からなかった。田代さんは言いました。高梨くんも、自分の中に同じ考えが浮かんだと認めました。北村さんも、佐久間さんを多く食べさせる判断をしました。私も医療担当として、それに賛成しました」
北村は真柴を見た。
彼女はまっすぐ立っていた。
「けれど、誰も佐久間さんに外へ出ろとは言っていません。誰も佐久間さんを食料のために切ろうとはしていません。むしろ逆です。全員が止めた。全員が自分が行くと言った。佐久間さんは、それを分かっていて出ました」
担当者が手帳の最後の方を開いた。
三日目朝。
食料なし。
だが献立あり。
高梨、牛丼。
田代、納豆ご飯。
真柴、缶コーヒー。
北村、焦げたトースト。
佐久間、冷えたご飯と昨日の味噌汁。
備考。
朝食は、四人分でいい。
北村はその文字を見たくなかった。
だが、担当者がページを閉じる音が聞こえたとき、胸の奥がさらに痛んだ。見たくないのに、閉じられると、佐久間がもう一度いなくなる気がした。
「この一文は」
担当者が言いかけた。
北村は遮った。
「私が消しました」
「消した?」
「線を引いた。そんなことを書くなと命じた」
担当者はもう一度ページを開いた。黒く何度も引かれた線。その下に、まだ読める文字。
「なぜ消したのですか」
「認めたくなかったからです」
北村は答えた。
「佐久間が、自分を数から外そうとしていた。それを認めたくなかった。隊長としてではなく、ただの人間として」
病室は静かになった。
上席者が深く息を吐いた。
「手帳は、一時的にお預かりすることになります。ただ、写しを取り、原本はご遺族へ返却する形にします」
真柴はうなずいた。
「お願いします」
担当者は手帳を閉じた。
「もう一つ確認します。佐久間さんは、最後に何か言いましたか」
北村は目を伏せた。
佐久間の最後の言葉。
戻ってこい、命令だ。
了解。
それが、北村が聞いた最後の返事だった。
「了解、と」
北村は言った。
「私が戻ってこいと命じたら、佐久間は了解と言いました」
「それだけですか」
それだけではない。
僕はもう、朝食を済ませました。
食ってないだろ。
食べましたよ。みんなの話を。
北村は唇を噛んだ。
「それだけではありません」
担当者はペンを構えた。
「何と」
北村はしばらく黙った。
そして、首を振った。
「報告書に書く言葉ではありません」
担当者はペンを下ろした。
真柴が北村を見た。
北村はその視線を受け止められなかった。
◇
佐久間修の遺体は、雪洞から二十七メートル離れた岩場の手前で発見された。
右手に発煙筒。左手に携帯ライト。腰には切れたロープ。近くには反射板。外傷はあったが、直接の死因は低体温と推定された。彼が合図を送らなければ、救助隊は雪洞を発見するまで、さらに時間を要した可能性が高いと報告された。
報告書の言葉は、どこまでも正確だった。
正確であるほど、何かが欠けていた。
佐久間が怖いと言ったこと。
帰りたいと言ったこと。
冷えたご飯は嫌いではなかったと母に言えなかったこと。
高梨の牛丼を聞いて笑ったこと。
田代の納豆ご飯を手帳に書いたこと。
真柴の缶コーヒーを「熱すぎるもの」と記したこと。
北村の焦げたトーストを、黙って献立に加えたこと。
それらは報告書には載らなかった。
けれど、手帳には残っていた。
北村たちは、入院中に何度か顔を合わせた。
高梨はしばらく食事がうまく取れなかった。病院の朝食に出た味噌汁を見て、涙を流した。看護師が慌てて理由を尋ねると、彼は首を振り、すみません、熱いので、と答えた。味噌汁は熱くなかった。それでも彼には、湯気だけで十分だったのだ。
田代は佐久間の遺族に会いたいと言った。
上席者は、時期を見てからと止めた。今すぐ会っても、田代は謝罪を繰り返すだけだろう。謝罪は必要かもしれない。だが、謝罪される側の準備も必要だ。
「俺は、あの人に言わせた」
田代は北村に言った。
病院の廊下の隅だった。窓の外には町が見えた。車が走り、信号が変わり、コンビニの看板が明るく光っている。たった数日前まで、そんな風景を当たり前だと思っていた。
「あの人に、自分を人数に入れないでくださいって言わせたのは、俺です」
「違う」
北村は言った。
「でも、俺が言った。誰か一人、もう無理な奴がいるならって」
「あの場では、誰かが言った。お前じゃなくても、いつか誰かが言った」
「それで楽になれますか」
田代は北村を見た。
「隊長は、その言葉で楽になりますか」
北村は答えられなかった。
田代は笑った。笑いというより、自分を罰するための音だった。
「なら、俺も無理です」
そう言って、彼は窓の外へ視線を戻した。
真柴は退院の前日、北村の病室を訪れた。
手には、佐久間の手帳の写しがあった。原本は遺族へ返されることになっている。北村たちにも、必要な部分だけ写しが渡された。
「読みますか」
真柴が聞いた。
北村はベッドの上でしばらく沈黙した。
「今はいい」
「そうですか」
「お前は読んだのか」
「何度も」
「つらくないか」
「つらいです」
真柴は即答した。
「でも、読まない方がつらい」
北村は彼女を見た。
真柴は椅子に座り、写しの紙を膝の上に置いた。
「佐久間さんは、誰も責めていません」
「そうだな」
「誰も英雄にしていません」
「そうだな」
「ただ、食べたものを書いています。食べたかったものも」
「献立表だからな」
北村がそう言うと、真柴はわずかに目を伏せた。
「私は、あれを最初に聞いた時、少し変だと思いました。こんな状況で献立表なんて。でも今は、あれが一番正確な記録だった気がします」
「正確?」
「人間は、何を食べたかだけでなく、何を食べたいと思ったかで、その時の状態が分かるんだと思います」
北村は黙っていた。
「高梨くんは牛丼を食べたいと言った。田代さんは納豆ご飯。私は缶コーヒー。北村さんは焦げたトースト。佐久間さんは冷えたご飯と昨日の味噌汁。誰も、高級な料理を言わなかった」
「極限状態では、そういうものかもしれない」
「ええ」
真柴は手帳の写しに触れた。
「帰れる場所の味なんでしょうね」
北村の喉が詰まった。
帰れる場所。
佐久間は、そこへ帰れなかった。
けれど彼は、全員の帰れる場所を手帳に残した。
「北村さん」
真柴は言った。
「退院したら、朝食を食べてください」
「何だ、急に」
「食べられなくても、食卓に座ってください」
「医療指導か」
「そうです」
「ずいぶん詩的な医療指導だな」
「患者が面倒なので」
北村は少しだけ笑った。
笑ったあと、胸が痛んだ。笑ってしまったことに、罪悪感があった。
真柴はそれを見ていた。
「笑っていいと思います」
「簡単に言うな」
「簡単ではありません。でも、佐久間さんはたぶん、そういう記録を残したかったんじゃないですか」
「どんな記録だ」
「誰かがまた朝食を食べる記録です」
北村は答えなかった。
◇
退院の日、空は晴れていた。
白い雲はあったが、雪の白とは違った。輪郭があり、空の青を残している。北村は病院の玄関で迎えの車を待ちながら、その雲を見上げた。風は冷たかったが、痛いほどではない。息を吸うと、排気ガスと街路樹の匂いがした。
生きている場所の匂いだった。
自宅へ戻ると、妻が玄関で迎えた。
言葉は少なかった。何を言っても足りないし、何を言っても違う気がしたのだろう。ただ、彼女は北村の肩に手を置き、おかえり、と言った。
北村は、ただいま、と返した。
その二つの言葉だけで、体の奥が崩れそうになった。
娘はリビングにいた。
もう小学生ではない。焦げたトーストを作っていた頃より背も伸び、言葉も大人びた。だが、北村の顔を見ると、あの頃と同じように不安そうな目をした。
「お父さん」
「ああ」
「おかえり」
「ただいま」
娘は何か言おうとして、言えず、代わりにキッチンへ向かった。
「朝ご飯、作った」
北村は時計を見た。
午前十時を過ぎていた。
「もう朝じゃないだろ」
「いいの」
娘は背中を向けたまま言った。
「朝ご飯ってことにする」
食卓には、トーストが置かれていた。
少し焦げていた。
いや、少しではない。端が黒くなっている。中央はきつね色で、バターがところどころ溶け残っていた。皿の隅には、炒り卵と、切ったトマト。湯気の立つマグカップには、インスタントのスープが入っている。
北村は椅子に座った。
娘は向かいに座らず、キッチンのそばに立ったまま、皿を見ていた。
「焦げた。ごめん」
その言葉が、時間を壊した。
北村は目の前のトーストを見つめた。
小学生だった娘の声が重なる。焦げた。ごめん。まずい? 食べられる? お父さん、無理しなくていいよ。
あの時の北村は笑って、うまいと言った。
嘘だった。
けれど、今は。
北村はトーストを手に取った。
指先に温かさがあった。
それだけで、息が詰まった。
かじる。
焦げの苦味が最初に来た。次に、バターの塩気。パンの内側は少し柔らかく、口の中で崩れた。何でもない味だった。ありふれた、市販の食パンと、塗りすぎたバターと、焦げた端の味。
それが、どうしようもなくうまかった。
「お父さん?」
娘が心配そうに覗き込む。
北村は咀嚼しながら、うなずいた。
「うまいよ」
声が震えた。
娘の顔が歪んだ。泣きそうになり、それをこらえようとして失敗した。妻がキッチンの奥で顔を背けた。
北村はもう一口食べた。
焦げた苦味が、喉を通る。
スープを飲む。薄いコンソメの味がした。雪洞で五人で分けた粉末スープの味が、舌の奥に蘇る。高梨が「牛丼の味がします」と言った。田代が「するわけないだろ」と返した。佐久間が「今日は温かいです」と言った。
北村はマグカップを置いた。
食卓の上に、佐久間の手帳の写しを置くことはしなかった。
それは、まだ家族の朝食に混ぜていいものではないと思った。
けれど、北村の中には確かにあった。
三日目朝。
高梨、牛丼。
田代、納豆ご飯。
真柴、缶コーヒー。
北村、焦げたトースト。
佐久間、冷えたご飯と昨日の味噌汁。
娘が聞いた。
「本当に、おいしい?」
北村は少し笑った。
「本当に、うまい」
今度は嘘ではなかった。
◇
佐久間修の母親に会ったのは、それから十日後だった。
場所は、所属機関の応接室だった。遺族への説明という形だったが、北村には説明という言葉がひどく薄く感じられた。人の死を説明することなど、誰にもできない。できるのは、死に至るまでの事実を並べることだけだ。
佐久間の母親は、小柄な人だった。
白髪の混じった髪を後ろでまとめ、黒い服を着ていた。顔立ちは佐久間に似ていた。特に、何かを受け止めるときに、少しだけ目を伏せる仕草が似ていた。
北村、真柴、高梨、田代の四人が並んで座った。
誰も、うまく挨拶できなかった。
最初に頭を下げたのは北村だった。
「申し訳ありませんでした」
言葉は、それしか出てこなかった。
母親はしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「顔を上げてください」
北村は上げられなかった。
「お願いします」
その声に、北村はようやく顔を上げた。
母親は泣いていなかった。泣き尽くした後なのか、まだ泣く場所にたどり着いていないのか、北村には分からなかった。
「修は、役に立ちましたか」
その問いに、高梨が息を詰まらせた。
田代は拳を握った。
真柴は唇を結んだ。
北村は答えた。
「役に立った、という言葉では足りません」
「そうですか」
「佐久間さんがいなければ、私たちは見つからなかったかもしれません」
「そうですか」
母親は同じ言葉を繰り返した。
その声は、安心しているようにも、さらに傷ついているようにも聞こえた。
真柴が手帳を差し出した。
「佐久間さんのものです」
母親は両手で受け取った。
表紙に触れた瞬間、初めて表情が揺れた。
「修の字が、ありますか」
「あります」
真柴は言った。
「最後まで、記録していました」
「そうですか。あの子らしいです」
母親は手帳を開いた。
北村は目を伏せた。人の遺品を、遺族が読む瞬間を見ることはできなかった。だが、紙をめくる音が聞こえる。ゆっくり、丁寧に。母親は一枚ずつ、佐久間の字を追っている。
やがて、ページをめくる音が止まった。
どのページか、北村には分かった。
母親はしばらく何も言わなかった。
そして、小さく息を吸った。
「冷えたご飯」
その声は、独り言のようだった。
「昨日の味噌汁」
北村は顔を上げた。
母親は手帳を見つめていた。
そこには、佐久間が自分の献立として残した言葉がある。
佐久間、冷えたご飯と昨日の味噌汁。
「修は、これを覚えていたんですね」
母親は言った。
「私は、ずっと悪いことをしたと思っていました」
誰も口を挟まなかった。
「朝が早い仕事で、あの子が起きる頃には家を出ていました。ちゃんと作ってやれなかった。温かいものを食べさせてやれなかった。茶碗にご飯を入れて、鍋に味噌汁を残して、それで母親のつもりでいました」
母親の指が、手帳の紙を撫でた。
「嫌だっただろうと思っていました」
北村は佐久間の声を思い出した。
誰かが自分のために残しておいてくれたものは、冷えていても朝食なんです。
「佐久間さんは」
北村は言った。
母親が顔を上げる。
「嫌いではなかったと、言っていました」
母親の目が揺れた。
「そうですか」
「はい」
「そうですか」
彼女は手帳に視線を戻した。
そして、初めて涙をこぼした。
声は出さなかった。
ただ、涙が一粒、手帳の端に落ちそうになった。母親は慌てて指で拭った。佐久間の字が滲まないように。遺品を汚さないように。その仕草があまりに静かで、北村は胸を締めつけられた。
田代が突然、頭を下げた。
「すみませんでした」
母親は彼を見た。
「俺は、雪洞で、言ってはいけないことを言いました。誰か一人、もう無理な奴がいるならって。佐久間さんは、それを聞いていました。あの人が自分を人数に入れないでくださいと言ったのは、俺のせいです」
「田代さん」
真柴が小さく言った。
田代は頭を下げたまま続けた。
「俺は、あの人にそう思わせた。すみませんでした」
母親は長いあいだ、田代を見ていた。
それから、手帳のページをもう一度見た。
「ここに、あなたの朝食も書いてあります」
田代は顔を上げられなかった。
「納豆ご飯。からし、ネギ、玉ねぎの味噌汁」
母親は読み上げた。
「修は、あなたを責めるために、これを書いたのでしょうか」
田代は何も言えなかった。
「私は、そうは思いません」
母親の声は震えていた。
「修は、人を裁くのが苦手な子でした。何でも記録する子でした。でも、嫌いな人のことを、こんなふうには書かないと思います」
田代の肩が震えた。
「すみません」
彼はもう一度言った。
母親は首を横に振った。
「謝らないでください、とは言えません。私も、まだ何を許せばいいのか分かりません。でも、あなたが生きていて、修のことを覚えているなら、それで少しだけ、あの子が帰ってきた気がします」
高梨が泣いた。
今度は隠さなかった。
「俺、牛丼の話をしました」
彼は涙を拭わずに言った。
「佐久間さん、聞いてくれました。卵を途中で崩すって話も、紅しょうがを山盛りにするって話も。そんなくだらない話を、最後まで聞いてくれました」
「くだらなくありません」
母親は言った。
「修は、そういう話が好きでした」
「本当ですか」
「はい。食べ物の話を聞くのが好きでした。自分ではあまり話さないのに、人が何を食べたかはよく覚えていました」
高梨は両手で顔を覆った。
「食べます」
彼は言った。
「帰ったら、食べます。牛丼」
「はい」
「佐久間さんの分まで、とか、そういう綺麗なことは言えないです。でも、食べます。ちゃんと」
母親はうなずいた。
「それでいいと思います」
真柴は何も言わなかった。
ただ、手帳を見つめていた。
母親は最後のページを開いた。
三日目、生存四。救助完了。状態、維持。
備考、感謝。
それは、救助後に書かれたものではなかった。
佐久間が最後に書けたはずはない。では誰が書いたのか。北村は最初、分からなかった。だが、文字を見て気づいた。佐久間の字ではない。少し角ばった、慎重な字。
真柴の字だった。
北村は彼女を見た。
真柴は静かに言った。
「救助された後、私が書きました」
「なぜ」
「佐久間さんの記録を、終わらせたかったんです」
母親がページを撫でた。
「ありがとうございます」
真柴は首を振った。
「感謝するのは、こちらです」
母親はゆっくりと手帳を閉じた。
その音が、部屋に小さく響いた。
◇
数日後、北村は一人で牛丼屋へ行った。
高梨が行くと言っていた駅前の店ではなかった。自宅の近くにある、どこにでもあるチェーン店だった。昼時を少し外した店内は空いていて、カウンター席に数人の客がいるだけだった。
北村は牛丼を頼んだ。
特盛ではない。卵もつけなかった。紅しょうがも山盛りにはしなかった。
ただ、味噌汁をつけた。
運ばれてきた丼から、湯気が上がっている。肉と玉ねぎと醤油の甘い匂い。横に置かれた味噌汁は、具が少なく、やたら熱かった。
北村は箸を取った。
食べる。
ただ、それだけのことが、簡単ではなかった。
佐久間は食べられない。そう思うと、箸が止まる。だが、食べなければ、佐久間が手帳に残した献立は、ただの死者の記録になってしまう。
誰かがまた朝食を食べる記録。
真柴の言葉を思い出した。
北村は牛丼を口に運んだ。
甘い。
温かい。
当たり前の味がした。
当たり前の味は、失ってから分かる。
佐久間の言葉が、舌の上でほどけた。
北村は味噌汁を飲んだ。熱すぎて、少し舌を火傷した。高梨なら、これをうまいと言うだろう。田代なら、玉ねぎが入っていないと文句を言うかもしれない。真柴なら、温かいというだけで十分だと言うかもしれない。
佐久間なら、黙って聞いている。
そして、手帳に書く。
北村は店を出る前に、スマートフォンを取り出した。高梨に短いメッセージを送る。
牛丼を食べた。
味噌汁もつけた。
数分後、返信が来た。
俺は明日行きます。
卵つけます。
さらに少し遅れて、田代からも連絡が来た。
妻の納豆ご飯を食べた。
文句は言わなかった。
味噌汁は玉ねぎだった。
真柴からは夜に届いた。
缶コーヒーを買いました。
熱すぎました。
でも、飲みました。
北村はその三つのメッセージを見ながら、自宅の食卓に座っていた。
娘がまたトーストを焼いている。
今度は焦がさなかった。
焦げていないトーストを前に、北村は少しだけ困った。娘はそれを見て、不満そうに言った。
「焦げてた方がよかった?」
「いや」
「嘘」
「少しだけ」
娘は呆れた顔をした。
「次は焦がす」
「わざと焦がすな」
「難しいね」
「ああ」
北村はトーストをかじった。
焦げていないパンは、普通にうまかった。
だが、その普通のうまさの奥に、焦げた苦味が残っている気がした。雪洞の冷たさ。薄い粉末スープ。凍った栄養バー。高梨の牛丼。田代の納豆ご飯。真柴の缶コーヒー。佐久間の冷えたご飯。
それらすべてが、朝食という言葉の中に沈んでいる。
北村は、食べ終わってから窓の外を見た。
空は青かった。
雪は降っていない。
それでも、どこか遠くで、雪が音を食べている気がした。
北村は立ち上がり、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
佐久間の手帳の写し。
最後のページだけを、もう一度読む。
三日目、生存四。救助完了。状態、維持。
備考、感謝。
真柴の字だった。
けれど、北村には佐久間の声で聞こえた。
彼は最後まで、誰かを責める言葉を残さなかった。誰かを許すとも書かなかった。ただ、朝食の献立を書き、状態を記録し、備考に短い言葉を残した。
感謝。
誰から誰へのものなのか、北村には今でも分からない。
佐久間から四人へ。
四人から佐久間へ。
母から息子へ。
息子から母へ。
冷えたご飯から、焦げたトーストへ。
昨日の味噌汁から、明日の朝食へ。
たぶん、その全部なのだろう。
北村は紙を折り、引き出しに戻した。
食卓では、娘が皿を片づけている。キッチンからは水の音がする。妻が何かを尋ね、娘が短く答える。どこにでもある朝の音。雪に食べられず、ちゃんと耳に届く音。
北村はその音を聞いていた。
そして、心の中でだけ言った。
佐久間。
今日も、朝が来た。
了
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
『氷の国の朝食』は、雪山での遭難という極限状況を描きながら、最後まで書きたかったのは「食べること」でした。
人は空腹になると、ただ食料を求めるだけではなく、かつて食べたものを思い出します。
家の味噌汁、焦げたトースト、納豆ご飯、缶コーヒー、牛丼。
どれも特別な料理ではないのに、帰る場所や、待っている人や、生きてきた時間と結びついた瞬間、それは命をつなぐ記憶になるのだと思います。
佐久間が残したものは、英雄的な言葉ではなく、献立表でした。
誰が何を食べたかったのか。
誰が何を思い出して、人間でいようとしたのか。
その記録こそが、この物語の中心です。
極限の中では、誰も完全に正しくはいられません。
けれど、完全に壊れないように、誰かの朝食の話を聞くことはできる。
誰かの帰りたい場所を、覚えておくことはできる。
この物語が、そんな小さな祈りとして届いていたら嬉しいです。
もし少しでも心に残る場面がありましたら、感想・評価・ブックマークなどで反応をいただけると励みになります。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




