第二章 朝食の話をしよう
朝が来たことを、誰も喜ばなかった。
雪洞の中に陽は差さない。入口は雪で塞がり、外の光は厚い白の向こう側で死んでいた。ランタンを消せば、そこは夜よりも深い闇になる。時計の針だけが、朝という言葉にかろうじて意味を与えていた。
午前六時三十二分。
北村航平は、腕時計の文字盤を見てから、ゆっくりと顔を上げた。
全員、生きている。
まずそれを確認した。
田代剛は入口のそばで座ったまま眠っていた。眠っているというより、意識を落としていると言った方が近い。片手はスコップの柄に置かれ、何かあればすぐに掘るつもりでいたのだろう。だが、その手は白く強張り、指先に力は入っていなかった。
高梨悠斗は毛布にくるまり、膝を抱えている。目は開いていた。眠れなかったのだろう。唇の色が悪い。口元だけが何かを噛むように小さく動いている。
真柴玲奈は壁にもたれ、記録用のペンを握ったまま目を閉じていた。眠っているように見えるが、北村が身じろぎした瞬間、彼女の瞼が開いた。医療担当らしい反応だった。眠りの底に落ちきることを、彼女自身が許していない。
佐久間修は、北村の斜め向かいに座っていた。
起きていた。
膝の上に手帳を置き、何かを書いている。ランタンの明かりは弱く、文字が読めるほどではないはずだった。それでも佐久間は、手元に目を落とし、小さくペンを動かしていた。
「寝たのか」
北村が低く尋ねると、佐久間は顔を上げた。
「少し」
「嘘だな」
「少しは寝ました」
「嘘を薄めても嘘だ」
佐久間は困ったように笑った。
その顔色を見て、北村は胸の奥を冷たくした。昨夜より悪い。唇の色も、頬の血の気も、目の焦点も。明らかな異変ではない。だからこそ嫌だった。静かに、確実に、体の内側から温度が失われている。
真柴が佐久間の方へ膝で近づいた。
「体温を測ります」
「さっき測りました」
「私が測ります」
佐久間は逆らわなかった。
真柴は小型の体温計を取り出し、防寒着の襟元を少し開けさせた。佐久間が身じろぎする。右の脇腹に痛みが走ったのだろう。真柴の目がわずかに細くなった。
「痛みは増えていますね」
「寒いせいです」
「寒さで痛みが説明できる範囲を超えています」
「医療担当は厳しいですね」
「患者が嘘をつくからです」
佐久間は黙った。
高梨が毛布の中から顔を出した。
「佐久間さん、大丈夫なんですか」
誰もすぐには答えなかった。
その間が、かえって答えになった。
「大丈夫です」
佐久間が言った。
「その大丈夫、信用しないって隊長が言ってました」
「では、まだ手帳に字が書けます」
「それ、大丈夫の基準なんですか」
「僕の中では」
高梨は何か言いたそうに口を開いたが、結局黙った。彼の視線は佐久間から床へ落ちた。そこには、残りの食料がまとめて置かれている。
栄養バーの残り。非常用ビスケット。粉末スープ二包。ブドウ糖タブレット。飴。
量は、昨夜よりも明らかに少なく見えた。実際には粉末スープを一包使っただけだ。だが、一度食料として認識したものは、目が量を覚えてしまう。減ったことを、体より先に心が知る。
「朝の分を配る」
北村は言った。
田代が目を開けた。
「もう朝ですか」
「時計の上ではな」
「外は?」
「変わらない」
田代は入口の板に耳を寄せた。外の音を聞こうとしている。だが、聞こえるのは風の遠い唸りと、雪がどこかで動く低い気配だけだった。
「掘りますか」
「今は掘らない」
「入口の状態だけでも確認した方がいい」
「崩れる危険がある」
「待ってたって、向こうから見つけられるか分からないでしょう」
田代の声には、昨夜にはなかった硬さが混じっていた。
「それでも、今は待つ」
北村は言った。
「燃料と体力を温存する。天候が少しでも落ち着いてから、入口を確認する」
「天候が落ち着くのはいつです」
田代は佐久間を見た。
佐久間は少しだけ首を傾け、壁の向こうの音を聞くようにした。
「午前中は無理です。気圧の変化が早すぎる。昼過ぎに一度、風が弱まるかもしれません」
「かもしれません、か」
「断言できる状況ではありません」
「便利な言葉ですね」
「田代」
北村が名を呼ぶと、田代は口を閉じた。
田代は悪い男ではない。北村はそれを知っている。頼りになる。普段は無駄口が多くても、現場では手を抜かない。誰よりも重い荷物を持ち、誰よりも早く入口を掘った。だが、空腹と寒さは人間から順番に余裕を剥いでいく。最初に剥がれるのは、礼儀だった。
「ビスケットを分ける」
北村は袋を手に取った。
非常用ビスケットは硬く乾いていた。割ると、小さな粉が床に落ちる。高梨の視線が、その粉まで追った。北村は見ないふりをした。
五つに割る。
同じ大きさにはならない。
北村は少し大きく見える欠片を佐久間の前に置いた。真柴がそれに気づき、無言で見返してきた。北村は視線を逸らさなかった。
佐久間も気づいた。
「隊長」
「食え」
「僕の分が少し大きいです」
「気のせいだ」
「目はまだ使えます」
「なら、黙って食え」
佐久間は困ったように息を吐いた。だが、その欠片を返そうとはしなかった。返せば、北村の判断を否定することになる。それも分かっているのだろう。
五人はビスケットを食べた。
乾いた塊が歯に当たる。噛めば噛むほど、粉になって口の中に広がった。味は薄い。甘くも、塩辛くもない。食べ物というより、食べられる何かだった。それでも、胃に落ちる感覚があるだけで救いだった。
高梨は欠片を半分だけかじり、残りを手の中に隠した。
「高梨」
真柴が言った。
「全部食べてください」
「あとで食べます」
「今、食べてください」
「でも、あとで腹が減ったら」
「あとで腹が減るのは、全員同じです」
真柴の声は冷たかった。だが、責めているわけではなかった。彼女は高梨の恐怖を正確に見抜き、それを許さないことで彼を保とうとしている。
「今、食べたという事実が必要なんです」
「事実」
「ええ。体より先に、頭が壊れます。何も食べていないと思い込むと、人は判断を失います」
高梨は手の中の欠片を見た。名残惜しそうだった。北村は、その気持ちがよく分かった。今、食べるより、未来に残しておきたい。たとえそれが、ほんの一口にも満たないものでも。
未来に何かが残っているという感覚が、人を支える。
高梨は目を閉じ、残りを口に入れた。
「……食べました」
「はい」
「何も変わりません」
「変わります」
「ほんとですか」
「少なくとも、あなたは今、嘘をつかずに食べたと言えます」
高梨は少しだけ笑った。
「真柴さん、励ましが独特ですね」
「苦手なので」
「分かります」
田代が自分の分を一息で食べ終え、指についた粉をなめた。その仕草を、彼自身が恥じたように手を握った。
「こんなの、食ったうちに入らないだろ」
吐き捨てるような声だった。
誰も返さなかった。
田代は自分で言った言葉に苛立ったのか、入口に体を向けた。
「少しだけ掘ります」
「駄目だ」
「確認だけです」
「駄目だと言った」
「じゃあ、このまま待ってるんですか。食料をちびちび削って、祈りながら座ってるだけですか」
北村は田代を見た。
田代の目は赤かった。眠れていない。寒い。腹も減っている。入口を見張るという役割を自分に課していたことで、かろうじて落ち着いている。何もしない時間が、彼には一番きついのだろう。
「昼過ぎに風が弱まる可能性がある」
北村は言った。
「その時に入口を確認する。それまでは体力を使わない」
「その昼は忘れろって言ったの、隊長でしょう」
高梨が小さく息を呑んだ。
真柴が田代を見た。佐久間は視線を下げている。
北村は怒鳴らなかった。怒鳴れば田代は一瞬黙るかもしれない。だが、そのあとに残るのは、隊長が感情で押さえつけたという事実だけだ。
「言った」
北村は答えた。
「昼飯は忘れろと言った。だが、昼の作業は忘れていない」
田代は口をへの字に曲げた。
「うまいこと言いますね」
「うまくなくていい。従え」
沈黙が落ちた。
田代は数秒間、北村を睨んでいた。それからスコップを床に置き直した。
「了解」
硬い声だった。
雪洞の中の温度は、少しずつ人間の形を削っていった。
午前中、彼らはほとんど話さなかった。体力を温存するためでもあり、話せば食料の話になることを全員が知っていたからでもある。高梨は時々、腹を押さえた。田代は入口を見つめ続けた。真柴は記録をつけ、時間ごとに全員の状態を確認した。
佐久間の体温は、わずかに下がっていた。
「三十五度台に入りかけています」
真柴は北村だけに聞こえる声で言った。
「危険か」
「すでに危険です」
「できることは」
「保温。安静。温かいものを飲ませる。食べさせる。痛みを抑える。外傷が内側で悪さをしていないか確認する」
「ここでできることは」
真柴はわずかに目を伏せた。
「少ないです」
北村は佐久間を見た。
佐久間は手帳を胸元にしまい、目を閉じている。眠っているようにも見える。だが、真柴が近づくと、すぐに目を開けた。
「聞こえました」
佐久間が言った。
真柴は表情を変えなかった。
「聞こえるように言っていません」
「耳はまだ使えます」
「厄介ですね」
「すみません」
「謝らなくていいです。謝る体力があるなら、黙って温まってください」
佐久間は素直にうなずいた。
北村はそのやり取りを見ながら、自分の中に浮かんだ可能性を握り潰そうとした。
五人全員が同じ速度で弱っているわけではない。
この事実は、極限状態では残酷な意味を持つ。弱い者に合わせれば全体が遅れる。弱い者を切れば残りが進む。山でも、海でも、災害現場でも、その問いはいつも形を変えて現れる。北村は訓練で何度も学んだ。だが、学んだことと、自分の部下に当てはめることは別だった。
佐久間を人数から外す。
そんな考えを持った瞬間、北村は自分の頬を殴りたくなった。
昼になっても、外の音は変わらなかった。
時計が十二時を過ぎた時、高梨がぽつりと言った。
「忘れるって、難しいですね」
誰も反応しなかった。
「昼って思うと、腹が減るんですよ。時計見なきゃよかった」
「見るな」
田代が言った。
「もう見ちゃいました」
「じゃあ忘れろ」
「隊長と同じこと言わないでくださいよ」
「隊長が正しいこともたまにはある」
北村は無言で田代を見た。田代は視線を逸らした。少しだけ空気が柔らかくなった。
高梨は毛布の端をいじりながら、しばらく黙っていた。
「味噌汁の具って、何が一番いいと思いますか」
「またその話か」
田代が呆れたように言った。
「考えないようにすると、逆に考えるんです。だったら、ちゃんと話した方がましじゃないですか」
高梨は自分に言い聞かせるように続けた。
「俺はじゃがいもです。昨日も言いましたけど」
「玉ねぎだな」
田代が言った。
「じゃがいもと玉ねぎ、両方入れれば最強じゃないですか」
「そこに油揚げが入れば完璧だ」
「田代さん、分かってますね」
「お前よりはな」
真柴がペンを止めた。
「私は豆腐です」
「真柴さん、急に参戦しますね」
「味が安定しています」
「医療担当らしい理由だ」
「食感もいいです。熱い味噌汁の中で、豆腐だけ少し温度が違う」
高梨が目を丸くした。
「真柴さん、ちゃんと味噌汁好きなんじゃないですか」
「嫌いとは言っていません」
「コンビニサンドイッチの人なのに」
「サンドイッチの日もあります。味噌汁の日もあります」
田代が北村を見る。
「隊長は」
「大根」
「渋いですね」
高梨が言った。
「薄く切った大根が、少し透けているくらいがいい」
「隊長、意外と語りますね」
「悪いか」
「いえ、助かります」
「何がだ」
「隊長も人間なんだなって」
北村は返す言葉を探したが、見つからなかった。
佐久間が小さく笑った。
その笑いに、高梨が気づいた。
「佐久間さんは」
「僕ですか」
「はい。味噌汁の具」
佐久間は少し目を閉じた。
「昨日の残りなら、何でも」
「それ、ずるいですよ。具を聞いてるんです」
「では、わかめ」
「普通ですね」
「普通が一番残りやすいです」
佐久間の言葉に、高梨が首を傾げる。
「残りやすい?」
「鍋の底に、最後まで一枚だけ残っていたりするでしょう」
「ああ、ありますね」
「それを探すのが好きでした」
雪洞の中に、奇妙な温かさが流れた。
彼らは食べていない。
昼は忘れるはずだった。
それでも、味噌汁の具を選ぶだけで、喉の奥に湯気の記憶が立ち上がる。高梨の目は少しだけ生気を取り戻し、田代の肩の力も抜けた。真柴は記録用紙の端に何かを書いた。北村にはそれが見えた。
会話あり。意識清明。食物記憶への固着傾向。
医療記録としては正しいのだろう。だが、北村にはその一文がやけに寂しく見えた。
「佐久間さんの朝食って、冷えたご飯なんですよね」
高梨が言った。
「はい」
「温めなかったんですか」
「子どもの頃は、電子レンジの使い方をよく分かっていませんでした」
「鍋の味噌汁は?」
「そのままです」
「お腹、壊しません?」
「壊しませんでした」
田代が眉を寄せた。
「母親は?」
言ってから、田代はしまったという顔をした。踏み込みすぎたと思ったのだろう。
佐久間は気にした様子を見せなかった。
「朝が早い仕事でした。僕が起きる頃には、もう家にいませんでした」
「父親は」
「いません」
短い答えだった。
田代はそれ以上聞かなかった。
佐久間は手袋をはめたまま、両手を見下ろした。
「茶碗にご飯が入っていて、鍋に味噌汁が残っている。それだけです。置き手紙がある日もありました。ない日もありました。いただきますと言っても、返事はない」
高梨は黙って聞いていた。
「でも、誰かが自分のために残しておいてくれたものは、冷えていても朝食なんです」
その言葉は、雪洞の中で静かに落ちた。
大げさな言い方ではなかった。泣かせようとする響きもなかった。佐久間はただ、自分の知っている事実を述べただけだった。だからこそ、北村には効いた。
焦げたトーストを思い出した。
娘の小さな手。黒く焦げたパンの端。皿の上で溶けかけたバター。あれも、誰かが自分のために用意した朝食だった。うまいかどうかではない。栄養があるかどうかでもない。自分のためにそこに置かれている。それが、人を朝に引き戻す。
「いいですね」
高梨が呟いた。
「何がですか」
「冷えてても朝食っていうの」
佐久間は少しだけ困ったように笑った。
「いい話に聞こえるなら、寒さのせいです」
「そういうことにしときます」
午後一時を過ぎた頃、風の音がわずかに変わった。
最初に気づいたのは佐久間だった。彼が顔を上げ、入口の方を見た。北村も耳を澄ませた。確かに、低い唸りが少し遠のいている。
「今なら、入口を確認できます」
佐久間が言った。
田代はすでにスコップを握っていた。
「俺がやります」
「全員でやる必要はない」
北村は言った。
「田代、俺と二人で見る。真柴は佐久間と高梨を見ていろ」
「俺も手伝えます」
高梨が言った。
「座っていろ」
「でも」
「座っていろ」
強く言うと、高梨は口を閉じた。
入口の内側の雪は、予想以上に硬く締まっていた。田代がスコップで削り、北村が崩れた雪を後ろへ送る。少し掘るだけで息が上がった。雪洞の中の酸素が薄くなるような感覚がある。汗をかけば冷える。分かっていても、体は熱を逃がそうとする。
十分ほど掘って、外側の雪に空気の流れが生まれた。
冷たい風が細く入り込む。
田代が隙間から外を覗いた。
「見えますか」
真柴が聞く。
「何も」
田代は言った。
「白いだけです」
北村も覗いた。
白。
あまりにも白く、距離感がない。入口の前には、昨日よりはるかに高く雪が積もっていた。斜面の形も変わっている。観測中継小屋があるはずの方向には、何の影もなかった。ポールも見えない。アンテナも見えない。
北村は発信機を隙間から少しだけ外へ向けた。
反応は弱い。
「無線」
田代が短く言った。
北村は無線機を取り出し、外へ向けた。
「こちら冬季調査班、北村。聞こえるか。現在、緊急退避用雪洞内。負傷者一名。食料、燃料ともに限りあり。応答願う」
雑音。
「こちら冬季調査班、北村。応答願う」
雑音。
その中に、一瞬だけ、人の声のようなものが混じった。
高梨が顔を上げた。
「今、何か」
北村は手で制した。
「こちら北村。聞こえるか」
返ってきたのは、風の音だった。
田代が歯を食いしばった。
「もう一回」
「バッテリーを温存する」
「今、声がしたでしょう」
「確実じゃない」
「確実じゃなくても」
「田代」
北村は無線機をしまった。
「今はここまでだ。入口を閉める」
「閉める?」
「開けたままだと冷える。雪も入る」
「せっかく掘ったのに」
「細い空気穴は残す。人が出入りできるほど開けておく必要はない」
田代は不満げだったが、従った。
入口を再び補強し、冷気の流入を抑える。作業が終わる頃には、北村の指先は痺れていた。田代も息が荒い。たったこれだけの作業で、体力をかなり使ったことが分かった。
戻ると、真柴が佐久間の脈を取っていた。
「どうだ」
北村が聞くと、真柴は即答しなかった。
それだけで悪いと分かる。
「脈が少し弱いです。痛みも増えている」
「内出血か」
「可能性はあります。断定はできません」
「できることは」
「温めることです」
同じ答えだった。
北村は粉末スープの袋を見た。
残り二包。
今飲ませれば、夜の分が減る。夜まで待てば、佐久間の体温はさらに落ちる。
判断は、食料の配分だけではない。誰をどのタイミングで生かすかという問題に近づいていく。北村はその言い方を頭の中から消した。生かす順番などない。全員だ。
「スープを作る」
北村は言った。
「夜の分は」
田代が反射的に言った。
言った直後、彼は自分の口を押さえるように黙った。
誰も責めなかった。
責められない。田代の言葉は、全員の頭のどこかにあった。
「半分だけ使う」
北村は袋を手に取った。
「半分を佐久間に飲ませる。残りは夜に回す」
「僕は大丈夫です」
佐久間が言った。
「黙れ」
北村の声は、自分でも驚くほど低かった。
佐久間は目を伏せた。
「はい」
粉末スープを半分だけ使うのは難しかった。袋の中身は細かな粉で、手袋をしたままでは均等に分けられない。真柴が袋を受け取り、慎重に半量を別の紙に移した。その動作を全員が見つめる。
粉だ。
ただの粉なのに、その量に命の重さが乗っている。
湯を作るために燃料を使う。雪を溶かす。カップに入れる。薄い湯気が上がる。佐久間はカップを受け取り、両手で包んだ。
「全部飲め」
北村が言った。
「五人で」
「これは命令だ」
佐久間はしばらくカップを見つめていた。それから、一口ずつ飲んだ。最後まで飲み干し、空のカップを北村に返した。
「おいしいです」
「味がするほど濃くない」
「温かいので」
その言葉に、高梨が顔を背けた。
羨ましさを隠したのだと、北村は分かった。高梨は優しい。だから、自分が羨ましいと思ったことに傷ついている。
田代も同じだった。彼は入口の方を向き、何も言わない。だが、喉が動いた。唾を飲み込んだのだろう。
真柴は佐久間の体温を再び測り、記録した。ほんの少しだけ、数値は戻っていた。
「効果はあります」
「ほんの少しでもか」
「はい」
北村はうなずいた。
その時、田代が言った。
「いつまで、ほんの少しを続けるんですか」
誰も動かなかった。
田代は入口を見たまま続けた。
「責めてるんじゃないです。ただ、聞いてるんです。食料も燃料も少ない。救助がいつ来るかも分からない。負傷者がいる。全員同じ量で分け続けるんですか。それとも、状態を見て変えるんですか」
「田代」
真柴が静かに言った。
「それは今、言うべきではありません」
「いつならいいんですか」
田代は振り返った。
「全員がもっと弱ってからですか。誰かが意識を失ってからですか。言いにくいことを後回しにすれば、状況が良くなるんですか」
高梨の顔が青ざめた。
「やめましょうよ」
「やめて何になる」
「そういうの、今」
「今だからだろ」
田代の声が少し大きくなった。
「俺だって言いたくない。でも、誰かが考えなきゃいけない。隊長が考えてるのは分かってる。でも口にしない。真柴さんも分かってる。でも医療担当だから言えない。佐久間は」
そこで田代は言葉を切った。
佐久間が、田代を見ていた。
責める目ではなかった。
だからこそ、田代は苦しそうに顔を歪めた。
「すみません」
田代は言った。
「でも、もし誰か一人、もう無理な奴がいるなら」
「黙れ」
北村の声が雪洞の壁に当たった。
田代は黙らなかった。
「その分を、残りに回す判断も」
北村は立ち上がろうとした。真柴が腕を掴んだ。強い力だった。
「駄目です」
「離せ」
「殴っても解決しません」
「こいつは」
「田代さんは、まだ最後まで言っていません」
真柴の声は震えていなかった。だが、掴む手には力が入りすぎていた。
高梨は泣きそうな顔で田代を見ていた。
「田代さん、そんなの」
「分かってる」
田代は額に手を当てた。
「分かってるんだよ。俺だって、自分が何を言ってるかくらい」
雪洞の中が、息を止めた。
その沈黙を破ったのは、佐久間だった。
「田代さんは、悪いことを言ったんじゃありません」
全員の視線が彼に集まった。
佐久間は壁にもたれたまま、静かに続けた。
「みんなが考えないようにしていたことを、言葉にしただけです」
「佐久間」
北村は低く言った。
「それ以上言うな」
「はい」
佐久間は素直にうなずいた。
「ただ、言葉にすると、少し形が変わります」
「形?」
高梨が聞いた。
「頭の中にある時は、もっと醜いものに見える。でも言葉にして、みんなで見れば、違う扱い方ができるかもしれません」
「扱い方なんてあるんですか」
「分かりません」
佐久間は小さく息を吸った。
「でも、今ここで一番危ないのは、空腹そのものより、誰かが誰かを黙って恨み始めることだと思います」
誰も返せなかった。
北村は、真柴の手が自分の腕から離れるのを感じた。彼女もまた、佐久間の言葉が正しいと分かっているのだろう。
田代は床に視線を落とした。
「すまない」
それは誰に向けた謝罪なのか分からなかった。佐久間にか。北村にか。全員にか。自分自身にか。
高梨が小さく言った。
「俺、田代さんを責められないです」
田代は顔を上げた。
「腹減ってるから、俺もたぶん、どっかで考えてました。考えたくないけど。誰かが食べなかったら、自分の分が増えるんじゃないかって、一瞬だけ」
高梨の声は震えていた。
「最低ですよね」
「最低ではありません」
真柴が言った。
「そういう考えが浮かぶことと、それを実行することは違います」
「でも、浮かんだんです」
「浮かんだものまで裁いたら、ここに人間はいなくなります」
真柴の言葉に、佐久間が少しだけうなずいた。
北村は深く息を吐いた。
怒りはまだ残っていた。田代を殴りたいという衝動も消えていない。だが、その奥に、自分自身への嫌悪があった。田代だけが悪いのではない。北村も考えていた。佐久間の状態を見ながら、食料の量を見ながら、無意識に計算していた。
隊長という肩書きは、心の中まで清潔にしてくれるわけではない。
「ルールを決める」
北村は言った。
全員が彼を見た。
「食料と燃料は、俺が管理する。ただし、配分は真柴の医療判断を聞く。誰かを見捨てるための話はしない。誰かを生かすための話だけをする」
田代がうなずいた。
「了解」
「言いたいことがある時は言え。黙って恨むな。だが、言葉を選べ」
「……了解」
「高梨」
「はい」
「自分を最低だと思うな。思った瞬間に、余計に崩れる」
「はい」
「佐久間」
「はい」
「お前も、自分を数から外すようなことを考えるな」
佐久間はすぐに答えなかった。
北村はその沈黙を見逃さなかった。
「返事」
「はい」
「もう一度」
「考えません」
嘘だ。
北村はそう思った。だが、今はその嘘を受け取るしかなかった。
その後、しばらく誰も話さなかった。
空気は重かったが、さっきまでとは違っていた。見えないものが一度言葉になったことで、雪洞の中に潜んでいた影が少しだけ輪郭を持った。輪郭を持てば、完全な暗闇ではなくなる。怖さは消えない。だが、どこにあるかは分かる。
夕方近くになり、彼らは残り半分の粉末スープを飲んだ。
今度は五人で分けた。
カップの底にほんの少しずつ。湯気も弱い。味はほとんどない。それでも高梨は目を閉じて飲んだ。
「牛丼の味がします」
「するわけないだろ」
田代が言った。
「します。想像力です」
「便利だな」
「貸しましょうか」
「いらん」
「田代さんには納豆ご飯の味がしますよ」
「それは少し欲しいな」
高梨が笑った。
その笑いは、泣くのを我慢している声に似ていた。
佐久間はカップを持ったまま、しばらく飲まずにいた。
「飲め」
北村が言うと、佐久間はうなずいた。
「はい」
彼は一口飲み、少しだけ目を細めた。
「何の味がする」
高梨が聞いた。
「昨日の味噌汁です」
「冷えてるやつですか」
「今日は温かいです」
高梨は何か言おうとして、やめた。
夜が近づくにつれ、再び寒さが増した。
燃料は残り少ない。ランタンの明かりも絞った。雪洞の中は薄い闇に沈み、互いの顔も輪郭しか見えなくなった。外ではまだ風が鳴っている。ときどき無線を試したが、応答はなかった。発信機のランプは弱く点滅している。届いているのか、届いていないのか、誰にも分からない。
高梨が眠り、田代も目を閉じた。真柴は記録をつけていたが、そのペン先は何度も止まった。北村は入口のそばに座り、スコップを手の届く場所に置いた。
佐久間が、胸元から手帳を取り出した。
北村はそれを見た。
「また記録か」
「はい」
「食べたものか」
「それも」
「見せろ」
佐久間の手が止まった。
北村は自分の声が命令に近いことを自覚していた。だが、今は見なければならないと思った。佐久間が何を考えているのか。何を書き残そうとしているのか。そこに、彼自身を人数から外すような言葉があるなら、今すぐ消させる必要がある。
佐久間は迷ったあと、手帳を差し出した。
北村はランタンの近くで開いた。
観測記録が並んでいた。時刻、風向、推定風速、気温、雪洞内の状態、無線状況。丁寧な字だった。気象担当らしい客観的な記録が続いている。
だが、途中から別の項目が混じっていた。
一日目夜。粉末スープ一包を五等分。全員摂取。
高梨、牛丼の話。田代、納豆ご飯。真柴、サンドイッチ。北村、焦げたトースト。
佐久間、冷えたご飯と味噌汁。
北村はページをめくった。
二日目朝。ビスケット五等分。全員摂取。高梨、残そうとする。真柴、食べさせる。
備考、食べたという事実は残る。
二日目昼。食事なし。味噌汁の具について話す。じゃがいも、玉ねぎ、豆腐、大根、わかめ。
備考、昼は忘れられなかった。
二日目夕。粉末スープ半包。佐久間、追加摂取。北村命令。
田代、禁句を言う。高梨、自分も考えたと告白。真柴、浮かんだものまで裁けば人間はいなくなると言う。
北村はそこで手を止めた。
さらに下に、一行あった。
備考、全員まだ人間。
北村は顔を上げた。
「なんだ、これは」
佐久間は少しだけ笑った。
「献立表です」
「献立表?」
「何を食べたか。何を食べたかったか。何を話して、人間でいようとしたか」
「ふざけているのか」
「いいえ」
佐久間の声は静かだった。
「ふざけていません」
北村は手帳を閉じなかった。
ページの文字が、ランタンの光の中で浮かんでいる。備考、全員まだ人間。その一文が、胸に引っかかった。
「こんなものを残してどうする」
「分かりません」
「分からないものを書くな」
「分からないから、書いています」
佐久間は北村を見た。
「ここで何があったか、あとで誰かが読むなら、食料が足りなかったことだけではなく、足りない中で何を守ろうとしたかも残っていてほしい」
「それは報告書に書く」
「報告書には、朝食の話は載りません」
北村は返せなかった。
佐久間は続けた。
「誰かが悪かった、という記録にしたくないんです」
「誰も悪くないとでも言うつもりか」
「悪いかどうかを決める前に、寒かったことと、腹が減っていたことと、それでも誰かを食料の量だけで見ないようにしていたことを残したい」
北村は手帳を握る手に力を入れた。
「お前は、自分のこともそう書くつもりか」
「僕のこと?」
「佐久間、俺は言ったはずだ。自分を数から外すな」
佐久間は目を伏せた。
「はい」
「その手帳は、そういうものじゃないのか」
「違います」
「本当にか」
佐久間は少しの間、黙っていた。
そして、答えた。
「今は、違います」
その正直さに、北村は余計に腹が立った。
「今は、とは何だ」
「未来のことを、今の僕が断言するのは嘘になります」
「なら嘘をつけ」
北村は低く言った。
「ここでは、必要な嘘がある」
佐久間は北村を見た。
ランタンの明かりが、その目の奥に小さな光を作っていた。
「隊長の焦げたトーストと同じですか」
北村は言葉を失った。
佐久間はすぐに頭を下げた。
「すみません」
「謝るな」
「でも、失礼でした」
「失礼だ」
「はい」
北村は手帳を返そうとした。だが、その前にもう一度だけページを見た。
備考、全員まだ人間。
その文字は、どこか祈りに似ていた。
北村は手帳を佐久間に返した。
「勝手に死ぬ準備をするな」
「はい」
「これは命令だ」
「はい」
「献立表を書くなら、五人分書け」
佐久間の表情が少しだけ動いた。
「はい」
その返事だけは、さっきよりわずかに確かだった。
北村は壁にもたれ、目を閉じた。
眠れるわけがないと思った。
しかし、体は本人の意思より先に限界を知っていた。雪洞の闇、風の音、空腹、冷え、佐久間の手帳。すべてが遠のいていく。焦げたトーストの匂いがした。娘の声がした。まずい、と聞かれた。うまい、と答えた。
嘘だった。
けれど、生きるための嘘だった。
北村が眠りに落ちる直前、ペンの走るかすかな音が聞こえた。
佐久間が、まだ何かを書いている。
止めなければならないと思った。
だが、体は動かなかった。
雪は外で降り続けていた。昼を忘れ損ねた五人を包み、朝食の記憶だけを残して、音も、時間も、少しずつ食べていた。




